たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

あっという間に ピラカンサの実 食べ尽くされており・・、

2021年01月16日 18時55分50秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

つい先日まで まるで見向きもされず 
たわわに付いていたピラカンサの赤い実、
今日 気がつくと 丸坊主になっており、
地面にも大量の赤い実がバラバラ・・、
多分、ヒヨドリが 集団で押し寄せ、
一気に食べ散らかしたに違いない。
今年はまだ 降雪、積雪が無い当地、
周辺の野山や雑木林、川原、畑等に
食料となる木の実や虫が豊富だったのだろうが
そろそろ 少なくなってきたということだろうか。
今日は 日中の気温が 18度前後にまでなり
3月中旬並みの温かい日となった。
明日からは また ぐんと冷え込むようだが
冬来たりなば春遠からじ・・
を感じた1日だった。

メジロもやってきているが 
今年は 緊縮財政?
庭先の餌台に、ミカン、キウイ等を置いていないため
ヒヨドリが食べ散らかして、地面に落ちているピラカンサの実を啄んだり、
裏のお宅の マユミ?の木で 夢中で食事中。
ゴメンネ!、ゴメンネ!、


寒中の好天にやってきたメジロ

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追想「中山道を歩く」その2(再)

2021年01月16日 10時12分16秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした


追想「中山道を歩く」
その2 第1日目・「日本橋」から「板橋宿」へ

「中山道」の起点「日本橋」を 午前9時15分に出発→(中央通り)→JR神田駅前→万世橋→昌平橋→神田明神→(本郷通り)→東京大学→本郷弥生交差点(本郷追分)→追分の一里塚跡→白山上交差点→千石駅前→(白山通り・国道17号)→JR巣鴨駅→(巣鴨地蔵通り・旧中山道)→高岩寺(とげぬき地蔵)→都電荒川線庚申塚駅→堀割交差点→JR板橋駅→板橋下宿→本陣跡の碑→板橋(石神井川)→縁切り榎→泉町→(国道17号線)→志村警察署前→平尾の一里塚跡→(旧中山道)→志村坂下→志村橋→戸田橋(荒川)→JR戸田公園駅


「日本橋」

「日本橋」は 江戸時代、商いの中心地だった。東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光道中、五街道の起点。現在も 国道の基点となっており「日本国道路元標」が置かれている。
最初に造られたのは 慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍になった年だと言われている。現在の橋は 明治44年(1911年)に完成されたルネッサンス様式のアーチ型石橋。歴史的モニュメントでもある。

 


「神田明神」(神田神社)

「東京大学」、赤門と構内


「JR巣鴨駅」

「巣鴨地蔵通商店街」

「都電荒川線庚申塚駅」

 


「板橋宿」

「中山道」最初の宿場、江戸4宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)のひとつ。
日本橋から2里半、
 

               

「縁切り榎」
江戸時代、樹齢数百年の立派な榎が有り道を覆っていたが
いつの頃からか嫁入りや婿取りの行列が その榎の下を通ると
不縁になると恐れられ、誰言うことなく、「縁切り榎」と呼ばれたという。

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「志村一里塚」

「戸田橋」(荒川)
江戸時代には 橋が無く、
現在の戸田橋の150m程下流に渡船場が有ったようで、
戸田市側に「中山道戸田渡船場跡の碑」が立っているという。

戸田橋北詰の交番で 最寄り駅への近道を聞き、JR埼京線戸田公園駅に向かう。
午後3時頃、戸田公園駅に到着、第1日目を終えて、帰途についた。
「日本橋」から 約17km歩いたようだ。



(つづく)


追想「中山道を歩く」その1(再)

2021年01月16日 05時47分10秒 | 旅行記

昨年からずっと続いているコロナ禍の暮らし、もう1年以上は、基本、家籠もり、遠出、旅行、山歩き等を控えてきたが ここに来てまた感染第三波に歯止めが掛からなくなっており、緊急事態宣言が発令されている始末。新型コロナウイルス収束はいつのことやら、まだまだ当分は 元の暮らしに戻せそうに無い。
最近のテレビ番組でも 過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきており このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。


数多のブログ拝見していると、何事においても 緻密に計画を立て、強い意思をもって実行し、成し遂げておられる方々のなんと多いことか、かたや 突然思い立って あれやこれやに手を伸ばして、とりあえずやってはみるものの、中途半端、尻切れトンボ、三日坊主、気まぐれな性分の爺さん、物笑いの対象だなと自嘲もしている。「中山道を歩く」も その限りだった。


もう 17~18年前頃のことだが、突然 「街道歩き」に興味関心を持ち、思い立って 「日本橋」から「中山道」を 歩いたことがある。もちろん 仕事の合間、忙中閑をひねり出してのことで 細切れ、日帰りの繰り返しで歩き継なぐ方法ではあったが、それでもなんとか 2~3年掛けて、「高崎宿」の先 「板鼻宿」まで達した。しかし それ以上続行するには 日帰りが困難となり、まとまった休日等取れない自営の仕事に支障をきたすため あっさり 中止してしまった。もともと 始点「日本橋」から終点「三条大橋」まで 「中山道六十九次」を完歩するつもり等さらさら無く、とりあえず、行けるところまで行ってみよう位の 軽い気持ちだったので、「中山道」のほんの一部、関東平野を縦断しただけで終わった分けだが、残念というよりは 十分、いい体験をしたものだと満足したものだった。現代においては、数十キロ、数百キロ先の地点に移動する場合 鉄道や車を利用するのが当然の時代、敢えて 自分の足で歩いて移動してみると、本当の距離感というものを 実感することが出来る。考えてみれば わずか100数十年前までは どんなに 遠い地であっても、人は 草鞋(わらじ)を履いて歩いて移動するしか 手段が無かった分けで もしかしたら 4代、5代前の先祖が歩いていたかもしれない 同じ街道を歩いているという妙な気持にもなるものだ。
「中山道」は 「中仙道」とも書かれたりするが、徳川家康による宿場制度整備計画の一環で出来上がった街道。江戸と京都を結ぶ533kmの街道で、「東海道」に次ぐ幹線道路だが、江戸時代以前の「東山道」の道筋と重なるところも有る。今では ほとんど国道になっていたり、複数の道筋が出来ており、旧街道そのままを歩く等は無理な話になっているが、ところどころに 当時を感じさせる旧道跡や遺構等が残っており 当時の旅人がどんな思いでそこを通過したのか思い馳せる楽しさがある。
当時のブログにはまだ 「たっぷり時間の有るご身分になった暁には さらに 信濃路から木曽路、そして 美濃路、近江路、京都三条大橋まで 「中山道」を 歩き通してみたいものだ」等と 思いを書き込んでいたが、今となっては、気力的、体力的に無理、夢の話になってしまっている。
先日 浅田次郎の長編時代小説「一路」を読破したが 中山道が舞台だった。美濃路、木曽路はともかく、「安中宿」辺りから「日本橋」に掛けての描写では 「あの辺りか・・」等と場面を想像、記憶を重ねたものだ。
近年、「東海道(日本橋~京都三条大橋)を歩きました」とか、「五街道を全て踏破しました」等という人が やたら大勢おられ、現在進行中の方々もおられる。
ブログをやるようになってからは、自分では出来ない「街道歩き」の記録や写真を拝見拝読し楽しんでいるところだ。

横山正治・安斎達雄 著 「中山道を歩く」(上)(学研文庫)から拝借「中山道六十九次」

「日本橋」から「板鼻宿」まで歩いた時の紙焼き写真が有り、スキャナーで取り込んで 改めて 「中山道を歩く記」に してみることにした。

(つづく)