これは本書全12章のうちで最低の章でしょう。村上春樹氏が社会問題(学校教育制度)や政治問題(福島事故など)について幼稚な珍説を開陳しています。小説家が政治問題や社会問題あるいは時事問題について意見をのべることは間々見かけますが餅屋は餅屋というか、水準以下の議論が多い。
もちろん、小説家、文学者でインパクトのある、発信力のある発言をするひとも中にはいます。洋の東西を問わず、主張の方向を問わず。日本では石原慎太郎等が該当するでしょう(眉をしかめないこと)。
村上氏が自分の学校時代の思い出を語っているところは「なるほど、なるほど」と思って読めます。
福島の原発事故は効率優先のためだと言う。それを言うなら短期的な効率優先視点というべきでしょう。村上先生が「クリーンエネルギー」主義のドイツの今回のフォルクスワーゲンの詐欺行為をどう論評しますかね。これはやがて明らかになるでしょうか、メルケル政権とドイツ自動車産業の官民談合詐欺ですよ。世界中にこの手の弊害は掃いて捨てるほどあるでしょう。すくなくとも「日本の教育制度の欠陥」に主要原因があるがごとき幼稚な議論を展開すべきではない。
あまりにも単純化した幼稚な感覚で、まるで民主党や社民党の公約のコピペのようなことを言うべきではない。恥ずかしいことです。
他の箇所で「いじめや登校拒否」の問題を論じている。たしかに、彼の言う様に昔(曖昧な表現でごめんなさい)はこんな現実はなかった(目立たなかった)し、こんな言葉すらなかったように記憶しています。
この傾向の原因は村上氏によれば停滞段階に入った日本社会の変化に教育制度がついていっていないということらしい(私の意訳です)。ことはそれほど単純化できるとは思えない。いじめとは本来外部に向けられるべき人間が本来持っている攻撃性が集団内部に向う攻撃性であり、家畜の群れによく見られる現象です。
家畜とは外部(人間)に管理される集団であり、人間の飼育規格にあわない個体は淘汰されるようになっている。そして人間の意志を体現するために内部管理者のような個体(番頭みたいなものですな)があらわれる。つまり平均的な規格にあわない個性の強い個体は家畜のなかのリーダーの音頭でいじめを通して淘汰される。
戦時中でも捕虜収容所で捕虜の中から取り締まりや監視の手先を採用するのが普通です。ソ連による日本兵のシベリア抑留に豊富な事例が見られます。
学校でのいじめにはこの例の方がよく当てはまるでしょう。いじめということば、あるいはそれに類似する事例は戦前から戦後にかけてあまり報告されていないと思います。
つまり極めて現代的で日本特有の現象のようです(私もここで村上流の断定口調となる。ご容赦を)。
さて口直し、次の章はもっとマシなようです。請うご期待を。