穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

アップデート要求57:旅の疲れ

2021-05-05 08:58:31 | 小説みたいなもの

 コーヒーは予想通り薄かった。といっても彼にとってはと言うことだ。もともと挽いていない豆を鍋にぶち込んでじっくりと時間をかけて煮だすコーヒーしか彼は飲まないのだ。舌の上にザラザラしたコーヒーのカスが残るくらいのが丁度いい。こんなに薄くてはカップの底に何も残らない。コーヒー占いも出来ない。しかも眠くなってきた。コーヒーが薄すぎるのかもしれない。彼はお代わりを注文した。

 ところがしばらくすると、前よりか泥のように濃い睡魔が襲ってきた。すこしその辺でも歩いて眠気を覚ますか、と彼はレジに向かった。女性の先客が清算をしている。ぱっと目が覚めるほどのボデイではないが、なかなかのシェイプだ。清算をすますと店を出た。先ほどの女が近くの交差点で信号が変わるのを待っている。信号が青に変わって彼も女性の後をわたった。動くと、いや歩くと彼女の肢体に目を奪われた。眠気もすこし覚めたようだ。彼女の腰の動きが複雑でそそる。どこに行く当てもない彼はしばらく女の後をつけた。

 彼女の腰の振り方を関数で表現したらどうなるかな、と考えた。規則性があるようで無い。腰のあたりの骨格とか筋肉の付き具合が特殊なのだろう。彼女ならストリップ劇場でも、普通に舞台の上を歩いただけでも観客を喜ばせることが出来る。彼女はどこに行くのか、バスにも乗らず、駅にも入らず、買い物をするでもなく、ぶらぶらと街を歩く。彼の眠気もどこかに行ってしまった。

 一時間以上女の後ろをつけていただろうか、足も疲れてきたのでそろそろホテルに帰ろうかと思ったが、気が付くと彼は全く人気のない、商店もない、倉庫のような建物が並んでいる一角にいた。なんとか人通りの多い道に出ようと歩き回ったが、どういうわけか、土地に方向感覚を狂わせる磁力であるのか、何時まで歩いても同じようなところを回っている。女はとっくの昔にどこかに行ってしまった。

 そのうちに日が暮れると急に気温がさがり、嫌な冷たい風が吹いてきた。疲れ切ったうえに骨の中までが凍てついたようになって、ようよう深夜になってホテルにたどり着いたのである。その夜は何もする気がなく買ってきた雑誌や新聞も床の上に放り出してベッドに入った。

 深夜猛烈なさむけに襲われてベッドの中でがたがた震えだした。寝ていられなくなった。彼は起き上がると靴下を履きクローゼットの中をかき回して予備のタオルを何枚も体に巻いて再びベッドに入った。

 翌朝目が覚めると背中に猛烈な痛みを感じた。左の胸から背中にかけて真っ向から袈裟がけに刀で斜めに切り下げられたようで、へその右側まで切り下されたような痛みがあった。これは大変だ、とホテルに電話しようと、やっとの思いでベッドを出ると受話器のあるところまで這っていったが、受話器を取り上げても声が出ない。そのまま床の上にくずおれた。

 

 

 

 

 

 



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