まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

弓を引くこと

2011-09-05 | 弓道

弓は凶器である。殺傷を目的とするところから生まれた。

そのことを身をもって体験しているので、よくわかる。離れが出やすくて、暴発をしてしまうからだ。暴発というのは怖い。意識なく離れてしまうのだから。「離れを弓に知らせずぞよき」と、先生方は言われるが、「暴発」と、「知らせず」とは違う。初心者指導にも、学生にも安全指導はするが、彼らは身をもって怖いと思っていない。そのため、とんでもない事故が部活中に起きたりする。

いたずらに怖がらなくても良いのだが、時折、怖いと思うことがある。それは、危険という怖さと、うまくいくだろうかという不安の怖さからもくる。

野蛮なスポーツではなく、日々技術の向上を願うのは、武道という名の下に格上げされたからである。

たぶん、今以上にうまくはなれないのではないかと、痛切に思う。体力的にも若くないし、精神的にも、若い頃と違って、ナイーブになっている。はたからみると、おばさんは剛健にも見えるかもしれないが。

反面、チャンピヨンスポーツではなく、精神修養だと言い聞かせたりするその中にもやもやがある。それを、葛藤というのだが。

弓は立禅として高尚な目的を掲げれば、ほんとかいなとなるが、これは、ほんとなのである。

知らないうちに、苦境に立たされ、しなくてもよい苦労を手に入れ、それだからこそ、世間の噂話をする暇もなく、押し手がどうの、引きがどうの、肩甲骨だ、蝶骨だと、解剖学に耳を貸し、生半可な理解力に自己嫌悪に陥る。ここに、哲学、あるいは禅がある。

西田幾多郎と鈴木大拙は、どちらも石川県の有名な哲学者だ。その人たちの言葉を借りれば、鬱憤、傷心、迷いを吐露し・・と、なる。生きることと、弓を引くことが同化してきた。

これは、やばい。息苦しい・・。ああ、自由に生きたい・・あれっ。十分に楽しく自由なのに?


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