イギリスの場合、プロの騎手は貧困あるいは下層階級の出身者である。だが、成功者は豊かな収入を得て上層階級(成り上がり金持ちを含めて)と交わる機会が増える。
階級と言う言葉を定義しようとするとたちまち困難に逢着するようなものだが、イギリスほどかっちりした状況にない日本でも事情は変わらない。
自分の技量で人気と収入を得る他のプロ・スポーツ選手や芸能人の場合もおなじである。
しかし、貴族や社会の有力者そして成り上がり(つまり彼のちょっと前に成功してのし上がった連中)からは常に蔑視の目で見られている。それがイギリスのプロ騎手の立ち位置である。
そして自分の下には多くの下済みの競馬社会の関係者がいる。
この立ち位置、あるいは遠近法的視点がリアルに描かれているのがディック・フランシスの描く社会のなかにおける競馬サークルであり、そこが読みどころである。そこが、彼の小説に立体感を与える。
歴史上の経緯から社会がごった煮になっているせいだろうか、日本の小説ではあるいは恐ろしいタブーでもあるのか、登場人物全員が小学校のホームルームみたいに差別がなくて現実感がない。困ったものである、小説としては。
ポリフォニーという言葉があるが、フランシスの小説を読む楽しみは各自の立ち位置が厚みをもってゴシック建築のように一つの立方体として描かれているのを見ることである。
イギリスでは現在では海軍の退役少将でも貴族の末席に連なることができ、建設労働者でも経済的に成功して大企業の経営者になれば上院議員にもなれるし、卿と呼ばれるようになることもフランシスの小説を読むと分かる。
昔、日本にも落語というものあった。落語家は都市下層階級の視点を一瞬もずらすことがなかった。そういう視点が安定感を与え、立体感、生活実感を、懐かしさを与えた。
現在の日本にも落語家を名乗る者はいるが、落語は存在しない。