女主人が思いついたように口を開いた。
「夏目さん、いい機会だからあなたの経験も先生に診断していただいたら」
「そういえば、さっきあなたは心理療法士のカウンシルをお受けになったとか」と橘氏は第九のほうを見た。
「そう、エレベータのなかで原因不明の発作を起こしましてね、卒倒したんです」
「へえ、それで?」
「会社の命令で会社の契約している産業心理士のところへ行かされました」と言いながら第九は珍奇な黒ずくめの小さな「心理療法士」のことを思い出して眉をしかめた。
「どういう症状だったんですか」と橘さんは興味を持ったようだった。
「満員のエレベータのなかでいきなり卒倒したのです」
「それだけですか? なにか特記するような異常な状況はなかったのですか」
「そうですね、二人の老婆が後から無理矢理に押し込んできましてね。異様に熱いと感じた体を押し付けてきた。ものすごい白粉のにおいをさせてね。それだけが記憶に残っていますね」
「エレベーターの中で気分が悪くなるようなことはそれまでにも何回もあったんですか」
「いや無いでした」
「それで心理士の見立ては」
「閉所恐怖症ではないか、というようでした」
クルーケースの男が口を挟んだ。「わたしは臭気アレルギーではないかと言ったんですよ。アレルギー検査を勧めたんですけどね。行きましたか」
「いや、すっかり忘れていましたよ」
橘さんはしばらく考えていたが、白粉だけではなくて臭気には敏感なほうなんですか」
第九はちょっと考えてから「たしかにそういう傾向はありますね。嗅覚は非常にするどいほうですよ。ほかの人が感じないような臭いにいち早く気が付くことがある」
「幻臭ではなくて?」
「ゲンシュウとは」
「いやあまり使わない言葉ですが、幻覚とか幻聴とかいう、ない音が聞こえるとか」
「ああ、なるほど。幻聴なんて言うのは失調症の一症状らしいですね。いや私の場合は幻ではなかったですね。自分では犬並みだと思ったことがある。生理の女性なんか、人が分からなくても分かるときがある」
「証拠があったんですか」
「まあね」
「あらいやだ」と長南さんが嫌悪を示した。
「気をつけなくちゃ」と女主人が言った。
橘さんは顎を撫でた。「ほかに特に不快に思うにおいがありますか」
第九は考え考え答えた。
「女性のつけすぎた香水ね。香水の付け方も知らない女が安香水をじゃぶじゃぶ振りかけているのも嫌ですね」
「いや、まったくそういう女性が増えましたな」と下駄顔が失笑した。
「香水の選択にも教養が現れますからな」と禿頭老人が補足した。
「大体、腋臭とか体臭のきつくない日本人が香水を使う必要はない。それもじゃぶじゃぶ振りかけるなんて悪趣味だ。香水のに匂いというのは彼氏にだけ分かればいいものだ。体温が0.5度上昇して香水がほのかに蒸発する。私準備OKよという合図を50センチ先にいる彼氏に送るのが香水の仕事ですよ」
「そういえば」と第九が気が付いたように言った。「男が臭い水をつけているのも反吐がでるね。オーデコロンだかなんだか、柑橘系だとかいって振りかけているのがいる」
「いやだね」
電車の中でそういう男が隣に座ると席を移りたくなるね」
「そういえば、このあいだ、路上でジョギングしている半裸の男性とすれ違ったがこいつが臭水のにおいを発散させていた。ジョギングをするまえに振りかけたらしい。理解不能だな」
橘さんが思いついたように発言した。「たしかに臭気アレルギーということもありうるが、どうも女性恐怖症ではないかな」
「どうしてです」とびっくりしたようにクルーケースが反問した。
「白粉とか香水というのは女性を連想させる。それとも女性嫌悪症かもしれない」
「そんな病気があるんですか」と女主人が不信感をあらわにして疑わしそうに聞いた。
「あります。女性恐怖症はgynophobiaといいます。女性嫌悪症はmisogynyです」