「プラトンてどのプラトンですか」とクルーケースが間の抜けた疑問を述べた。あまり教養のなさそうな彼でも何人もプラトンという名前の人間を知っているらしい。
橘さんもびっくりしたように尊敬のまなざしで彼を見直した。
「俺の知っているのは、といっても恥ずかしながら九十七歳にになって初めて面晤の栄に浴したのは一人だけだけどね」
「どこの国の人ですか」
「ギリシャ人さ、神武天皇がお生まれになったころの人でな。橘さんはご専門だからよくご存じだ、ねえ」と同意を求めるようにパチプロの橘氏のほうを向いた。
「ええ、すこしだけね。古代ギリシャの哲学者ですよ」とクルーケースに説明すると、下駄顔のほうを向いて「前から興味をお持ちだったんですか」
「とんでもねえ、ひと月前でさあ、ボケ防止対策に七面倒くさい本でも読むのがいいのかな、と思いましてな。本は安いのがいい。懐具合の関係もありますからな。そして新しくてきれいなのがいい。古本はさっぱりダメでね。それでこの間本屋で文庫本の棚のあたりをうろついていたら目に入ったのがプラトンだ」
「ボケ対策には読書がいいらしいわね。読書はご趣味なんですか」と女主人が言った。
「とんでもねえ、年を取ると目が悪くなるから本はなるたけ読まないようにしていたんですよ。それでね、読むのに比べて書くほうはあまり目に負担をかけないからいろいろと書き散らかしていまさあ」
「まあ、小説かなんかを書いていらっしゃるのですか」
「エロ本をね、秘密出版でさあ」
「まあ」と彼女は絶句した。目には尊敬のまなざしが浮かんだ。
「老化防止には指の運動がいいともいいますね」とクルーケースが応じた。
「そうなのさ、指を十本全部使うからね」
老人の理解しがたい発言にみんなはしばらく沈黙した。
「ものを書くのに指を十本も使うのかい」と禿頭老人が訊いた。
「タイプライターを使うからね」
「なるほど、商社マンだったあなたならタイプライターはおてのものだ。そうすると英文の小説ですか」
「そこまではいかない。ローマ字変換ですよ」
「なるほど、それはいい。それでどのくらいのスピードなんですか」と彼自身も昔船会社に居て毎日英文の書類やレターを書いていたハゲ老人がきいた。「一分間に二百字くらい?」
「昔はね、決まりきった商業文ならいくらでも早く打てたが、スピードは落ちているね。それに文章を考えながら打ちますからね。スピードで比較しても意味がない」
それが文章を作るほうから読むほうに変えたんですか、と女主人がもっともな疑問を述べた。エロ小説の種が尽きたんでしょうか、と遠慮のない質問をした。
「いや、相変わらず書いていますがね。すこし目先を変えて七面倒くさい哲学の本でも読めば老化防止に相乗効果があるかと思ってね。それで岩波文庫のプラトンを二、三冊買いました。岩波の後ろに立派な宣言があるじゃないですか。『知識は万人のためにある』ってね。本屋で一般向けに売っているから私が読んでも誰からも文句は出ないでしょう」
「そうね、文言はすこし違っていたような気がするけどね」と誰がが呟いた。