あるときは女の子に寝顔が可愛いと言われたこともある。きっと田園の夢を見ている時であったのだろう。父親の鱒添林次郎は「だんだん悪くなっていくようだ」と冷徹に科学者として三四郎のことを観察していた。まるで自分の行っている実験を科学者として観察しているようであった。
三四郎の状態は弁証法的に推移していたのである。ちょっと日が射すこともある。又すぐにどんよりと黒雲に覆われてしまうのである。そのスパイラルは新しい局面には上昇しないのである。おなじところを行ったり来たりしていた。そんななかで高校三年生になり、大学受験に失敗してしまった。家にいることは耐えられないので神保町の近くにあった予備校に通った。これで昼間は家にいなくても立派な理由になる。授業は半分くらいしか出なかった。予備校の授業もよく分からないのである。
もっとも、古文とか国語とか漢文は授業を聴かなくても分かっていて退屈なだけだった。英語の授業は興味があったが、講師がその年に芥川賞をとった生意気な田舎者まるだしの中年男で、予備校生を馬鹿者扱いにするので受講するのをすぐに止めてしまった。
自然昼間は街をほっつき歩いて夕方家に帰ってくるようになった。母親に家族とは別に食事を作ってもらって早々と自室に籠ってしまう。
神保町の書店街にはよく行った。ほとんど本は買わなかった。小説なんかは読んでもよく分からなかったのでもっぱら立ち読みであった。神保町の大書店はそういう連中には都合がいい。街の小さな書店だと本のバラエティも少ないし、立ち読みをしているとすぐにオヤジがそばまで来てハタキをかけだす。三四郎には不思議な癖があって、やたらに書棚から本を引き抜き帯を読むと、内容を2、3頁眺めただけで書棚に戻し、隣の本を引き抜く。片っ端から書棚に並んだ本を引っこ抜くから書店員が良い顔をしないのである。おまけにほとんど買わないから余計嫌われる。
そんなことをしていたらある日後ろから「鱒添君じゃないか」と声をかけられた。振り向くと高校時代の同級生だった平島であった。彼は現役で東大の文学部にはいっていて、二年近く合っていなかった。
「何処に入ったの」喫茶店の席に落ち着くと平島が聞いた。三四郎が現役で同じ学校を受けて落第したことは知っていたが、その後何処かの大学に入ったのだろうと思っていたのだろう。
「まだ浪人をしている。坂の上の予備校に通っていることになっているけど、よくさぼってこの辺にくるんだ」
平島はなにか何冊か本を買ったらしく書店の紙袋を下げていた。
「いま何を専攻しているの」
「心理学さ」
「それは心理学の本かい、今日買ったのは」と三四郎は聞いた。
「うーん、そうとも言えないな」というと平島は買った本を取り出してテーブルの上に並べた。文庫本で4、5冊の分冊になっている本で「金枝編」とタイトルが書いてある。
「聞いたことのない書名だな。そのタイトルじゃ内容の見当もつかない。哲学の本なのか」と三四郎は聞いた。岩波文庫の青帯だったから多分哲学関係の本だろうと思ったのである。
平島はコーヒーに砂糖を入れるとかき回した。「人類学の本というかな、大分古い本でね。世界各地の未開民族の習慣やら迷信を蒐集した本なんだ」
「へえ未開民族の風習か」
「未開民族だけでもないけどね。たしか最初の方にはイタリアとか古いヨーロッパの習俗の分析もあるそうだ。わりと有名な本らしい。先生に勧められたんだけどね。ちょっと癖のある本ではあるらしいんだ」
「面白そうじゃないか」と三四郎は答えた。
1時間あまり取り留めも無い話をしたが、分かれる時に平島は「また時々合おうよ、電話番号は変わっていないのか」と確かめると「その内に電話するよ」と分かれて行った。高校時代と同じで、大抵の時間黙っている三四郎にテープレコーダーに向っての様に平島は話し続けた。そういう話がしやすい相手なのだろう。またそういう話を時々する必要があったのだろう。