政財界の大物たちの支援を受け、華々しくスタートしたかにみえた資金集めだが、明治30(1897)年後半期から32年前半まで停滞ムードに包まれた。

 ひとつには戦争後の不景気風が吹き始め、協力者が広がらなかったこと。女子高等教育への理解もまだまだ不十分だった。

 その時期、浅子は何度も上京して資金集めに動き、一方で資金提供も惜しまなかった。成瀬がもっとも苦しかったその時期、浅子個人で1万1千円以上の援助をしたとみられる。 明治32年半ばに入り、やっと景気も上向いてきた。住友、鴻池、芝川、村山、北畠など大阪の財界人から申し出が相次ぎ、岩崎家、古河家など大口の出資も相次いだ。  そのころから、設立地問題が起こってきた。当初、大阪の開校を計画し、大阪市天王寺区内に敷地(現在の府立清水谷高校)も確保していたが紆余(うよ)曲折 ある中で、やはり中心地・東京にという声が強くなってきた。大阪を前提に出資した人からは不満も聞こえる。そんな中、キャスチングボートを握ったのはやは り浅子だった。 当時、物心両面で浅子を強力にバックアップしたのは義弟の三井高景(たかかげ)だった。浅子の実家・三井小石川家8代を継いだ高景は三井鉱山会社社長を務めるなど三井財閥の中核として活躍していたが、夫人の寿天子(すてこ)ともども浅子に協力を惜しまなかった。 その三井家から目白の土地5500坪と5万円の寄付の申し出があったのは明治33年5月。一気に話が進み、翌年の開校がついに決定した。 設立当時の創立委員名簿には内海忠勝、土倉庄三郎と成瀬が最初に協力を仰いだ人物の名が記されている。が浅子の名前はない。かわりに記されているのは夫・広岡信五郎の名。  しかし、浅子は実をとる。明治34(1901)年4月20日、成瀬仁蔵校長のもと、53人の教職員、510人の生徒をもって日本女子大学校は開校した。浅 子52歳の春。浅子の人生はそこからまた大きく飛躍していくのだ。   (石野伸子)    =敬称略、続く(次回は10日掲載)

七転び八起き聞いたことが有りますが、九転十起は、聞いたことが有りません。女明治時代の女性もしっかりしておられたと言うことです。

 

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