穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

エンジニアとは、ウィトゲンシュタインの火かき棒(四)

2018-09-24 07:54:06 | ウィットゲンシュタイン

 このシリーズの第一回でWはエンジニアであったと述べた。言外に哲学者ではないと示唆したのである。エンジニアとはなにか。与えられた仕事で完璧を期すことである。たとえば新しいモデルの自動車の開発を命じられたとする。かれは与えられたスペックが完全に実現されて瑕疵のない製品を作ることが任務である。つまり具体的な限定された領域で完璧な仕事をすることがエンジニアには求められている。

  Wはそれが言語分析という領域で出来ると考えたのである。そして「悪いことに」それですべての形而上学的な問題は解決すると考えた。この文章の後段は明らかに間違いである。論理哲学論考を読むと最初のうちは勢い込んでいたが、どうもこれだけじゃだめだと気が付いた。だから終わりのほうで、世界には語りえないこともあると譲歩したのである。しかしそれは語りえない、示されるだけであると抵抗を示した。

  論理哲学論考を読むと、基本的な用語のセットは未定義である。語るとはどういうことか、示すとはどういうことか。なにも説明していない。これは原文少なくとも英語版でいかなる表現をされているか調べる必要がある。どういう言葉を「語る」とか「示す」と訳しているのか。いま手元に英語版がないが、こう訳せる英語はおびただしくある。そのうちのどれを充てているのか。

  西洋哲学史上、言語分析が精緻を極めたのは中世のスコラ哲学である。二十世紀前半に勃興した言語分析は二十世紀後半になるとスコラ哲学の成果に注目するようになった。スコラの哲学は神学を補強するために存在した(哲学は神学のしもべである)。現代の言語哲学もせいぜい科学哲学を含めた諸科学のしもべにしかすぎない。もっとも相手のほうは必要としていないだろうが。

  Wはエンジニアであってそれ以上でもないし、それ以下でもない。「それ以上ではない」とはあえてこの言葉を使えば「従来型」の哲学者が言語分析を低く見る立場である。「それ以下ではない」というのはエンジニアとしては「最高」ということで、これはWを取り巻く信奉者、取り巻きの意見である。

 

 


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