穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

5-6:外国の例

2018-08-24 08:38:53 | 妊娠五か月

 麻耶はドッコイショとおばあさんのような掛け声をかけてソファから立ち上がった。

「仕事をしなくちゃ」というと部屋中に散らばった本や雑誌の整理を始めた。

 平敷はパックから煙草を一本抜き出すと大きなマッチ箱から取り出したマッチ棒で箱の横腹を擦って火をつけた。手を振って火を消すとコーヒーカップにマッチを放り込んだ。どうも今考えているテーマはうまくまとまりそうもない。最初はひねりの利いたテーマでまとめられそうな気がしたが、どうもうまくまとまらない。放棄してほかのネタを探したほうがいいのかもしれない。

  精神鑑定で異常がなくて責任能力があると診断された人間がいきなり利害関係も怨恨もない相手を殺傷するという現象を気の利いた通奏低音でまとめてみようという試みはうまくでっち上げられそうもない。今までは国内の例ばかり見てきたが外国の例も調べたほうがいいかもしれない。半分しか吸っていない煙草をコーヒーカップに放り込んだ。まだコーヒーが残っていたらしくジューという音がした。

  ただし信念による犯罪は別だ。テロなんて言うのは別に考えないといけないかもしれない。しかし、外国での例でテロにしても相手側の権力機関を狙うのではなくて民間の建物とか、一般の通行人を襲うというのが最近は多い。犯行声明ではテロを宣言するがそれなら対象も選ばないと首尾一貫しないな、と彼は考えた。

  しかし、一応外国の例も調べたほうがいいだろう。彼は財布から一万円札を引き出すと麻耶をそばに読んだ。一万円を渡すと、書店で外国の通り魔事件や大量殺人事件のノンフィクションを探してくれ、と頼んだ。小さな書店だとあまりこういう本は置いていないだろうから大きな書店だ探すように言った。「大書店では大抵ノンフィクションというコーナーがあるからね。大抵はその中で事件とか犯罪とかいうのがまとめてあるから。書店によってはノンフィクションのコーナーは著者別になっている。こういうところはわかりにくいからパスしたほうがいい」

「急ぐの、今日中に要るの」

「いや急がない。今度来るまでに買ってきてほしい。あんまりこういう本はないだろうから見つからなければかまわないから」と彼は言った。窓の外は日が陰ってきた。「通り魔事件にも二種類あるな」と彼はまた考えた。一つは辻斬り型だ。これは捕まらないことを前提にしている。ほかには犯行後自殺するか自首する、あるいは逮捕されることを前提としている。辻斬り型は今回は対象外だ。ところで通り魔事件は道連れ殺人ととらえることもできる。そうすると心中なんてのもこの中に入ってくる。太宰治なんてのは心中未遂二件、既遂一件だ。しかも心中の相手が三件とも違う。これも調べてみるか、と彼は考えた。麻耶は太宰治が好きかなと考えた。若い女はだいたい太宰にあこがれる。いやいや止めておこう。そこまで手を広げることもなかろうと彼は結論した。

「もう帰ってもいい」と麻耶が聞いた。「ああいいよ。ご苦労さん」

 ハンドバッグをソファから掬いあげると彼女はドアをあけた。どういう靴を履いているのか、下駄のような音を響かせて廊下を去っていく音がエレベータホールの前で止まった。

 


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