ウィトゲンシュタイン(以下W)の論理哲学論考のタイトル表記はスピノザの「神学政治論」の真似であると前回書いた。もう一つスピノザの真似をしているのに気が付いたのだが、叙述のスタイルはスピノザのエチカをまねている。箇条書きで公理から定理、結論へと展開していく。
Wはユダヤ系だった。100パーセントじゃなかったと思うが、50パーセントか25パーセントかぐらいだったか。スピノザは100パーセント、ユダヤだったので、その辺の親近感もあるのかもしれない。
元来公理から理論を展開して行くやり方は哲学にはなじまない。数学や幾何学と違うのだから。もしこのやり方を試みるなら公理の立て方から慎重な計画を立てるべきである。スピノザのエチカは読んだことはあるが、大分昔のことですっかり忘れているが、公理の立て方にはそれほど奇異な点はなかったようだ。あれば違和感が記憶として残っている筈である。
このやり方をした本でかろうじて後世に余命を保っているのがエチカぐらいなのをみてもそのことが分かる。
公理をたてるなら誰にでも反対できないように自明な公理、定義が必要である。さて、論理哲学論考のなかの一例をあげる。論考の -1-にはこうある。
「世界は成立していることがら(case)の総体である。」
この文章の中で「世界」という言葉ほど人によって、場合によって意味する内容が違う言葉はない。どの場合の世界なのか定義すべきである。また「ことがら」とはなんぞや。これだけでは大学センター入試でも通らないのではないか。翻訳が悪いのではない。原文ではcaseであるが、これも曖昧至極である。まさか「ことがら」から成り立っているのが世界だなどとアクロバットなことを言うのではあるまい。それでは「なにも言っていることに」ならない。
論理哲学論考の解説書や講釈書には、それはこういう意味ですよと解釈しているものがあるが、本当かな、と首をかしげる。-1-を読んでなるほど、と思う人がいるのかな。