穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

承前:根津権現裏:藤沢清造:新潮文庫

2011-08-16 10:40:15 | 西村賢太

新潮文庫で350ページ足らず、160ページまで読んだ。以下順不同でいく。

私は根津神社の氏子ではないがほぼこの小説の活動範囲と一致する。だから旧町名も目に懐かしく感じるのだ。しかし、藤沢氏は町の叙景が得意ではないようだ。あるいはそんなことは重きをおかないのかもしれない。

一体に自分になじみのあるところだと、今の街並みが一変していればいるだけ、ああその昔はこうだったんだという感慨が浮かぶし、昔と全然変わっていないところだとそれはそれで懐かしく感じるものだ。そういう情緒はこの小説からは触発されない。しかし、白山、巣鴨行きの都電、なんて懐かしいな。

さて、キーワードは、少女趣味の現代用語を使うのをお許しいただくが、性欲、病魔、貧困である。執拗に、いささか単調にくどく繰り返される通奏低音である。文章は読みにくい。一気に読んだなんて人もいるようだが、つっかえてしまう。だがある種の力はある。

 二:珍妙なる比喩 200ページ通過

 読みにくさの原因は比喩の不適切さと、かつその異常な多さが大きな原因である。他にもあるがこれが一番分かりやすい。平凡な比喩、さりげない比喩、これはいくら連発してもよろしい。これに抵抗を感じるのは野暮天、田舎者である。適切に比喩を刻んでいけば絶妙なテンポが生まれる。講談、軍記物などがそれであり、紋切り型の比喩的修飾句のオンパレードである。

自分のオリジナリティのある比喩じゃなきゃ嫌だと言う人もいる。そういう時にはよほどタイミングをはかって満を持して放たなければならない。老人の屁のようにのべつ幕なしにやっていてもしょうがない。一ページの間に十も二十もやっていてはその神経を疑う。

そして何よりも重要なのはセンスである。比喩ほど文体でセンスの差が感得されるものはない。だれにも分からない失笑物の比喩を連発してもはじまらない。

 西村賢太氏には申し上げにくいが、根津権現裏は狂的に比喩が多く、そのほとんどが意味不明、センスゼロである。

 西村氏に対する評価はもちろん根津権現裏を読んだからと言って変わらない。彼自身が告白しているように藤沢清造の作品が衝撃を与えたのは事実だろう。どこがどう与えたかは詮索考究する気もないが、半年前の記憶では西村氏は比喩に関しては私の上記の批判には該当しない。

三:引き延ばし方法

所詮自分のことを書いている分には、日記と同じだから長くは書けないし、そのうちに種切れになる。個人が破天荒な経験をするなどという機会は非常に少ない。ましてその人に文才があるとか小説家になりたい場合で、と限定されると皆無に近くなるだろう。

私小説の分野は不案内(特に不案内といったほうが正直かな)であるが、私小説で長編なんて非常に少ないんじゃないか。志賀直哉は私小説作家の分類に入るらしいが、彼の唯一の長編が暗夜行路だろう。それも完成までにやたらと年月がかかっている。

「私小説」を長編化する道の一つが心理描写の多用であろう。根津権現裏がこれにあたる。藤沢清造は雑誌の編集などをしたというが、心理学の雑誌にも関係したと言うし、また通俗解説本か専門書かしらないが、心理学の翻訳(の下請け)もしたという。根津権現裏でも友人の岡田とともにそのような仕事をしている話が出てくる。

この小説でもくどいほどの心理的な「説明」だ。それがわけのわからない先に述べた比喩によって長々と修飾されている。これによって「長編化」がなりたっている。しかし、私小説の心理描写化という方向はどうなのかな。

つづく

 

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つづく