朝日新聞デジタル 3月20日(日)11時13分配信

事件当日、患者の治療にあたる聖路加国際病院内の様子=同病院提供
13人が死亡、6千人超が負傷した地下鉄サリン事件から20日で21年。原因がわからないまま対応に追われた当時の病院の教訓を、どう生かすべきか。発生当日に約640人を受け入れた聖路加国際病院(東京都中央区)で、救急部の副医長だった石松伸一副院長(56)は「日頃から自治体や他病院などとの連携が重要だ」と語る。
地下鉄サリン事件の救急医療にあたった聖路加国際病院の石松伸一副院長
サリンがまかれた電車が緊急停止した築地駅から、約400メートル東にある聖路加国際病院。消防から「駅で爆発火災が発生した模様」と一報が入ったのは午前8時16分だった。だが、約20分後に救急搬送されてきた患者は、やけどもけがもしていない。焦げたにおいもしなかった。患者が次々と運ばれてきたが、何が起こったのかわからなかった。
症状ごとに患者を振り分けていた石松副院長は、農薬中毒を疑った。だが、長野・松本サリン事件で治療にあたった信州大学医学部付属病院の当時の院長から「サリンの症状と思われます」と連絡があった。「まさか」。だが、駆けつけた自衛隊中央病院(東京都世田谷区)の医師から提供された化学兵器の資料をもとに解毒剤を使うと、効果が出た。』
1995年3月20日午前8時頃起こった地下鉄サリン事件、春のお彼岸でした。死亡者13人で負傷者約6,300人。 オウム真理教と無関係な人々が、大変な被害を受けて何の意味が有った日本を揺るがした大事件だったのでしょうか。未だに後遺症に苦しめられている被害者の方々もおられます。
お彼岸の中日の今日、亡くなられた方々の御冥福を心からお祈り申し上げます。
出典・地下鉄サリン事件 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/地下鉄サリン事件 -

地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)とは、1995年(平成7年)3月20日に、東京都 の帝都高速度交通営団で、宗教団体のオウム真理教が起こした神経ガスのサリンを 使用した同時多発テロ事件で、死者を含む多数の被害者を出した。警察庁による正式 名称 .
地下鉄サリン事件
地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件
Kasumigaseki eki 1.jpg
事件の現場となった霞ケ関駅(営団時代に撮影)
場所 日本の旗 日本 東京都
帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)の一部路線
日付 1995年3月20日
午前8時頃 – 不明
標的 営団地下鉄丸ノ内線・日比谷線・千代田線の乗客および乗員・駅員など
攻撃手段 化学テロ・宗教テロ
兵器 サリン
死亡者 13人
負傷者 約6,300人
犯人 オウム真理教(首謀者:麻原彰晃)
林郁夫・新実智光・広瀬健一・北村浩一・横山真人・外崎清隆・豊田亨・高橋克也・林泰男・杉本繁郎
動機 教団への捜査の撹乱と首都圏の混乱
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)とは、1995年(平成7年)3月20日に、東京都の帝都高速度交通営団で、宗教団体のオウム真理教が起こした神経ガスのサリンを使用した同時多発テロ事件で、死者を含む多数の被害者を出した。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件[1]である。この事件は日本だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた。
毎日新聞では坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んでオウム「3大事件」(-さんだいじけん)と表現している。
3 犯行
3.1 千代田線(我孫子発代々木上原行)
3.2 丸ノ内線(池袋発荻窪行)
3.3 丸ノ内線(荻窪発池袋行)
3.4 日比谷線(中目黒発東武動物公園行)
3.5 日比谷線(北千住発中目黒行)
3.6 被害を受けた列車
4 緊急処置
4.1 救助活動
5 警察・検察
5.1 鑑識
6 救命活動
6.1 東京消防庁・病院
6.2 自衛隊
7 被害者
事件当日
1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄(東京メトロ)、以下営団地下鉄)丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人[注 1]が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた[注 2]。
事件直後、この5編成以外の編成で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5編成以外で発生はなかった[注 3]。しかし、乗客等に付着したり、気化したりしたサリンは他の駅や路線にも微細に拡散していった。
解毒剤
有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル (PAM) は当時多くの病院で大量ストックする種類の薬剤ではなく(主に農薬中毒用の薬だった)、被害がサリンによるものだと判明すると同時に都内でのストック分が使い果たされてしまった。このため全国の病院・薬品卸会社へ供出令が出されることになり、東海道新幹線沿線では各病院・卸会社の使者が最寄り駅まで薬剤を届けて別の使者が東京行こだまに乗車して各駅で受け取るという作戦が展開された(後述)。
事件後のダイヤ
営団地下鉄では事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した(後述)。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
オウム判明後
事件から2日後の3月22日に、警視庁は新興宗教団体オウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。
幹部クラスには麻原・村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一の6人がいたが、謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員に死刑を言い渡した[注 5]。2009年(平成21年)12月10日、最高裁判所で上告が棄却されたため、総合調整役である井上嘉浩の死刑が確定した。
2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。
背景
麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において有能な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようと企て、様々な兵器を開発する中でサリンにも着目しこれを製造、池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件といった事件を引き起こし、松本サリン事件では遂に死者が発生した。 その松本サリン事件から半年後の1995年1月1日、読売新聞が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ。さらに同年2月の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウム真理教の関与が疑われ、麻原ら教団幹部は警察の強制捜査が切迫していると危機感を抱いた。
リムジン謀議
事件2日前の3月18日、麻原ら幹部(麻原、村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された。そこでサリンを散布する案が浮上し、強制捜査の直前に大規模なテロ事件を起こせば、警察の捜査の目を逸らすことができ、強制捜査もなくなると考え、朝の通勤時間帯で混雑する地下鉄内でのサリンの散布を信者達に命じた(リムジン謀議。また車中謀議とも)。
このため霞が関や国会議事堂・永田町などの、国家の中核を支える重要な地点が標的にされた。後の調べによると、オウム真理教教団は、地下鉄で通勤してくる警察官が多い警視庁本庁も間接的に攻撃できると考えていたようである。
警察の失態
2010年(平成22年)2月22日、共同通信は、事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している。
犯行
この事件は麻原が首謀、村井秀夫が総括指揮を担当、そして井上嘉浩が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実・遠藤誠一・中川智正が生成したものが使われた。サリン散布役は5人選出されたが、林郁夫のみ麻原が選出し、残り4人は村井が選出した。
準備
リムジン謀議の数時間後。豊田亨以外の実行犯は村井に部屋に集合して計画に参加するよう呼びかけられ[注 6]、引き受けるとその後実行犯は送迎役らと共にアジトにしていた渋谷のマンションに集結した。彼らは着替えの準備や事前の下見をした後、村井に呼び寄せられサリンと解毒剤を持ち帰った。
犯行時間
1995年(平成7年)3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多い。しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の内部を知っている者が犯人の中にいたからではないかと推測できる。
袋詰めのサリン
液体のサリンはビニール袋に入れられた上で聖教新聞としんぶん赤旗の新聞紙に包まれていた。この新聞の読者は、ほぼこれらを発行している団体の構成員(聖教新聞は創価学会、しんぶん赤旗は日本共産党が発行)とその支持者に限られるため、一時的にオウムへの矛先を逸らすためだったとみられる。各実行犯は、約1リットルの袋詰めを2つを運び、林泰男だけが3つを携帯した。
犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。営団地下鉄はラッシュ時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。