昭和初頭に書かれたこの本はプロレタリア文学の代表作、傑作、金字塔なのだそうであります。したがって主義者文学なのであります。描写力はありますが、共産主義のためという目的がありますから、はっきりとした枠と言うか、構造というか、制約があります。
これは今で言うとノンフィクション・ノベルとでもいう趣きでありますが、どの程度実際の取材に基づいているのかな、と思いました。もっとも当時は取材の自由等思いもよらなかった時代ですから、そこは斟酌しなければなりません。
作者小林多喜二は小樽かどこかの銀行員だったわけで、蟹工船に乗り込んだ人間から取材をしたのか、なにか当時でもルポルタージのような参照できる文書があったのか。いわゆる種本でありますが、この点は作者も文庫の解説者もまったく触れていません。現代的感覚で言うと妙な感じのする所です。
蟹工船というのは、読んだ所では(別に他の資料をあたったわけではありませんので)、操船をする船長、船員、船大工(修理工)、漁師(実際にカニを捕る人)そして船上で漁獲した蟹から蟹缶詰を作る労働者の一群ということになる。この労働者たちが描写の中心で、ま、船の上の工場労働者というわけです。
この労働者達はぽん引き(風俗業のではありません、当時は炭坑とかこういう船の労働者を、甘言を持って連れて来て口銭を貰う人間をぽん引きといった、夏目漱石の坑夫を参照)、に連れてこられた連中で様々な経歴の人間達です。もと炭坑労働者、学生、北海道の奥地(当時北海道は奥地だったらしい)で鉄道施設の過酷な労働をしていたもの、東北の貧農の次男三男とさまざまです。
そして非常に重要な役割を小説で果たすのが浅川「監督」であります。これは水産会社?商事会社?(多喜二の表現では「丸の内」)に傭われた労務監督であります。かれが「労働者」と直接対決してかれらを「虐待、使役」するわけで、小説は、もっぱら丸の内の手先である浅川と缶詰工の間の緊張を描いている。この辺は「シー・ウルフ」のウルフ・ラーセン船長と似ているが、ラーセン船長ほど知性がある訳ではなく、複雑な性格をもっているわけではない。
浅川は資本主義、植民地搾取(これは多喜二の言葉だが何故植民地云々が出てくるのか分からない、むりやりに小説作成を指導した共産党幹部の指示と思われる*)の手先であり、労働者に取っては資本主義の権化として描かれている。この辺は小説のなかでは最後は資本家の機械的な操り人形として描かれているわけで、欠点(一般的にいえば)であり、プロレタリア文学の立場からすれば小説のキモということになるのでしょう。
* 文庫の後書きを書いた人物はたしか当時の共産党幹部で多喜二も執筆の途中で上京して訪ねて指導を受けたり、手紙、はがきで度々指示を仰いでいたことが「後書き」にも出てくる。
ついに我慢出来なくなった労働者達は団結して浅川に抗議します。浅川は労働者達が予想していた様に激高することもなく、いつも振り回していたピストル(今の表現では拳銃というのかな)を撃つでもなく、ただ穏やかに「いいんだな、後悔しないな」と言う。怒った労働者は彼を殴り倒す。そこへ船団を護衛していた日本海軍の駆逐艦が近づき、首謀者達を逮捕する。浅川は無線で反乱鎮圧を駆逐艦に打電要請していたのであります。
それで反乱もシュンとなる。ところが後日談があって、反乱を起こさせた監督不行き届きで浅川は丸の内から解雇されてしまう。ようするに浅川監督も所詮は丸の内の雇われで身分は保障されていないということになっているが、小説としてはどうかな、不徹底じゃないかな。最後まで虐待の王として君臨させておかないとインパクトが弱くなると考えるがどうだろう。
しかし、カニ缶詰工の悲惨な有様は迫力をもって描かれているから普通の読者(プロレタリア文学が対象とする)はそんなことには気が付かないかもしれない。十分に宣伝啓蒙効果はあったのだろう。
そういえば、この小説を高校時代に読んだのを思い出した。海軍駆逐艦の護衛付きでカムチャッカ、樺太(サハリン)沖で漁をしていたというくだりが記憶を蘇らせた。次回は海軍と蟹工船の関係について触れたい。今回はまた長くなったのでここまでにする。
& 補足:岩波文庫の解説者は蔵原惟人という人で、新潮文庫の解説もこの人が書いていますね。
確認したい点があって書いた後でインターネットでしらべたのですが、蟹工船は2008年に若い人たちの間でちょっとしたブームになったそうですね。知りませんでした。それなら、あまり詳しく粗筋を紹介する必要もなかったのかも知れません。すっかりマイナーな本だと思ったので詳しく書きすぎたかな。