いつになくたくさん集まった観客アンケート、お客さんの反応はほぼ好評だった。アマチュア劇団が中世もの、って下手すると際物的になったりするんだよ。演じる役者たちは今の人間だから。言葉使い、表情、仕草、歩き方、何もかもが違う。稽古の中で、歩き方、走り方、座り方、何度もやり直させた。もちろん、刀捌きもね。今の若い奴ら、時代劇とかあまり見てないから、中世の人間たちなんて、異世界、異人種なんだと思う。東映や大映映画、大友柳太朗、長谷川和夫、市川雷蔵で育ったこちとらとは大いに違う。
それでも、その大きな壁を乗り越え突っ切って、それっぽく演じられたってことは、役者の力量が上がって来たってことだろうな。まっ、冷やかし半分かもしれんが、客出しの際に、「プロなんですか?」って言葉掛けられたそうだしな。迫真的演技!なんて評もいただけた。演出としても、まずまず合格、って評価かな。
だがなぁ、台本が適材適役で書かれてたってことも忘れちゃならんのだぜ。それぞれが持ち味を存分に発揮するように人物設定し、セリフを吟味してあるんだ。まず、説経節語りの太郎坊、次郎坊。これはまさに適役だった。歌舞伎風の語りが得意なTは見事説経節を今に再現してくれた。太郎坊の太鼓持ち的コミカルさも狙い違わず、ってところだな。
三輪様の踊りの上手さ、身ごなしの妖艶さはHの持ち味、独壇場だし。安寿役のMは、若く美しく気品があって、舞いのこなしも巧みだ。しかも、どこかはかなげ、これ大切。太郎役とその母親うない役は、これで3度目の舞台、演技力から言えばまだまだなのだが、二人とも体の芯からコミカルな味わいを滲みだしている。そこを使い切るように書いて、大成功だった。女房や愛人に尻に敷かれっぱなしの大夫は、役者そのもの、おっと、違ったか。
問題は厨子王と三郎。実はこの二役をKとNのどちらに振るかは、最後まで迷った。見かけからすれば、ふっくらとお公家顔のKが厨子王、痩せて浅黒く陰りのある表情のNが三郎なんだ。ただ、柴さえ枯れぬ幼い若君、大夫一家を手玉に取る腹黒の若者、二つの対照的な役を演じ切れるとすれば、やはりNだろう。それと、ラスト近くで猛り狂う三郎、これはKの迫力の方がふさわしい。結局、役者の見かけより内面の持ち味、厨子王の二面性の表現、ラストシーン三郎の壮絶さを選んだ、ってことだ。
女が男を演じるってことの不安はなかった。これは見てくれたお客さんたちにも違和感はなかったようだ。こういう芝居のお約束は、十分に行きわたっているってことだな。ただ、二郎役については、演じた役者は、体つきも繊細で身ごなしもたおやか、男役に向いてるとはどう考えても思えないから、舞いの上手、三輪様の息子、という設定にした。野郎歌舞伎に移行する前の若衆歌舞伎の舞手をイメージしてね。
国司の家来役のH、国司の側女房役のNも少ない出番ながら、持ち味を生かし切って舞台に重みをもたらしていた。そうそう、唯一二役を与えた代表は、短いシーンながら、落ち着きのある演技で安心して見ていられた。
十分に考え抜かれた役の設定、それを生かし切った役者の技量、それが、「上手くなったねぇ!」と感心させた中身だったってことだ。