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関東軍作戦参謀として満洲事変を引き起こす一方、東条英機との確執で現役から退かされた石原莞爾。終戦間際にはいち早く東久邇宮内閣成立を画策し、戦犯から外された東京裁判では、尋問で米側を一喝する気概も見せた。作家の早瀬利之氏が、晩年の石原の実像に迫る。
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***
『世界最終戦論』で知られる石原は、終戦を郷里の山形県鶴岡で迎えた。満洲事変の後、参謀本部時代には中国戦線の不拡大方針を唱え、1937年9月には参謀副長として関東軍へ左遷される。が、上官である参謀長の東条とはことごとく対立した。40年7月には、第2次近衛内閣で陸相に就いた東条が進める「北守南進」に公然と反対し、太平洋戦争開戦前の41年3月、石原は予備役へと追いやられる。まもなく職を得た立命館大学も、東条の圧力により同年秋に辞職。以後は鶴岡で借家住まい、向かいの家から毎日、特別高等警察(特高)に監視されながらも、わずか月300円の恩給生活を送っていた。
日本の敗戦を知らされたのは、玉音放送2日前の45年8月13日朝。千葉聯隊区戦車聯隊長の吉住菊治少佐からの報告だった。石原と同郷の吉住はその前日、市ヶ谷台の大本営で「ポツダム宣言受諾」を洩れ聞くと、直ちに夜行列車を乗り継ぎ、石原のもとへ。報告ののち、今後の指示を仰いでいる。
後述するように石原は、前年9月、東久邇宮稔彦陸軍大将と「喧嘩別れ」していた。が、吉住の報に接し、時を得たとばかりに、
〈直ちに東久邇宮内閣をつくるよう、大本営に伝令してくれ〉
そう告げている。吉住の手記『石原莞爾の遺言』の中には、石原のメッセージとして次の記述がある。
〈この敗戦は決して落胆するに及ばぬ。何となれば数年後に人類は、世界の最終戦によつて、始めて戦争を脱皮し、永久平和が実現する。敗戦により、軍備をすてた日本は、今こそ始めて世界に先んじて、人類次代の文化を創造し、全世界の模範となるべき大維新を断行する運命を与えられたのだ。しかしこの世界の大勢にたいする見透しと、新日本の向うべき目標をハツキリつかみ得ない者、特に血気の連中は、終戦のお詔勅が降るとドコまでも竹槍式の玉砕を叫んで反乱を起すだろうが、お前はその時、オレの世界最終戦の理論を説き、反乱軍の鎮撫に命をささげよ。それが軍人としての最後のお奉公だ〉(原文ママ)
石原はそう諭しながら、
〈アメリカとロシアとの決戦には、必ず我国民が強制的に狩り出されるから、国民は全力をあげて断じて反対せよ〉(同、原文ママ)
とも口にしていた。
吉住は東京へ引き返すと、直ちに大本営に駆け込んで石原の構想を報告。作戦課長・服部卓四郎から石原の「子分」である参謀次長・河辺虎四郎に伝わったとみられ、河辺から木戸幸一内大臣の耳に入ると、木戸に代わり秘書官長の松平康昌が14日午後、麻布の家を空襲で爆撃され川崎の別荘に逃れていた東久邇宮と面談。和平交渉の経過やポツダム宣言受諾が御前会議で昭和天皇の聖断により決定された状況を説明したのち、こう伝えている。
〈木戸内大臣の考えでは鈴木(注・貫太郎)首相は近く総辞職をするかも知れない。その後任として、軍部を抑えて行ける自信のある人が重臣の中にはないから、この難局にあたって総理の大任を受ける人はないだろう。その時には、東久邇宮に総理になってもらわなければならないかも知れない〉(『東久邇日記 日本激動期の秘録』)
ところが東久邇宮は、
〈私は政治家ではない。また、皇族で軍人という関係で、政治に干与することを禁じられていたので、政治に関してはなんらの経験もない。私は、皇族は政治に干与しない方がよいと考えている〉(同)
と、いったんは固辞。それでも、石原の盟友で陸大同期の阿南惟幾陸相が自決したと聞かされると、心境は一変した。15日夜、再び松平が天皇の内意を伝えに川崎の別荘を訪れた。
〈阿南陸軍大臣が自決した結果、鈴木首相は本日内閣総辞職を決し、各大臣の辞表を陛下に奉呈した。(中略)天皇陛下は時局を非常に心配され、陛下のご内意は、鈴木内閣の後継を東久邇宮になさるお考えである〉(同)
これに宮は、
〈この危機を突破しようという人がなく、また一般情勢がそんなに危険ならば考え直しましょう〉(同)
そう応諾している。
東久邇宮は16日に参内し、組閣の大命を拝した。緒方竹虎を書記官長(官房長官)に、朝日新聞論説委員だった太田照彦を首相秘書官とし、組閣本部を赤坂離宮に設置。こうして石原の念願だった「宮様内閣」は、ようやく実現をみたのである。
事ここに至るまで“生みの親”たる石原は、無念の日々を重ねてきた。実は、まさしくこれが「三度目の正直」だったのだ。
最初は1936年、二・二六事件の直後である。当時、陸軍では皇道派と統制派とが対立、これを一つにまとめられるのは東久邇宮中将しかいないと考えた石原は、反乱軍に東久邇宮首相案を示すが反対されてしまい、事件が収束すると川島義之陸相に「進退伺い」を提出、高田馬場の自宅に引き籠っている。
2度目は44年9月26日。ドテラに下駄履きで鶴岡から上京した石原を『東久邇日記』はこう記している。
〈午前九時、石原莞爾来たる。石原の話、次のごとし。「現在の日本は軍人、官吏の横暴、腐敗その極に達し、中央はもちろん、地方の末端に行くほどはなはだしく(中略)大東亜戦争解決の第一歩は、重慶(注・蒋介石)との和平にある。これがためには、小磯内閣ではダメである。故に小磯内閣を倒し、東久邇宮内閣を組織し、三笠宮を支那派遣総軍司令官として、重慶と和平しなければならない。そうしなければ日本は滅亡するだろう」〉
石原はその3日前、前出の太田や、のちに東久邇宮内閣で内閣参与に就く朝日新聞の田村真作と協議。小磯国昭を副首相にして宮を説得する肚を固め、26日の面談に臨んでいた。日記によると石原は、
〈あなたは陛下に、小磯をやめさせて、あなたが内閣を組織するよう申し上げなさい〉
と、いきなり直球を投げている。驚いた宮は、
〈私はそんなヒットラーやムッソリーニみたいなことはできない〉
そう返したのだが、石原はなおも、
〈いま国家が滅亡するかどうかという時に、皇族は重大な責任がある。もしあなたがいやというなら、あなたは日本はじまって以来の大不忠の臣である〉
などと畳みかける。
〈たとえ大不忠の臣となっても、私はヒットラーのようなことはできない〉
重ねて拒む宮。二人は33年、仙台で「東久邇宮第2師団長」「石原歩兵第4連隊長」という上官と部下という間柄であったのだが、固辞し続ける宮に石原はしびれを切らし、
〈それでは、私はもう一生あなたのような人にはお目にかからない〉
そう言い捨てて辞去。東久邇宮は同日の日記に、
〈私に向って「不忠の臣」などといったのは、石原ぐらいのものである〉
と記している。そうした過程をへて、石原の宿願は成就したわけである。
8月16日、参内を終えた東久邇宮のもと、書記官長の緒方と首相秘書官の太田を中心に組閣が始まった。二人は阿南陸相の後任に石原を推し、同日午後3時頃、隣家の家主に電話を入れて呼び出す。太田は就任を要請するが、石原は「膀胱ガンの持病でつとまらない」と謝絶。あわせて閣僚人事案を請う太田に、石原はこう告げている。
〈外相には吉田茂、蔵相は津島留任、運輸は小日山直登、内務大臣は三上卓(五・一五事件の首謀者)。内閣顧問に朝日の常務鈴木文四郎、キリスト教徒の賀川豊彦、同盟通信の松本重治、作家の大佛次郎らを〉
ちょうどこの日の午後、京都第16師団長時代の部下だった久保友雄が石原を訪ねていた。電話の呼び出しから戻ってきた石原の様子を、久保は後年『敗戦時の思い出』という手記でこう記している。
〈東久邇宮内閣に入閣の話だったが、お断わりしてきた、と例によって淡々とした口ぶりだった〉
また吉住が敗戦を伝えに来た翌日の14日朝、今度は山形県警察部特高課長の堀田政孝が石原を訪ねている。
堀田は同年春、内務省より「石原逮捕」を命じられて県の特高課長として赴任し、4カ月が過ぎていた。本人の手記『木乃伊(みいら)取りが木乃伊に』では、すでに11日夜には無条件降伏決定の電報が県警に届いており、警察部長から、
〈近所には海軍の特攻隊基地や陸軍部隊がいる。これらが、石原サンを取りまいて蹶起でもしたら大変だ〉
と言われ、夜中に車で鶴岡へ向かったとある。ところが、カスリの浴衣で現れた石原に、
〈戦さに敗けたんだろう〉
と先手を打たれてしまう。そこで堀田が敗戦後の日本がとるべき処置と「見透し」を訊くと、石原はこう答えたという。
〈国体護持の絶対肝要なこと、精神力で立ち上るべきこと、パンパンや占領で一応事態は混乱するであろうこと、併し悲観するには及ばぬ、その敗戦のドン底から立ち上ることによって新日本が生れること、米ソは必ず衝突すること〉
あまりに明快な説明に感心した堀田は、この内容をつぶさに報告。本省はガリ版刷りで全国の特高に配布した。手記には、こうある。
〈このガリ版刷りで、特高関係は勿論全国府県当局が落着きを得たといつても過言ではないでしょう〉
一方、石原に陸相就任を断わられた東久邇宮は8月19日、内閣参与の田村と石原の盟友・木村武雄を鶴岡に遣わし、説得を試みた。急いだ理由は昭和天皇が、
〈石原莞爾を内閣顧問に〉(『木戸幸一日記』)と望まれたからである。田村は、
〈東久邇宮さまがお召しです。(副総理格で無任所大臣に就いた)近衛(文麿)さんも会いたがっているということです〉
と懇願するのだが、石原は近衛の名を聞いた途端、顔色を変えた。近衛には37年夏に石原が設定した蒋介石との和睦会談を、さらに41年にはルーズベルトとのハワイ会談をそれぞれ直前でキャンセルされるなど2度にわたって裏切られており、大きな不信感を抱いていたのだ。
石原は毒気を含んで、こう口にした。
〈人にものを聞きたいというのであれば、聞きたい方が来るのが道というものだ。近衛は家柄かも知れないが、国事の相談には階級はない。その上こちらは病いでもあり、年齢から言えば私が先輩である。(中略)しかし殿下(東久邇宮)に対しては自ら臣子の道があり、参らねばならぬと思っている。何分にもこの状態なので御無礼をしている〉
これを受け、さっそく東京までの切符を手配しようとした田村をよそに、
〈わしも敗戦日本の一国民だ。郵便車に藁を敷いてもらい座って行こう〉
結局、石原が運輸相に推薦した小日山直登の計らいで2等車に乗って上京。前年9月に喧嘩別れした東久邇宮と8月23日朝、首相官邸で対面した。
だが、今度は宮が石原に顧問就任を断わられてしまう。
再び『東久邇日記』によれば、
〈「(略)官僚の息がかかることは絶対に避ける決心で、純民間人として働きたいから、内閣顧問のような地位は、真っ平ご免である」と、きっぱり断わった〉
とあり、最後は東久邇宮から石原に「大不忠の臣だ」と投げ返している。
この在京中、石原は「読売報知」「毎日新聞」のインタビューを受けている。読売報知は8月28日付で1面の半分を割き、13段の大囲みで大々的に報道。まず、敗戦の原因を問われた石原は、大略以下のように答えている。
〈最大の原因は国民道徳の驚くべき低下。道義、知性、勇気がなかったためだ。敗因の根本的探求を軍事・外交・科学・政治・経済・産業・道義などあらゆる角度から断行すべきである〉
また、国民の今後の指標を聞かれると、
〈先ず総懺悔すること。大都市生活を諦め、この際速やかに大都会を解体する。そして徹底した簡素生活を断行する。大体今日の大都市は資本主義の親玉アメリカの模倣であり、自由主義経済と共に膨れ上がって発達したものだ。皮肉にも本家アメリカの爆撃で大体潰滅した。今後は幕末当時の領土の上に、その頃の二倍以上の民族が生きてゆかねばならぬ〉
戦後政治の動向については、
〈首相宮殿下には、国民に対して建設的な言論結社の自由を要望している。官僚専制の打倒は目下の急務。これから世界一の民主主義国家になるべきだ〉
さらには、自らが対峙してきた特高警察の廃止を訴えつつ、
〈政治憲兵も同然。思想、信仰は元来官憲が取締るべきではない。これは国民自身の取締によるべきだ。かかることの出来ぬ民族は自主独立なしえない〉
そう喝破していたのだ。
かように時代の転換期を“プロデュース”しながらも、石原の膀胱ガンは悪化、46年2月末には東京・飯田橋の逓信病院に入院・手術する。同年8月の退院まで約6カ月を過ごす間に、堀を隔てた市ヶ谷台の陸軍省大講堂では東京裁判が始まった。石原の部屋にも、のべ13人の検事や法務官が取調べにやってきた。
石原は当初、29人の戦犯に名を連ねており、最初の尋問に現れたのは第12回執行委員会前日の3月13日、米軍のホナディ法務官だった。その後、4月8日の参与検事会議で真崎甚三郎、田村浩とともに戦犯から除外されたものの、引き続き板垣征四郎の証人として尋問を強いられている。
4月20日、米国の検事が突然、病室のドアを蹴って現れた。傍らには日系の通訳官。ベッドに横たわる石原に、
「証人尋問を開始する。お前は石原か?」
そう質してきたので、
「ここには石原は一人しかいない」
と惚(とぼ)けながら、
「オレは戦犯だ。なぜ逮捕しないか。裁判になったら何もかもぶちまけてやる。いいか。広島と長崎に原爆を落としたトルーマンこそ世界一級の戦犯だ!」
などと、激しい剣幕で迫った。病人相手の尋問は容赦なく、板垣征四郎と橋本欣五郎との関係を訊いた検事は、石原が知らないと言うと、
「また明日くる。二人の関係をよく思い出して、明日返事できるようにしておけ」
そう言い残し、ドアを開けて去ろうとした。すると、石原はベッドの中から一喝、
「待て! 今の話はなんだ! 知らないものを思い出せとはなんだ!」
大声で怒鳴り上げると、驚いた検事は小さく謝って去って行ったという。
そして翌日、取調べは軍人の法務官に替わり、出し抜けに石原は、
「私が参謀総長だったら日本は絶対に敗けなかった。君は敗戦国だから我々の膝下にも及びつかないだろう」
と“先制攻撃”に出た。
「東条と意見が対立していた?」
法務官がそう尋ねると石原は、
「違う。意見のない者と意見の対立などない」
と、一言のもとに切り捨て、挙句、
「いいか、君のところのペリーこそ戦争犯罪人だ。あの世からペリーを連れてこい!」
さらに法務官が、
「今度の戦犯の中で一体誰が第一級と思われるか?」
と質すと、石原は声高に、
「それはトルーマンだ!」
そう言い放ち、唖然とする法務官に石原は、見舞い客から貰った一枚のビラを取り出して見せながら、
「ここに、米国大統領就任に臨み、日本国民に告ぐとある。ルーズベルトが死んだ直後だから5月頃だ。これはアメリカ軍が飛行機から撒いた物だ。ビラには、もし日本国民が銃後において軍人と共に戦争に協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆殺する、とトルーマンの名で書いている。知っているか」
と突きつけた。首をかしげる法務官に、
「これは国際法違反だ。立派な証拠だ。B29で非戦闘員を爆撃し、広島と長崎に原爆を落としたではないか。オレは東京裁判で、これを話してやるから、オレを戦犯にしろ」
そう一気にまくし立てたのである――。
以上は、石原の主宰した「東亜連盟」東北婦人部長で、当時看病していた渕上千津から直に聞き取ったやり取りである。
石原はその後、郷里に戻って療養につとめながらも、47年5月の東京裁判酒田臨時法廷に証人として出廷。49年春には肺炎を患い、病状はいっそう悪化。同年8月15日、60年の生涯を閉じている。
没後72年、石原が嘆いた「国民道徳の低下」は、果たしていま改善されているのだろうか。
早瀬利之(はやせとしゆき)
作家。昭和15年、長崎県生まれ。昭和38年、鹿児島大卒。著書に『タイガー・モリと呼ばれた男』『石原莞爾 満州ふたたび』『敗戦、されど生きよ』などがある。
「週刊新潮」2021年8月12・19日号 掲載
jlj0011のblog
自滅へ!公明党創価学会<本澤二郎の「日本の風景」(4282)
2021/08/22 09:35コメント10
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自滅へ?公明党創価学会<本澤二郎の「日本の風景」(4182)
<清和会OBが土曜日なのに「朝日が大報道・公明党が潰れる」と>
時々刻々、世の中は変わっていく。政党も新聞も変わる。読売日テレ主導の言論界も変わる。自公3分の2議席体制も変わる。池田大作の平和主義をドブに捨てた公明党創価学会も、運命の自滅への日が迫ってきている!
土日以外、毎日電話をくれる永田町監視人が、珍しく土曜日の21日にも連絡してきた。理由は、同日付の朝日新聞の朝刊記事だった。「公明党創価学会特集記事にびっくりした。問題の信濃町の、深刻で大混乱な有様を詳細に報道している。こんなことはかつてなかったことだ。例の遠山事件の致命的な事件の全容を暴いたのだ。もう公明党創価学会の再起は不能だろう」と。残念ながら朝日を見ていないが、彼の指摘する遠山事件の処理に、ナツオや太田ショウコウ以下公明党と創価学会が慌てふためいている様子が目に浮かぶ。
自業自得だ。自民党に負けず劣らない、腐敗の海に呑み込まれていた結果であろう。安倍晋三の戦前の天皇制国家主義に傾倒、憲法違反の「戦争三法」やカジノ法を強行したツケを払わされているのである。「自民党も救いようがないが、信濃町も腐敗まみれで、もはや宗教政党の体をなしていない」とも斬り捨てたものだ。
<安倍暴政の元凶は3分の2議席体制の主犯は信濃町>
国民は、安倍の首相犯罪に辟易している。国権の最高機関を嘘の連発の場にしてきた。それでも政権は存続、悪政の数々を引きずる長期政権だった。なぜか。
原因を考えない国民は多い。専門家でさえも指摘しない。テレビに出てくる御用評論家は、決して触れない。連中は血税である官房機密費で雇われているためだが、それゆえに安倍が潰れることはなかった。
「犯人は公明党創価学会」との正解を、即答できる日本人は今もいない。政治を理解できないからだ。安倍の暴政は、3分の2議席にある。野党も言論も手が出せない独裁政権を実現した主犯が、公明党創価学会なのである。それゆえの「戦争三法」とカジノ法だった。小学生でもわかる。
その莫大なツケを信濃町は、秋の総選挙で支払う義務を負った。逃げられない。新聞と野党の覚醒も求められていることを付記したい。
<原子力ムラを排除する政権の誕生が、日本の生きる唯一の道>
朝日新聞も、ようやく気付いたのか、読売の後追い新聞では生き延びることが出来ない、と判断したものだろう。そのうち読売を決定づけている「原子力ムラ」にも、メスを入れる責任がある。放射能まみれのフクシマは、人間が住める安住の地ではない。ゆえに、五輪はフクシマ問題を隠すための政治的魔術だった。これに4兆円を使い果たし、結果的にこれの借金の行方が問われ続けていく。もうこれだけのことで、菅は議会に立つことが出来ないだろう。
朝日覚醒は、毎日新聞やブロック紙の東京新聞、西日本新聞、北海道新聞、中国新聞にも波及する。沖縄の新聞も元気が出てくるはずだ。ポスト自公の時代への、跳躍への2021年8月なのである。
日本学術会議も覚醒する重大な場面である。駄目なら解体するほかない。小出裕章のような、勇気ある物理学者に政権を委ねるしかないだろう。200万福島県民を、棄民にするなかれ、である。
<池田大作の護憲平和を放り投げた太田ショウコウも安倍と共に墜落>
わが地元・房総半島の木更津市にも、野党にもいない、勇気ある公明党創価学会の婦人がいたことに、改めて心底誇りたい。特定秘密保護法を太田ショウコウが、安倍の指示に従って強行した際、彼女は怒りをもって「裏切り者」と叫んでいたことを知ったからである。
戦争遺児が、心からの怒りを、裏切り者の悪党である太田にぶつけた。もしも、池田大作が元気であれば、太田は即破門になっていたはずだ。「護憲平和の池田は、日ごろから学会幹部らに対して、太田を監視せよ、油断するなと警鐘を鳴らしていた」という事情通の解説に納得したい。その太田に一撃を加えた最初の人物が、木更津市の戦争遺児だった。
「木更津レイプ殺人事件」の被害者を強いられた彼女を殺害した、やくざ浜名逮捕・極刑にこだわる理由でもある。内外の支援者の決起に期待したい。
実際問題として、公明党創価学会は、太田どころか、ナツオ以下の全公明党と原田と谷川の創価学会も、戦争犯罪人・岸信介の神道の軍門に降ってしまっていたのだから、仏罰は必然と思われる。今後の行方を監視したい。
その契機を遠山の銀座通いが作った。途方もない不正融資詐欺事件で、前代未聞の公明党議員事務所への、東京地検特捜部による家宅捜索へと拡大した。国会議員の事務所のある議員会館の捜索は、戦後初めてのことだったことからみても、検察の力の入れ方を見て取れる。
林検察は、この勢いでもって、検察審査会が「安倍桜事件の不起訴不当」の議決という、重すぎる民意を軽視することなく、安倍逮捕へと駒を進めるしかないだろう。時代の変化を読み取る検事総長として、見事な実績を見せてもらいたい。
<原発再稼働・核武装化は地球と人類を100%の確立で滅ぼす!>
大義のない東京五輪の中止を訴えてきて、改めて地球と人類を滅ぼす真犯人・殺人鬼・死の商人でもある「原子力ムラ」の暴走に辿り着いた凡人ジャーナリストである。
核兵器開発のための高速増殖炉もんじゅ西村成生謀殺事件の存在を、なんと20年後に気付いた。筆者の覚醒が遅れたことに、正直恥じ入るばかりだが、それでもこの重大事件と関連する、10年前の蓋をかけられていた、311フクシマの恐怖の現状を、竹野内真理ブログ・ファイルで認識させられた。
フクシマのことを忘れたわけではなかったが、その蓋掛けが「原子力ムラ」の仕業だと確信的に理解できたことは、したがって最近のことだった。「電通五輪強行」と「制御されたフクシマ」・原発再稼働(自公)の太い鋼鉄の結びつきに、ようやく気付くことが出来た。科学技術が人類と地球を破壊している日本と世界に驚愕するほかない。
元京大の物理学者は「無限の核エネルギー」研究に取りつかれたものの、発見したことは、人間と大地を破壊する悪魔のエネルギーであることを悟った。真っ当な科学者は、皆知っているが、原子力ムラに制御され、カネで沈黙させられていたのである。
<もんじゅ西村成生謀殺事件・竹野内真理blogに目を向けよ>
原子力ムラを支える神道・創価学会のカルト教団が、核兵器製造に突進していたのだ。正義の物理学者は「石破茂は危険」だと警鐘を鳴らしていたことを、昨日になって知って驚いている。凡人ジャーナリストも、ようやく覚醒したと胸を張れる現在である。
もんじゅ西村成生謀殺事件裁判が、覚醒のきっかけを作ってくれた。改めて指摘しておきたい。手元の「原子力ムラの陰謀」(今西憲之)は核兵器開発という原子力ムラの真の目的について、意図的なのか、回避して蓋してしまっている。西村未亡人は「政治的圧力を恐れたのではないか」と語った。
<仏罰か「菅も見放した証拠」の遠山事件捜査の拡大止まらず>
話を公明党創価学会に戻そう。池田の護憲平和を放り投げた、太田やナツオと原田と谷川の裏切りには、誰もが驚きを禁じ得ない。彼らは、人間の道から外れている。
核武装化で再びアジアで覇権を求めたいとの、国家神道・天皇制国家主義の野望に共闘した公明党創価学会を、どう理解すべきだろうか。角度を変えてみても、理解できないだろう。
悪魔の化身なのか。そうだとすると、誰かさんが叫んでいたように、公明党創価学会は仏罰が落ちるしかない。第二のオウムでなければ幸いである。落ちるとこまで落ちた信濃町である。
池田の無念は、推して知るべしか。
<「谷川が新聞から消えた」との情報も>
最近の創価学会機関紙「聖教新聞」によると、腐敗に厳しい「婦人部」と「女子部」を廃止して、新たに「女性部」にしたという。こざかしい組織の改編である。遠山問題に厳しかった婦人部長を更迭したのだろうか。
安倍と菅に縋りついた次期会長候補・谷川について「聖教新聞が報道しなくなった」との異変情報も入ってきた。組織替え・まともな幹部更迭の信濃町なのだろう。むろん、世間を納得させることなど出来ない。
<「すごいblogがいま大変話題になっている」とメール送信>
断末魔の公明党創価学会を伝えるblogが話題になっているらしい。友人がメールしてきた。
本澤先生、おはようございます。
フェイスブックに貼り付けられていました。かなりの方が観ている?ので貼り付けました。 八千代、青柳
乗っ取り原田創価悪党宗教マフィア! : yamanoyokohama2050のblog
http://yonagototori2050.livedoor.blog/archives/10973743.html?_f=sl
2021年8月22日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)
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1.
桃子
2021年08月22日 11:15
公明も自民も大差なく、すべての党は支配者の傘下です。
この国の形がわかってくると、どうしてこれがこうなるのか?
という疑問がスラスラと解けてくるでしょう。
その支配者とは、原子カムラである、お堀の主。
鳥居の主たちです。
彼らは古い時代にこの国を乗っ取りました。それはおなじ民族である
ことから、エリート層を同じ民族に、芸能人は彼らのコマにしてきました。
ですから在日が多いのもこのためです。
熱海の山の崩壊も、調べれば、在日の組織でした。彼らも奴隷なのです。
必要な時に、必要な事を起こされてテレビに報道されてきました。
8月6日、9日は、原子爆弾の日ですが、投下されたのではなく、
あの当時の飛行機に積むのは出来ない程の大きさでした。
日本人科学者の研究で原子力爆弾は作られていました。
地上で爆破させたのです。爆撃機がそれを演出したのです。
ですから、対戦は「八百長」です。海外では「ゴールデンウォリアー」という本が沢山翻訳されて、天皇の金塊もその内容のようです。911も、アルカイダではなく、シーアイ英が仕組んだものでした。
この地球上の支配者たちは、人類を滅ぼすことを、してきました。
彼らはサイコパスといいます。
また、自己愛性症候群といい、精神科も認める症状ですが、精神病の一歩
手前ということですが、彼らは普通ではないことが、これから明らかに
なるでしょう。
彼らを崇拝するのも、自由なのですが、これから先にはかなりのショックを受けることになるでしょう。
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来年4月、大阪市は市立の高校をごっそり大阪府に移管し、台帳価格で約1500億円の土地、建物を大阪府に無償で譲渡する。市有財産を投げ捨てるかのような異常事態を受けて、大阪市民5人が7月30日、住民監査請求を行った。筆者も請求人の1人だ。監査期限は9月末。無償譲渡の差し止めが勧告されなければ、住民訴訟を提起する構えだ。土地、建物などの無償譲渡は、大阪市が大阪府に巨額の寄付をすることを意味する。自治体の財政秩序を乱す行為ではないのか。巨額寄付を議会に諮らず条例適用で行うことができるのか。住民監査請求及び住民訴訟では、こうした点を問うことになる。
大阪市立の高校は現在21校。うち、西高校、南高校、扇町総合高校の3校を新設の桜和高校にまとめる統廃合が決まっており、来年4月には今の扇町総合高の敷地に1年生だけの桜和高、2、3年生だけの西高、南高、扇町総合高が併存する。これを4校とカウントすると、来年4月時点の市立の高校は22校で、すべて大阪府立高校となる。大阪市が高校運営から撤退することには、学校関係者や卒業生、大阪市議会では野党会派から異論が出たが、昨年12月、大阪市議会は高校廃止を議決し、大阪府議会は大阪市立の高校を府立高校とすることを議決して、高校移管は決定した。
しかし、大阪市が22校の土地、建物などを無償で大阪府に提供することは市議会に諮られていない。無償譲渡は松井一郎・大阪市長と吉村洋文・大阪府知事の意向であり、移管計画は最初から無償譲渡が前提だった。大阪市議会で野党会派は「なぜ有償譲渡や有償貸与、無償貸与ではだめなのか」と追及したが、松井市長や市教委から合理的説明はなかった。
8月19日に住民監査請求をした請求人の意見陳述があり、筆者も含め請求人のうち4人が監査委員に高校移管の不当性を述べた。主な内容は、高校移管は2度にわたる大阪都構想の住民投票で大阪市廃止を否決した民意に背く▽大阪市立の高校の廃止は若者に多様な選択肢を準備する役割を放棄した愚行▽大阪市は明治時代から蓄積してきた実業系高校の指導ノウハウなど貴重な教育資産を喪失する▽市議会の議決がない無償譲渡は議会軽視も甚だしい松井市長による市有財産の私物化▽大阪市民に何のリターンもない巨額財産の寄付は市民の財産を棄損するだけの行為。
市立の高校の無償譲渡は、大阪市による大阪府への「寄付」だ。地方自治法で地方公共団体の寄付は禁止されてはいないが、議会で議決するか条例で定めるかどちらかが必要である。今回の高校の無償譲渡で大阪市は、市議会に諮らず、大阪市財産条例を適用した。
同条例16条は「普通財産は、公用又は公共用に供するため特に無償とする必要がある場合に限り、国又は公法人にこれを譲渡することができる」と規定している。高校移管は移管先が大阪府であり、無償譲渡された土地、建物は府立高校として使われるので、16条にあてはまるというのが大阪市の見解だ。
しかし、市立の高校の移管を受けた大阪府は、その用途を継続することが義務付けられているわけではない。廃校にして土地、建物を売却することもできる。中でも、三つの工業高校は現段階の移管計画で1校に統廃合する方針が決まっており、大阪府は処分許可付きの不動産をただでもらうようなものだ。これが大阪市財産条例16条の「公用又は公共用に供するために特に無償とする必要がある場合」に該当するだろうか。
さらに言えば、大阪市財産条例2条は、「予定価格が7000万円以上で面積が1万平方以上の土地の売却は議決に付さなくてはならない」と定めている。同条例2条では売却すら議決が必要なのに、同条例16条を適用して無償譲渡を議会に諮らないのは、極めてご都合主義な条例の解釈だ。
また、地方財政法27条1項は、都道府県が実施する建設事業について市町村に負担を求めることもできるとしつつ、高校の建設、敷地取得の費用は除外している。市立の高校を無償で譲渡させて府立高校とするのは、大阪市が府立高校の設置費用を負担するのと同じことであり、住民監査請求ではこの規定に違反すると指摘している。
大阪市を廃止して特別区に分割する大阪都構想では、5兆5000億円もの大阪市の財産が大阪府に移る制度設計になっていた。大阪都構想は2015年5月と2020年11月の2度の住民投票で否決されたが、この間、大阪市と大阪府は、宝くじ財源の配分割合を見直して大阪府の取り分を増やしたり、大阪市立の支援学校を大阪府に無償譲渡したり、大阪市の都市計画権限を大阪府に事務委託する条例を作ったりと、大阪都構想さながらに大阪市を弱体化させ、大阪府を肥大化させる施策を実行してきた。大阪市の財産、財源、権限などをパーツごとにバラバラに大阪府に移し替える「大阪都構想の分割実施」とも言うべきやり方だ。高校まで分割実施のパーツの一つにされてしまった。
こんな世にも珍しい行政が行われるのは、松井市長と吉村知事の政治的特殊性が原因だ。大阪では2010年、「大阪府と大阪市の二重行政の解消」を謳い文句に大阪都構想を掲げる地域政党「大阪維新の会」(維新)が旗揚げし、以後、急速に勢力を拡大してきた。この「大阪維新の会」において、松井市長は前代表、吉村知事は現代表だ。特定の政党の代表であり、政治家として親分子分の関係の2人が大阪府市のツートップなのだ。
2015年末~2019年3月までは、吉村知事が大阪市長で松井市長が府知事だった。大阪府知事と大阪市長の椅子を2人で入れ替えたりできるのも、維新は選挙に強いからだ。大阪都構想の住民投票は2度とも反対多数とは言え、賛否は極めて僅差であり、府市首長選挙と府市両議会議員選挙は維新が勝利している。住民投票で「賛成」を投じる人々が維新を選挙で勝たせるのだから、維新は大阪都構想の実現をあきらめないか、都構想っぽいことをやるしかないのだ。
維新支持の世論には、大阪市が権限や財産を大阪府に移し替えるのを「二重行政の解消」と誤解して評価している面がある。今回の高校移管が、住民監査請求や住民訴訟という法的手続きを踏むことによって、市民の誤解を解くきっかけになるのを請求人の1人として期待する。
大阪府出身。立命館大学理工学部卒。元全国紙記者。2014年からフリーランス。2015年、新聞販売現場の暗部を暴いたノンフィクションノベル「小説 新聞社販売局」(講談社)を上梓。現在は大阪市在住。ブログ「フリージャーナリスト幸田泉の取材日記」で、大阪都構想の法定協議会や大阪市議会での議論など、大阪の公共政策に関する問題を発信中。
大阪市教育委員会は20日、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言中の4~5月、市立小中学校で実施したオンライン学習について、松井一郎市長らに苦言を呈する文書を実名で提出した市立小の校長(59)を文書訓告とした。
【写真】「近い、近い!」松井珠理奈に密着する河村たかし市長
校長は5月、松井市長と教育長宛てに文書を送付。市長の要請で実施したオンライン学習は通信環境の整備が不十分なまま導入され「学校現場は混乱を極めた」などと批判し、インターネット上で拡散された。
これに松井市長が激怒。報道陣を前に「僕とは考え方が違う」「校長だけど現場がわかってない」「ルール違反ならやめてもらわな」などと不快感をあらわにしていた。
その矢先の訓告処分――。理由について市教委は「独自の意見に基づき、子どもの安心・安全に関する市教委の対応に懸念を生じさせた」と説明。ネット上ではコワモテで知られる松井市長のイメージもあり「粛清」「報復」「返し」というワードが並んでいる。
大阪市在住の子持ち男性は「オンライン授業開始初日、メディアを通じて報じられた模様は対応が進んだ一部の学校のもの。松井市長は『こういう事態に合わせて1人1台のタブレットの準備をしてきた』と胸を張っていたが、実際は昨年度中に何とか配り終えただけだった」と明かす。
多くの学校で通信面を中心に問題が発生しオンライン授業は機能せず。保護者だけでなく教職員からも不満の声が上がっていたという。
一連の問題について、立憲民主党の蓮舫氏は21日、ツイッターで「大阪市で何が起こっているのでしょう。学校現場を市政はきちんと把握しているのでしょうか」と疑問を投げかけている。