たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

コロナストレス解消には自然の中を歩くのが一番

2021年01月22日 15時35分47秒 | 散歩・ウオーキング

今朝の南の空、
彩雲?っていうものなのだろうか

当地、今日も 日中は穏やかに晴れ渡り、気温も上がり
春先のような陽気、
こんな好天に 家籠もりではもったいない?
午後になって ほとんど人と出会わない、
近くの川沿いをちょこっと歩いてきた。
スマホの歩数計で 約8,500歩。
薄手のジャンパーでも汗ばんでしまい 
帰ってから着替え。

キセキレイ
ちょこまか動いて 撮らせてもらえない・・、

いた、いた、今日もいた カワセミ
動くなや

遊歩道にカラスの群れ、
集団でなにやら拾い集めているような・・、

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追想「中山道を歩く」その5(再)

2021年01月22日 05時18分50秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。


追想「中山道を歩く」
その5 第4日目 「熊谷宿~深谷宿」

第3日目「桶川宿~鴻巣宿」を歩いた次の週の休日、やはり好天だったこと、仕事に支障がなかったことで、「中山道を歩く」の続きをすることになり 前回の終点JR行田駅に向かった。

午前9時30分頃、JR行田駅を出発→(久下の長土手)→(熊谷の八丁堀)→久下橋→上久下宿碑→東竹院→仏説寺→八丁の一里塚跡→「熊谷宿」熊谷駅踏切→(熊谷市街地)→銀座一丁目交差点→札の辻跡・高札場跡→高城神社→熊谷寺(ゆうこくじ)→八木橋デパート→旧中山道碑→一番街→八坂神社→(旧道)→新島の一里塚跡→忍領石標→新勝寺→(深谷の並木)→熊野大神社→愛宕神社→国済寺→見返りの松→常夜燈→庚申塚碑→「深谷宿」行人橋→本庄町交差点→JR深谷宿


「JR行田駅」
 

「久下(くげ)の長土手」                                    荒川の土手、
菜の花が咲き乱れ、のどかな春の田園風景が広がっていた。

「久下の長土手、深谷の並木 さぞや寒かろ淋しかろ」
久下の長土手は中山道の一部だったが 歌の文句の通り淋しい場所で、
明治時代末期まで 「追い剥ぎ」が出没していたという。

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「八丁の一里塚跡」

 


「熊谷宿」

江戸から8番目の宿場、鴻巣宿から四里六町四十間。
「熊谷宿」は かって忍藩(おしはん)領で忍藩陣屋が有った。
今でも陣屋通りが有り、陣屋跡が有る。
天保14年(1843年)では 
人口263人、家数107軒、本陣2,脇本陣1,旅籠19軒
宿場だったという。

「札の辻跡・高札場跡」       「高城神社」

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「熊谷寺(ゆうこくじ)」                                        熊谷は 熊谷次郎直実の出身地。熊谷寺には 直実の墓がある。

「旧中山道碑」
旧道は 八木橋デパートの中を通っている。

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「新島の一里塚跡」

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「見返りの松」
俗謡に歌われていた「深谷の並木」は、
江戸時代には松、杉合わせて4000本も有ったが 現在は
「見返りの松」が昔日の面影を残しているだけになっている

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「深谷宿」

江戸から9番目の宿場、熊谷宿から二里半九町
天保14年(1843年)では 
人口1928人、家数526軒、本陣1、脇本陣4、旅籠80軒
の宿場だったという。
旧道沿いに脇本陣跡や問屋場跡が有る。
造り酒屋や古い商家が多い町並みで落ち着いた雰囲気が有る。
明治時代の実業家渋沢栄一の出身地としても有名。

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時間的に 本庄宿まで歩くのは無理、
「中山道を歩く」第4日目の終点は JR深谷駅と決め
午後3時頃到着した。
東京駅を模した 立派な、しゃれた駅舎。

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「中山道を歩く」第4日目は 約17キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)


(つづく)

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