7月に新潮文庫で出た。先日書店で平積みされているのに、ふと、目が止まり、おやおやと買って来た。前々回になるかな、今年初めの芥川賞作家西村賢太氏が自ら没後弟子を自称して入れ上げている大正昭和交期の「私小説作家」の長編代表作である。
西村氏の傾倒が尋常とも思われないので、そのころ電網界をさらったことがある。どうせ古本屋にはないからね。あっても特殊な好事家相手でべらぼうな(私の価値観では)値段がついているから古本屋は最初から探さなかった。
あったね、それがスキャナーでとったものをそのまま画像としてアップしたものとおもわれる。厚い本だからページの端の行は斜めになっているし、真ん中は凸面鏡を当てたようにゆがんでいる。
この状態ではせいぜい10ページも読むのが限度だったろうか。ま、そんなことがあった。税前514円なりだ。荷物にもならない。買って来た。
二:
電網界へのアップもぼちぼちあるようだが、なかに「新潮文庫に入りそうもない作品が」云々と言うのがあった。とても商品にならない、という意味なのか、レベルに達していないという意味なのか。この人のアップには随分前から藤沢清造の記事があり、ポジティブに観ているようだから、とても特殊で、地味で、古くて、商品価値の無い、しかし作品としては価値のある、という意味合いのようである。新潮社は相当に耳目を集めた異色の芥川賞作家が入れ込む作家として藤沢に対する好奇心も世間にあることから、商品化可能とみたのであろう。妥当な判断だし、売れ行きもよさそうだ。
三:
表題からはすこし離れるが出版社というのは蓮田をやっているようなものだ。綺麗な蓮の花を咲かせるためには大量の汚泥の沼が必要である。ころやよし、である。上野の不忍の池に早朝行ってみるといい。
そのためにどこもくだらない本を大量に出す。大衆は泥を好むからである。これによって、わたしは出版社が愚劣なさくもつを大量にひりだすことを容認しておる。新潮文庫でもその95パーセントは泥であろう。特に時代の評価を潜り抜けていない平成、直前の昭和終末期あたりの作品はその99パーセントが泥である。
これは芸術家連中と似ている。一人の天才が生まれるためには999人の芸術家と自称するゴロツキが必要であるのと同じである。そのなかでは新潮社はいいほうである。書評でも書いたが夏目漱石の鉱夫を出しているのも評価している。ちなみに漱石全集を出している岩波文庫は鉱夫を入れていない。
そこでだ、根津権現裏は泥か蓮の花か、というのが問題である。ま、泥じゃないな。小さな蓮の花だ。すこし褒めすぎたかな、次回以降はケチをつけてみよう。
続く
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