穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

グレート・ギャツビーと村上春樹

2013-01-22 21:51:47 | 書評
前にも書いたが、村上春樹に興味を持ったのはここ数年でチャンドラーのロング・グッドバイの翻訳が読書界の大きなニュースになってからである。このブログは『ニュース』になった作品を扱うという方針なので彼の翻訳を手に取り、興味を憶えその後出てくるチャンドラーの翻訳を読んできた。

で、彼の後書きに何回も出てくるグレート・ギャツビーにもようやく手が回ってきた。チャンドラーはすでに英文や他の翻訳で読んでいるのだが、フィッツジェラルドについては一つも読んでいないのでまず村上訳を読んだ。平易で分かりやすい。

村上春樹の感情移入にはいささか持て余し気味であるが、そんなにすばらしいものなら原文でと誘われたのだ。いま半分ぐらい読んだ。大分種々の点で印象が違う。

私の英語力は大したことがないということを考慮しても、フィッツジェラルド(S・F・)の文章、言葉の選択は非常に特異ではないか。別言すれば、非論理的、飛躍的、意味不明、美言すれば詩的、ペダンチック、「純文学的」である。特に地の文において。

これは英米読者が読んでもそうだと思う。とすると、翻訳で村上氏のようにすらすらとつっかえずに読めるように、説明的にしてしまうのはどうだろうか、と思う。

読者をつっかえさせ、反発させ、場合によっては本を途中で放り出させ、そしてやっぱり味が有るわいと読者が再び本に戻ってくるような翻訳にすべきではないのか。

表現は適切ではないが、岩波少年文庫に翻案された「名作」を読むような気がする。

村上春樹氏が30代のころから60になったら訳せるようになるかな、と思ったのはそういうSFの原文の味を生かして日本語にして、なおかつ好事家を唸らせる翻訳術の熟成を待つという意味だったら分かるのだが。

SFの文章は天性の発露であろうが、きわめて人為的ではないかという疑念もある。ウィキペデアを読んだら、今ではアメリカの代表的作品と受け入れられているが、発表当時、「流行作家が純文学作品を気取った作品ではないか」と批評されたとあるが、そうだろうなという気もする。