たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「中学生日記より」その5(再)

2021年01月17日 13時29分06秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。
「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記のことだが まさか 数十年後になって ブログで第三者の目に晒されるとは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その5 「雪割り」


昭和31年3月5日(月)、天気 晴、起床 6時、就床 9時、

1、授業なし、
 中道の雪割り作業、中学全員、僕たちは 組合、役場前、一番かたいところ、
2、今週は 週番だ、
3.やぶが 氷った(凍みた)、


1、車社会以前の時代である。M男の暮していた北陸の山村では、降雪積雪が続く 12月中旬頃から2月中旬頃までは、道路や敷地内も、今日のように 地面までの除雪する等 ほとんどしないのが普通だった。
村人も 生徒児童も 積雪の上に カンジキで踏み固めた一筋の道を往来するという風だった。
日本海を渡ってくる 強い北西の季節風の影響で 冬季は極めて 晴天の日が続くこと少ない山間地だったが 2月下旬頃になると ようやく春の陽射しが強まり 雪解けが始まるのだ。
この時期になると 1日でも早く 黒い地面を歩きたい思いが強くなるもので 大人も、子供も 敷地内の雪や道路の雪を 少しづつ スコップで掘り進めたと思う。
住民は夫々 自分の家の周りから スコップで 1m幅とか2m幅とかの通路を作り進め 隣り近所の家と繋げたり 次第に 学校や駅まで 地面を歩けるようになるが その仕事を M男達は 「雪割り」と 言っていたようだ。除雪機械等無かった時代、自治体が除雪する等も無く 全て 住民の人手で行っていたのである。この日は月曜日であるが 「雪割りも授業の一環」とされたのだろうか、授業は休みで 多分 教師も 周辺の住民も参加して 村落の主要道路の 雪割り作業をしたようだ。M男達は 村落の中心部にあった役場や農協の前の道路の雪割りをしたようだが 建物の影で日が当たらない道路や踏み固められてガチガチに氷りついた場所で 難渋したのだと思う。

2、1学年1クラス、全校生徒も100人程度の小さな中学だったが 登下校を一緒にする集落毎に班分けされ 順番に 「週番」が回ってくるのだが その週は 「週番」になったようだ。
下校時に、最後まで居残り、教室等構内を一巡し 窓の閉め忘れ等を確認する程度の任務だった思うが 最後に 教員室の前に整列し 担当教師に 「特に 異常有りません」等と報告しなければならず、面倒臭い・・という感じだったと思う。

3、当時 M男達が 「やぶ」と言っていたのは 一面 根雪となって雪原状態になった田んぼの上のことだった。前日 温かく、雪原の表面がやや解けて、夜間晴れて 急激に冷え込んだ(いわゆる 放射冷却)場合の翌朝には、滅多には無かったことだが 田んぼの上(やぶ)が凍みて(氷状ではなく)、その上を歩いても平気な状態に成ることが有った。「やぶが しみる」と 言っていたように思う。
「やぶが しみた」朝は カンジキで踏み固めた一筋の雪道等を歩かずとも、田んぼの上を自由に歩いたり、駆け回ったりしながら 登校したものだ。ただ 農業用水の上だったり、しっかり凍みていない場所等もあって危険であり、大人達からは制止されていたような気がする。青空の下、真っ白な雪原に 朝日を浴びて出来る長ーい影を交錯させながら、登校した情景が思い浮かんでくる。


 


追想「中山道を歩く」その3(再)

2021年01月17日 06時18分55秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした


追想「中山道を歩く」
その3 第2日目・「蕨宿~浦和宿~大宮宿~上尾宿」

第1日目 「日本橋」からJR埼京線戸田公園駅まで歩いてから ほぼ1年後の2004年の春になってから、好天の休日、ふっと「中山道歩き」の続きをする気になり、前回の終点、JR戸田公園駅に向かった。。

午前 9時頃 JR埼京線戸田公園駅を出発→「蕨宿」・本町一丁目交差点→(国道17号線)→警察署入口交差点→(旧中山道)→蕨本陣跡・歴史民俗資料館~錦町三丁目交差点~辻二丁目交差点・一里塚跡~六辻・六辻水辺公園~焼米坂~調神社(ツキジンジャ)~「浦和宿」・玉蔵院~慈恵稲荷~(北浦和市街地)~北浦和駅東口交差点~(針ケ谷)~大原陸橋東交差点~与野駅東口入口交差点~「大宮宿」・さいたま新都心駅~大宮氷川神社入り口~(参道・古中山道)~大宮氷川神社~保険センター入り口交差点~大宮警察署~北区役所前交差点~加茂神社~「上尾宿」・宮前駅前交差点~南方神社~氷川鍬神社~JR上尾駅


「蕨宿」
江戸から2番目の宿場、「板橋宿」から2里十町。
江戸時代、幕府は 江戸を護るため、戸田川(現荒川)に
橋を架けず、渡船(戸田の渡し)だった。
 
「蕨宿」は 渡船調整に必要な宿場だったようだ。

 

国道17号から右へ。旧中山道に入ると 
「蕨宿」は 天保14年(1843年)には 
人口2223人、家数430軒、本陣2,脇本陣1,旅籠23軒の
宿場だったという。
旧中山道沿いは、歩道や建物等 時代を感じさせる街並み造りがされている。

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「辻の一里塚跡」

「予期せぬ出会いと旅は道連れ」
辻の一里塚跡で写真を撮っていた時 後方から近づいてきた女性有り。
なんと 仕事関係で旧知のKEさん。
同じコースを 同じ方向に しかも同じ時間に 中山道を歩いていて 
奇跡的に出会ったもので お互い 信じられず びっくり仰天。
思い掛けない道連れが出来て 上尾宿まで一緒に歩くこととなった。

「焼米坂(ヤキゴメザカ)」

兎の狛犬で有名な「調神社(ツキジンジャ)」


「浦和宿」
江戸から3番目の宿場、蕨宿から一里十四町。
天保14年(1843年)では、
人口1230人、家数273軒、本陣1,脇本陣3、旅籠15軒の
宿場だったという。

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ケヤキの大木有り、六国見と呼ばれていた区域。

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「大宮宿」
江戸から4番目の宿場、浦和宿から一里十町。
「大宮宿」は 天保14年(1843年)では
人口1508人、家数319軒、本陣1,脇本陣9,旅籠25軒、
脇本陣の数が多い宿場だったという。

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「大宮氷川神社」
旧中山道が通っていた、欅並木の参道がなんと2km、

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武蔵国一宮、広大な神域、朱塗りの神門社殿、

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高鼻町住宅街を抜けて 国道に戻る。


「上尾宿」
江戸から5番目の宿場、大宮宿から二里。
「上尾宿」は天保14年(1843年)には 
人口793人、家数182軒、本陣1,脇本陣3,旅籠41,
宿場女郎(飯盛り女)数多で大変賑わっていた宿場だったという。

「氷川鍬神社(お鍬さま)」
宿場の鎮守だった神社。今はビルの合間に有る。


午後4時頃、JR上尾駅に到着、
「中山道を歩く」2日目は 約19キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)