昨年からずっと続いているコロナ禍の暮らし、もう1年以上は、基本、家籠もり、遠出、旅行、山歩き等を控えてきたが ここに来てまた感染第三波に歯止めが掛からなくなっており、緊急事態宣言が発令されている始末。新型コロナウイルス収束はいつのことやら、まだまだ当分は 元の暮らしに戻せそうに無い。
最近のテレビ番組でも 過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきており このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事「あの日あの頃・子守、妹の死」を リメイクしてみた。
古い写真から炙り出される妹T子の記憶
数年前に 長らく空き家状態だった北陸の山村の実家の取り壊しを実行したが その前の数年間は 気が遠くなる程の家財道具農機具雑物の整理分別廃棄処分のために 頻繁に往復したものだった。どうしても、廃棄処分出来ずに持ち帰ったものもいくつか有るが、10数冊のアルバムも、その内のひとつだ。それは 戦前、東京で暮らしていた母親や祖母の写真が貼り付けられているボロボロのアルバムだったり、戦後 カメラ等持っていなかった家なので 誰かに撮ってもらったような 貴重な写真が貼ってあるアルバムだったりで、いずれ廃棄処分しないといけないと思いながら、なおざりになっている。
母親と祖母、M男兄弟姉妹が 揃って写っている写真が1枚有る。父親と祖父の姿は無いが、どう見ても町の写真館で撮った記念写真のようで有り、何故 こんな写真を撮ったのかなど知る由もない。真ん中に写っているのは妹T子。もともと、カメラ等持っていなかった家であり 家族の写真等は極めて少なく、M男と妹T子が一緒に揃って写っている写真は いくら探しても、後にも先にも これ1枚しか無く 貴重な写真である。
妹T子は 昭和20年代の終わり頃、3才5ケ月で 命を落とした。当時 毎年のように 全国的に猛威をふるっていた流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)に もともと ひ弱だった妹T子も感染し 負けてしまったのだ。それはまた 今日のような 医療体制が整っていなかった 農村部での 不運、不幸でもあった。流行性感冒とは 今日で言う インフルエンザ、当時は 「流感」「流感」と 呼んでいた。主に 抵抗力の弱い 乳幼児が犠牲になったようだ。今の時代であれば 助かっていたかも知れない妹T子、時代が悪かったとしか 言いようがない。
当時 農村部では 子供が 3人、4人いるという家が 普通で 大人達が 朝から晩まで 野良で働いている間 上の子が 下の子の子守をするのが 当たり前だった。長男であるM男も 学校から帰ると 必ず 幼い妹T子の子守をさせられた。M男自身も ひ弱な体の持ち主だったが、おんぶ紐が肩に食い込むのも忘れて 妹T子をおんぶしたまま 近所の友達と 駈けずり廻っていた。今日では考えられない 危ないことをしていたものである。背中で 妹T子が 泣き出したりすると 「泣くな」「泣くな」と 激しくゆすってみたり 子供ゆえ 酷なこともしていた。
そんな妹T子が 息を引き取る瞬間は M男の脳裏に焼き付いていて消えない。春まだ遠い北陸の3月、雪がちらつく中 父親が 町の医者を呼びに走った。案じて馳せ参じてくれた近所の人や何人かの親戚と 「医者は まだか」「医者は まだか」と 気をもんでいたが 医者が 着いた時は もはや 虫の息。特別な救命医療を施すこともなく 妹T子は息を引き取った。その場に居合わせた全員が 幼い女の子の死に 号泣した。
当時は まだ 村落には 「焼き場」が有って 妹T子の小さな棺が 焼かれる光景も 目に焼き付いている。M男 11才の年の出来事だった。