穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ガード下

2023-01-24 07:53:48 | 小説みたいなもの

 これまで知覚共有者、(いや知覚侵入者というべきかな。一方的だから)を彼と言及してきたが、今後はX氏としよう。まだ性別は不明である。一応成人と思われる。連日Xの帰宅経路をたどってカレの家を探し回ったせいだろうかか。何というか紐帯と言うまではいかないが、知覚の連絡経路が安定してきたようだ。安定した、と言うのは語弊がありあまり適切とは言えないかもしれない。ある夜遅くXが帰宅時(たぶん勤務先からの)に立ち寄るらしいバーが大友秀夫の知覚に飛び込んできた。
 今度はそのバーを当たってみようと日中の市内放浪の日課を終えて暮れなずむころに探索に出かけた。鉄道のどこかの駅のガード下にある店でアウトサイダーと言う店だ。どうも周囲の情景からT駅の南側らしいと見当をつけて探した。すぐにその店を見つけた。俺は私立探偵の資格があるな、と思った。日が短くなり、午後六時には早くもあたりは薄暗くなってきたが、店は開いていた。中を覗くとまだ客は一人も入っていない。彼はいかにも通りすがりに店を見つけたという体(テイ)でのれんの下から顔を突っ込んだ。
「もうやってるの」
「はい、どうぞどうぞ」とカウンターの前に手持無沙汰な様子で立っていた女が急いで愛想笑いをした。35歳くらいの丸顔のホステスだ。直系40センチくらいのお月さまみたいにまん丸い顔が短い首で肩の上に乗っかっている。ほかにはまだ従業員は見当たらない。
「すこし早すぎたかな、新幹線の時間まで時間があるんでブラブラ歩いていたんだ」
「そうですか」と女は顔の面積の割には不釣り合いに小さな一筆書きのような赤い口をすぼめて言った。
「ビールを貰おうかな」
「銘柄は」
「なんでもいい。小瓶で」
女が彼の前にグラスと小瓶を持ってきた。
「どちらに行かれるんですか」
「盛岡までだよ」
「お国はあちらなんですか」
「いやちょっと用事があってね。お店のお客さんはサラーリーマンが多いんだろうね」
 ビールを二、三本飲んだところで、勤め帰りらしい三人ずれが入ってきて店内は俄かに騒々しくなった。このなかにXがいるかもしれない。いや、彼は一人で来るのかな。そういえば、Xは連れがいなかったようだ。いつも一人できて一人で飲んでいるようだった。そうだ、彼は妙な酒を注文していたな。なんだっけ。妙な名前だったのですぐに思い出せない。そうだ、アブアブだったかな。リキュールらしくショットグラスで飲んでいた。大分強そうな酒だった。
「おねえさん、アブ何とか云いうリキュールを飲んでみようかな」
先刻から出勤してきてカウンターを拭いていたバーテンダーがこちらを向いて「お客さん、アブサンですか」と反問した。
「そうそう、それだ」と慌てて肯定した。「砂糖を齧りながら飲むんだろう」
「お客さん、よく知ってますね。好きなんですか」とバーテンは怪訝そうに聞いてきた。
「いや、恥ずかしながら飲んだことは無いんだ。このあいだ人が飲んでいるのを見てね、かわっているな、飲んでみたいなと思っていたんだ」
「なるほど、ちょうど仕入れたばかりでね。あまり注文する人もいないんですが、ここのお客さんでやはり飲む人がいいるんですよ。それで仕入れたばかりでね」
「へえ、そうなの。あんまりポピュラーじゃないんだ。どんな人なの。そのお客さんは。よほどの通なんだろうな」
 彼は内心この人だ、と確信した。カクテルではなくてストレートでアブサンを酒場で注文する人は滅多にいない。彼に違いない。
「どんな人なの、年配の人かな」と彼は鎌をかけた。
「いえいえ、若い人ですよ。34,5というところかな」と彼はホステスに問いかけた。
「そんなところね」
「じゃあ、会社員なんだね」
「そう、酒井さんはなんとかいう商社に勤めているとか言っていたわね」と彼女は何の疑念も抱かずさらりと言った。なるほど、と彼は思った。これで知覚だけではなく、彼の名前と人格の概要も分かった。いままではお化けか幽霊のような存在だった。
 そういえばXが彼の知覚に現れるのは彼がそろそろ寝ようかと思う頃が多い。今度はもっと遅く来てみよう。その後、客が来たり、帰ったりしたがその中にXがいるかどうかは判断が出来なかった。いずれにせよ、アブサンを飲む客は現れなかった。



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