「この本に犯人の母親が妊娠中にしきりにおろしたがったというところがあるわね、それでさっきあんなことを聞いたの」
「まあ、そうだ。妊娠初期からそういう何というかな微かな不安を感じさせる兆候があったのか。ある程度胎児が成長して人格というかな、胎格というべきかな、自己主張というか、そういうものが出てくる時期があるのかな、なんてね」
麻耶は考え深そうな顔をして「そういえば妊婦はよく妊娠五が月なんていうことを話題にするわね。一か月が四週間とちょっとでしょう。22か月と5か月はだいたい同じじゃないかな」
「五か月というのは節目なのかな。胎児の聴覚も5か月ぐらいには完成しているとか聞いたことがある。よく知らないが胎教というのはいつごろから始めるのかな」
しらないわ、と麻耶は言った。
「これも後でインターネットで調べてみよう」と彼はメモに書いた。「だけどその本ではいつごろから母親がそんなことを言い出したか書いていないだろう」
「そうみたい」
「うかつな話だぜ」
「それで結局は父親が反対しておろさなかったって書いてある」
その話はともかくとしてさ、と彼は話題を転じた。「ウーマンリブの行きつく先を書いたような小説がある。『素晴らしき新世界』という本を読んだことがあるかい」
「誰が書いたの」
「オルダス・ハクスレイだ。医学の進歩は素晴らしい。将来は出産は母体の外で行われる。つまり受精から胎児の成長、出産がすべて実験室というか牧場というか、そういう施設で実施される。国の管理のもとでね」
麻耶は熱心に聞いていた。
「だから産休ちょうだい、とおねだいりするとか、出産を機会に会社を辞めなければならないのはけしからん、なんて難癖もつけなくなる」
「それは言いすぎだよ、おじさんは差別主義者だからね」
「そこでだ」というと平敷は煙草に火をつけた。
「残るは育休問題の解消だ。科学工場で出産したというか生産された幼児は国の運営する牧場で成人まで集団で育てられる。育休問題は解決だ」
「それが素晴らしき新世界というわけなの」
「そうじゃないか」
「ふーん」と言った麻耶は得心がいかないようであった。
「いまの生命科学の進歩からするとそう遠い将来のことではないな。しかしね、こんな世界は本能に反する。あるいは神の摂理に反する。かならず従来通り自分の膣から子供をひりだしたい女がいる。そういう女性が隠れて自分で出産すると犯罪として摘発される。最大の破廉恥罪として逮捕されて強制収容所に送られる。彼女は高圧電流が流れる鉄条網で囲われた収容所で一生を過ごさなければならない」
「本当にそんなことが書いてあるの、その小説に」
「ああ、そうだよ」