新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。
追想「中山道を歩く」
その7 第6日目 「倉賀野宿~高崎宿」
第5日目「本庄宿~新町宿」を歩いてから数週間後の初冬の休日、好天に誘われ、仕事の方にも支障が無く 「中山道を歩く」の続きをする気になり、前回の終点JR新町駅に向かった。
午前9時30分頃、JR新町駅を出発→「小林本陣跡(木柱)」→伊勢島神社~信迎庵(石仏)→芭蕉句碑・スリーデーマーチ発祥の地碑→柳瀬橋南詰→(歩道橋)→高崎線陸橋→「倉賀野宿」倉賀野の追分・常夜灯・阿弥陀堂~→安楽寺→新幹線立体交差点→上信電鉄踏切~(南大通り)→「高崎宿」新町交差点→高崎城址公園→(渋川街道)→高崎神社・大黒神社→君が代橋→萬月堂→(国道406号)→信州街道分去れ→(旧中山道)→八坂神社→若宮神社→常安寺→庚申塚石碑→豊岡の茶屋本陣飯野家→藤塚の一里塚の碑→JR群馬八幡駅

JR新町駅前の国道17号歩道橋を渡り直進、T字状交差点を左折、旧中山道を進むと 「小林本陣跡の木柱」が立っている。
「小林本陣の跡」 「伊勢島神社」

「信迎庵(石仏)」

烏川沿いの土手を進む
温井川(ヌクイガワ)の弁天橋の手前に
「弁天の芭蕉句碑」、「スリーデーマーチ発祥の地の碑」が有る。
柳瀬橋で烏川を渡ると 高崎市(岩鼻町)。
右方に 「岩鼻陣屋跡」が有る。
旧中山道は 現在の柳瀬橋より 約250m下流を 船渡りしていたという。


「倉賀野宿」
江戸から12番目の宿場、 江戸から 利根川、烏川を利用する物資運搬船の最上流の河岸だったことで、
信州方面との水陸輸送の拠点として 栄えた宿場。
天保14年(1843年)では
人口2,312人、家数2,917軒、本陣1、脇本陣2、旅籠32軒の
宿場だった。
「倉賀野の追分」
道標、常夜燈・阿弥陀堂が有る。 中山道と日光例幣使道の分岐点、
例幣使道とは
徳川家康の命日4月18日に行われた日光東照宮祭礼に
朝廷から派遣された勅使が通った道。
京都から中山道と通ってきて ここから日光に向かったという。


「脇本陣跡」

「高札場跡」

「安楽寺」

「高崎宿」
江戸から13番目の宿場、倉賀野宿から一里三十町、
天保14年(1843年)では
人口 3,235人、家数 837軒、旅籠 15軒の
宿場だったという。
高崎宿は 城下町だったため
本陣、脇本陣等は 置かれなかった。
高崎は 鎌倉時代、和田氏によって和田城が築かれ
鎌倉街道の宿場町として栄えていたが
慶応3年(1598年)に井伊直政が 箕輪から城を移し、
地名を 高崎とし、その城下町として発達した。
「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺の暖簾がひらひらと」等と歌われ、
大田南畝は「江戸にかへりし心地ぞする」と記している。
「新町交差点」
JR高崎駅西口入口

「高崎城址公園」・「高崎神社」・「大黒神社」 高崎えびす講開催中で
露店、フリーマーケット、農業祭等で大変な賑わい。
少し 寄り道をしていくことにした。
「高崎城址・乾櫓と東門」




「萬月堂」

「信州街道分去れ(わかされ)道標」

「八坂神社」


「上豊岡の茶屋本陣飯野家」
群馬県指定史跡

「藤塚の一里塚跡の碑」 塚跡には榎の大木が立っていました。
群馬県下で現存している唯一の一里塚。
江戸日本橋から28里(112キロ)。

「JR群馬八幡駅」
次の宿場「板鼻宿」まで足を伸ばし
JR安中駅をその日の終点にするつもりでいたが
帰宅所要時間を考えて、JR群馬八幡駅を終点とした。
午後3時頃 JR群馬八幡駅に到着。

「中山道を歩く」6日目は 約16キロ歩いたようだ。
(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)

17~18年前、まだ自営で仕事をしていた頃のこと、突然 「街道歩き」に興味関心を持ち、思い立って 「日本橋」から「中山道」を 歩いたことがあった。仕事の合間、忙中閑をひねり出してのことで 細切れ、日帰りの繰り返しで歩き継なぐ方法ではあったが、それでもなんとか 2~3年掛けて、「高崎宿」の先 「板鼻宿」まで達した。しかし それ以上続行するには 日帰りが困難となり、まとまった休日等取れない自営の仕事に支障をきたすため あっさり 中止してしまった。もともと 始点「日本橋」から終点「三条大橋」まで 「中山道六十九次」を完歩するつもり等さらさら無く、とりあえず、行けるところまで行ってみよう位の 軽い気持ちだったので、「中山道」のほんの一部、関東平野を縦断しただけで終わった分けだが、残念というよりは 十分、いい体験をしたものだと満足したものだった。現代においては、数十キロ、数百キロ先の地点に移動する場合 鉄道や車を利用するのが当然の時代、敢えて自分の足で歩いて移動してみて、本当の距離感というものを 実感することが出来たように思う。
当時のブログには まだ 「たっぷり時間の有るご身分になった暁には さらに 信濃路から木曽路、そして 美濃路、近江路、京都三条大橋まで 「中山道」を 歩き通してみたいものだ」等と 思いを書き込んでものだったが、今となっては、気力的、体力的に無理、夢の話になってしまっている。
先日 浅田次郎の長編時代小説「一路」を読破したが 中山道が舞台だった。美濃路、木曽路はともかく、「安中宿」辺りから「日本橋」に掛けての描写では 「あの辺りか・・」等と場面を想像、記憶を重ねたものだ。近年、「東海道(日本橋~京都三条大橋)を歩きました」とか、「五街道を全て踏破しました」等という人が やたら大勢おられ、現在進行中の方々もおられる。ブログをやるようになってからは、自分では出来ない「街道歩き」の記録や写真を拝見拝読し楽しんでいるところだ。
横山正治・安斎達雄 著 「中山道を歩く」(上)(学研文庫)から拝借「中山道六十九次」

「中山道を歩く」(おわり)