それは『異邦人』の第一部のそれである。ペスト、転落、それに追放と王国に出ている短編のnarrativeは、英語で言えばdullである。あたら不得意な叙述法を使うのは惜しいことだ。
こういう捉え方が有る。異邦人は孤独が主題である、ペストは連帯がテーマである。そして転落は連帯に幻滅して没落した中年男の愚痴である、とね。
確かに分かりやすい。しかし、異邦人の主人公ムルソーは孤独ではない。セックス友達はいる。手紙の代筆をしてやる女衒の友達もいる。犬と暮らしている老人の話し相手になってやる。会社でも適当にうまくやっている。孤独ではないし、引きこもりでもない。
かれがユニークなのは、世間一般と反応が違うこと(正確に言えば世間からそう見られたということ)である。母親の葬式で涙を流さなかった、葬式の翌日女とセックスをした、喜劇映画を見にいった。というのが世間一般には不謹慎と見られた。そして裁判で一回も改悛の情をみせなかった。処刑の前に教誨師を拒否した、など。
これは孤独ではない。ライフスタイルが世間のおばちゃん達と違うだけである。
つまりムルソーは社会で「異邦人」であった。フランス語の原題ではエトランゼだとおもうが、これを外国人とか見知らぬ人と訳さなかったセンスは認められる。
昭和二十九年には映画「エイリアン」は公開されていなかったが、今では「異邦人」よりも「エイリアン」が適訳ではないか。映画しか知らないあまり教養のない読者には。つまり「異星人」あるいは「火星ちゃん」(ちょっと古いかな)というわけね。
もっとも、映画公開以前にはエイリアンというのは外国人という意味が一般的でニュアンスはより法律用語的であった。羽田空港(成田は開港前)に出入国管理にalienという看板があった。外国人専用の窓口である。今成田でどう表記しているか知らない。なにしろ半世紀以上外国に行ったことがないから。