4月29日は昭和の日。昭和が終わってから今年で、はや20年が経った。「激動の昭和」と言われた64年間は、世界のどこかで人類が醜い戦いをしていた。一昨年までは「みどりの日」だったが去年からは「昭和の日」になり、国民の祝日の中では一番新しい。
昭和から平成に時代は移り、戦争の後遺症はほとんどなくなったかに伺えたが、この期になって、昭和時代の政治の杜撰さが表面に現出してきたといえるのではないだろうか。その1つは年金問題、偏った見方かもわからないが、社会保険関係の公務員が、我々が預けたお金を勝手に運用し、自分たちの天下りが出来るような施設や団体をどんどんつくり、挙句の果ては、『団塊世代大量定年』、『高齢化社会到来』などと、もっともらしい大義名分を並べ立て60歳から支払う予定だった年金を延ばしてしまった。そもそも、高齢化社会が到来することは解かっていたはずだし、団塊の世代が大量に定年を迎えるのは小学生だって計算すればわかるような易しいことだ。なのに、早くから対策を立てたような気配は感じられなかった。良い意味での改革をしないで高い給料を取るだけとって(盗るだけとって…かもわからないが)天下りした高級官僚の、自分たちの老後は悠々自適のようだ。
政治家が官僚をきちんとリードしないからこのような状況になってしまったとも言えるのではないだろうか。政治家は、官僚は、自分の保身のみを考え、50年先を想定した、国民が夢を抱けるような計画はほとんど出てこなかった。寂しい限りである。
現実に、今も目先のことだけを考えた政党同士が選挙で勝った負けたで一喜一憂しているから、国民は政治に期待するはずがない。そして、虚無的になって行動を起こそうとしない。
これは1つには、一方的にアメリカ民主主義+資本主義を取り入れすぎた弊害が出て来ているといっても過言ではない。日本は、アメリカだけの文化を取り入れるだけではなくヨーロッパ諸国の優れた文明や文化を輸入して国を大切にし、先ずは人間を大切にし、地球を守ることをやっていかないと早々、日本は沈没してしまうと懸念する毎日である。
自分を守ることは大切だ。だけど、自分だけを大切にし、他人のことは知らん振りなのだ。特に戦後日本の教育は自分本位の、個人を大切にする教育だから、入試でも試験のある教科については深く勉強するが、その他の家庭科や体育、芸術など試験に関係のない科目はほとんど勉強しない状態が続いている。社会生活をしていく上で重要な教科については強化していない。それが、自習時間になったりして、形だけの授業で、受験勉強に傾けられてしまっている。だから青春時代の多感な時期にグローバルな感覚が養えない。本当に困ったことだ。
確かに、私たちの日常生活は豊かになった。戦後間もない生まれの私にとって、幼児期の貧しい思い出と比べると、夢のような裕福な生活だ。しかし、貧しい時代にはそれなりに『心』の豊かさがあり、地域の人たちが助け合いながら生活していく優しさを、近所の皆が持っていた。だけど、今は、他人は他人、自分は自分。“向こう三軒両隣”の助け合いなどは、なかなか見つけることは出来ない。こんなことをしていると、悪い個人主義が蔓延し地域のコミュニティ、企業の連携などは崩壊していく。ひいてはオーバーに言うと、国の崩壊にもつながる。