穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

哲学翻訳用語の問題点(3)、措定2

2018-12-29 10:48:57 | 妊娠五か月

 * 円環するもの(エンチクロペディー)の結節点としての措定 *

  措定は断定でもない。勿論証明でもない。自然科学での仮設のようなものである。なぜそのようなものを議論の出発点あるいは基礎にするのか。

  幾何学の公理のように万人がそれ以上は証明不要で自明なものとして受け入れる公理は哲学にはない。自然科学では仮説は観察データあるいは実験データで検証を試みることが出来る。そして検証可能性が理論の正当性の客観的根拠となる。哲学では自分のたてた措定をもってまわって、ぐるぐると回ってうまく説明できれば成功なのである。うまくいくとは一見無矛盾で網羅的包括的かつ説得的に説明できるということである。

  したがって哲学にはいくつもの説があるのは当然である。ヘーゲルがスピノザの哲学を批判する人に向けて言っている。スピノザ哲学の前提(論拠、措定)の外から批判しても意味がない。

  スピノザは彼の措定から出発して立派な説を打ち立てた。ただその結果のレベルが低いだけである(もちろんヘーゲルの哲学に比べて)、とヘーゲルは言っている。つまりスピノザの哲学にはまだ弁証法的に止揚の余地があるということである。

  上記の理由から、自然科学ではいまだに成功していない統一場理論のようなものが哲学では容易に唱えられる。うまくいく措定の組み合わせを考え出せばいいだけである。

 


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