穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

60:トイレに行きたい

2021-05-11 06:40:40 | 小説みたいなもの

「あせらないことですよ」と医者は言い残して出て行った。しばらくすると看護婦が朝食のトレイを持って入ってきた。看護婦なんだろうか。それとも食事の世話をするのは別の付き添いみたいな女性なのだろうか。彼女は彼の体をベッドに固定していた革ひもを解くと可動式のベッドの背もたれを起こして彼が食べやすいようにした。なんだか訳の分からない色をした汁を掬ったスプーンを彼の口元に持ってきた。幼児になったようで彼は恥ずかしくなって自分で食べると主張した。

「まだ無理じゃないの」と彼女はしわがれた声で言った。そうだな、汁物はこぼすかもしれないと思い、彼は箸を取り上げて煮魚をちぎって自分の口に運んだ。半分ぐらいは胸の上に広げられたナフキンの上に落ちた。

「やっぱりまだ無理よ」というのを無視して彼はすこしずつ食べ物を口に運ぶ練習を続けた。二回目からは大分調子が戻ってきた。皿の上の物を半分ぐらい食べるともう食べられなかった。

 看護婦が彼の汚れた口を拭った。

「そうだ、トイレに行かなくちゃ」

彼女は強情な患者を呆れたようにみた。彼の排尿管はホースでベッドの横の小便溜めに直結している。

「そこにすればいいじゃないの」

「いや、トイレでする」と彼は言い募った。

「恥ずかしいの」

なにをいいやがる、歩行練習だよ。二日後の帰還に向けて足腰を試して準備しておく必要がある。ペガサスが迎えに来ても動けなければどうにもならない。この強情そうな融通の利かない中年女を説得しなければならない。彼はベッドを下りようとして床に転げ落ちた。

「ほらほら、言わないことじゃない」

「ちょっと肩を貸してくれ。今のはタイミングが狂っただけだ」

「彼女は肩をいれて彼をベッドの上に戻した。力のある女だ。

「トイレに行くから手伝ってくれ」

「そんなことしたら先生に怒られてしまう」

「先生になんて言う必要はない。お礼はするよ」

彼女は根負けしたように「じゃあ、車椅子を持ってきましょうか」

彼は考えた。そうだな、女に寄りかかって病院の廊下を歩くのは目立つかもしれない。車椅子で往来するほうが病院では自然かもしれない。

 彼女は持ってきた車椅子の上に患者を放り上げるとトイレまで押していった。彼女は中には入れない。男便所だから、痴女でも無い限り女は入れない。もっとも痴女なら入ってもいいということでもないが。彼はよろよろと車いすを離れて立ち上がると壁につかまりながら便所に入った。

トイレに入ると彼は壁に手をつきながら休み休み、そろりそろりと中を一周した。幸いなことにトイレには誰もいない。意思の力のほうが大きかったのだろうが、脚力がだんだんと回復してきたようだ。彼はもう一回トイレの中を一周した。あと二、三回練習すればなんとかなりそうだ。男子トイレの外で待っていた彼女は彼を車椅子の乗せると病室まで戻った。

 



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