自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

日常で見るグナの色合い

2023年11月07日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係


 三つのグナ特徴色の具体例 2023年11月7日
************************
 
(前回の続きです・・・)
上の絵には、三つのグナの象徴的色合いが、出ています。

左から、赤色は、ラジャス(激性)黄色は準激性、緑色や水色
は平穏のサットヴァ(淨性)、周囲の黒色は、タマス(鈍性)です。

サットヴァの象徴色は、”白色”ですが、ここでは、緑色は、木々の
フレッシュさから準サットヴァ、水色は、海の落ち着きを示すので、
やはり、準サットヴァ的と解釈しました。

花嫁が白いドレスを着るのは、’純性と淨性’の象徴色で、花嫁の
純白を表し、喪服は 死という’安らぎと永遠の眠り’についた死者への、
寄り添いと共感から、タマス的な黒をまとうのかもしれません。

睡眠時は、タマス(鈍性)の時間帯=黒の闇の時間、であることは
前回のお話にも書きました。

そういえば、私たちの”目の色”も、この三つのグナの特徴をよく
表現してくれてます。

ほろ酔い加減のとき、眼の外側の淵は、少し赤みがかかってきます。
怒っている人も、そのように見えるときがあります。
お酒を飲むと身体がある意味、活性化しますので、ラジャス的に
なるからでしょう。
目の周りに紅みのアイシャドウをいれたり、紅い隈取りをする化粧
は、’色っぽさ’の性的エネルギーや、生命力のエネルギッシュさを
強調します。

眼(まなこ)の中には、白目と、黒目(東洋人の場合)の部分
に大別できます。
白目の部分はサットヴァを、中央の黒い角膜は、タマスを象
しています。
”目は心の窓”といわれるように、心を表現している、この三つの
グナの象徴色が、眼に配色されているのですね。

経済事情と、このグナの色は、少し関係があるかもしれません。
その時代の流行色は、その時の経済状態などが関係しているという
意見を聞きました。
たとえば、街に黒色の服をよく見かけるようになると、不景気だと
いいます。 
理由は、黒はタマスの色=不活発=経済の循環が落ちている、という
わけです。

でも、私は、その反対の解釈もあると、思っています。
年を重ねるほど、明るい色を着たいという感覚は、年を重ね衰える
活発さを補うために、色でエネルギーの活性化を図っていると思う
のです。

そう考えると、赤色に惹かれるときは、エネルギーを欲している
ときなのかもしれません
黒色の服を着たいときは、タマス的な気分だからではなくて、
自己の内なるエネルギーを過多に感じていて(ラジャス的)その
バランスを取りたいからかもしれません。

白色は、純潔で純正の色、サットヴァ的な意味を持つことは、誰も
疑わないでしょう。
巡礼するとき、黒装束は見かけたことがありません。
むしろ、黒装束で聖地を訪れたとき、”あなたは魔女か?”と皮肉な
質問を投げかけられたことがあります。

日本の国旗は、”白地に赤く日の丸染めて”と、歌にあるように、
白と赤。
赤は、太陽(ラジャス的な生命エネルギーを表します)・
白色は、純性な平和と協調、サットヴァ的な色
日本の国旗はこの二つのグナの組み合わせです。

国旗は、この国土のエネルギーの象徴なら、そこに住む国民は
そのエネルギーから影響を受け、歴史を紡いできました。
’太陽エネルギーと平和的協調’・・の、精神的日本的遺伝子を、
今こそ、思い起こして、それぞれの立場で、世界の平和のために、
行動を起こして、少しでも、貢献できたらと思います。

太陽の赤色を、ラジャス的で’激性’と訳してきましたが、それは、
攻撃的の激性だけではなく、エネルギッシュで、生命力に満ちている
という意味での肯定的意味であることも、付け加えさせてください。

同様、タマスは、ラジャス的な活動を補うための’休息’、という肯定
的な意味もあり、いわば、陰陽のバランスの′陰’の役目です。

サットヴァは、’中庸’です。
陰陽のエネルギーがバランスがとれているとき、サットヴァ的と
表します。

心身ともども、健全であるために、バランスが大切という意味は、
具体的には、こうした三つの要素を、上手に、絡み合わせていく
ことでしょう。
でも、マニュアル化はできないのです。
人それぞれ、三つの要素のバランスのとり方は、異なるので、
パターン化は無理でしょう。

一つ言えるとしたら、’自分が一番心地がよい’自分を知ること
でしょう。
それが、自分のための適度なバランスにつながるからです。
ただし、私の体験からは、”本当に自分が心地よいと思う”自分
を探すのがたいへんでした。
”これだ”と思っても、ラジャス的に偏っていたり、”今度こそ
これだ”と確信しても、むしろ泥沼に入っていくような、不安な
精神状態に陥ったりーの繰り返しでした。

心地良い自分でいられるように、バランスを保つことは、想像
以上に難しいものでもあります。
その努力が、本当の意味での、”自愛”の一歩だと思うのです。








 
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手の帯状疱疹と”グナ”の関係

2023年11月03日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

サンスクリット語(上)で、自然のことを、
”stri”と言います。

そこには、淨性、鈍性、激性が、
含まれているからです。
詳しくは、本編の最後に・・・     

2023年11月3日
*************************************
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(白は淨性の象徴色です。雪景色は心を落ち着かせますね)

前書き)
私は本来、とても、怒りやすい(ラジャス的)な
激性を持っている人間でした。

アトピー性皮膚炎を生まれながらに持ち、数十年、
包帯を巻いたりしながら、自然治癒力に任せきるまで、
完治しませんでした。

そして、完治したと思ったら、何十年ぶりに、去年から
帯状疱疹が出ました。

今は、右の手の甲、指の間が、痒くて搔きまくり、
ざらざらで、ケロイド状態になっています。

これは、私の中にまだ、ラジャス的な攻撃的で、
´赦せない’(人や社会、自分に対して)が残っている
火種が、くすぶって、ついに、手の甲に出たのだと
感じています。

サットヴァ的な淨性が、私に今こそ、求められて
いるのだと、思いました。

そんな反省をこめて、本日の記事を書きました。
***************
 
存在するものすべてに備わっている性癖を”グナ”と、
ヴェーダ哲学では呼びます。

それらは、三つあり、’サットヴァ’、’ラジャス’、’タマス’
に分けられています。 

前回では、この五つの元素が、この三つのグナに
結び付くと身体の上では、どの感覚器官に現れるのかを、
お話しました。

今日のお話は、グナ(性癖)が変ると、その感覚器官
から受けた情報で、どのような行動傾向をとるかと
いうお話です。
 
サットヴァ’は、外からの刺激を受ける役目、

’ラジャス’は、サットヴァ器官を通して受けた、刺激に対して
の’反応’を司さどっています。

たとえば、”皮膚” は 元素の一つ、風(ヴァーユ)と関連し、
その中でも”手”は ラジャス[激性) から生まれる
云われます。

だから、蚊が皮膚に止まり、血液を吸う瞬間を察知すると、
ラジャス性を持つ、”手”が 反応して、蚊を、叩く行為で
その攻撃性示されます


先にも書いたように、私は、昨年11月から、帯状疱疹が
手の甲に出て、”かきむしる”ほど痒かったのですが、
これは、私の”攻撃性”のバランスをとるための浄化作用
ではなかったかと、自然治癒力的には解釈しています。
 
本来、”皮膚”自体は、 五元素の”風”がサットヴァ~浄性と
結びついて、生まれたものです。

元々は、赤ちゃんのような すべすべで柔らかな肌合い
なのですが、潜在意識にたまっていた’攻撃性’が、
エネルギー的に、噴出すると、アトピー性皮膚炎(常習的)
や、突発的な炎症(痒さをともなう)や、
蕁麻疹、帯状疱疹などの、症状が出ると考えられます。

特に、社会では、いつの時代も多かれ少なかれそうなの
ですが、
’浄性’ と ’激性’ が入り乱れ、激性が好まれ、淨性が、
排斥されていることが多いようです。

’戦争’は激性のエネルギーの現れです。

’平和’は淨性のエネルギーの現れです。

過度な’香辛料’は激性です。

暴走族の乗る、’バイクの激音’は、激性です。

カッと、頭に血が上るのも激性です。

本来は、淨性的な行為や価値観が、安寧で安心な社会
を生み出すのですが、
“現代社会の出来事の多くが、その逆に働いている。”
と言えそうです。

そして、私たちの心身も、無意識の中に、そうした
エネルギー傾向と知らず知らずのうちに、同調して
いるのでしょう。

病がちになるほど、ストレスが鬱積するのは、
こうした激性の社会風潮の影響もあるかもしれません。


ところで、大自然の最初の性質は、皆様、何で
できていると思いますか? 

サッヴァ(浄性)です

その理由は 下のように、言霊(ことだま)的に
説明できそうです。
 
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”大自然”を、サンスクリット語では ”stri”(シュトリ)” と
よびます。

シュトリ の 言霊 を 分析すると、s、t、r の 三音から
なっていて それぞれの言霊は以下とされています。

最初のS=は ットヴァのサ、

次のT=マスのタ、

最後のR=ジャスのラ、

つまり、サンスクリット語の”大自然=”stri”(シュトリ
には、すべての三つのグナが、言霊の中に、その霊的要素
として、含まれてます。

サットヴァは清らかで、平和、平穏、静謐(せいひつ)、

タマス は 従順、謙虚、控えめ、怠惰、愚鈍、

ラジャスは 激情、欲望、断固たる想い、行動のエネルギー

そして、その、資質の順番にも 意味があります。
 
大自然の”stri”を見ると、まず、S=サットヴァ が はじめに
来ています。

これは、穏やかな均衡のとれた資質が一番最初にあることで、
タマス的な、少し怠惰になりがちな情緒や、ラジャスの激性の
しい性質を中和し、統御する役目を持っていることを
示唆します

宇宙の創造においても、最初に顕れるのはサットヴァ的な
性質で、人間界の一般に求められる好ましい人格も、
この サットヴァ性質が根本となるようです。

でも、この三つの資質(性癖)は、どれもが生きていく
ために必要なもので、優劣はありません。

人も、時として、この三つの要素を表現しながら、生きている
わけです。

調和が必要なのですね。

適材適所で、それぞれの資質が活用されていれば、私たちの心身
は健康を保ちながら、健全に生活できるはずです。
 




 
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10月25日記事でお約束した、三つのグナのお話

2023年10月30日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係


人の五感に見られる”グナ”のお話  2023年10月30日
************************
 
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前回の記事で、
”4・三つの属性(グナ)より、有る我 が幻術
をつきやぶることは難しい。 
されど、’まことのわれ’に頼るものはこれを克服する(7章14節)”
というフレーズを”ギータ”からご紹介しました。

今日から数回、この”グナ”のお話をさせてください。
******
 
グナ とは”形象”の意味です。
文字通り、形の中にある”イメージ”、ヴェーダ哲学の中で、
グナは、物質を理解するための、質といえそうです

浄性、激性、鈍性 という言葉をお聞きになったことは
あるでしょう。
グナは、この三つの要素に分けられています。  
サットヴァ、ラジャス、タマス というサンスクリット語が、
この三つのファクターの言葉です。

 
この三つの性質のどれかは、現象世界に存在する物すべてに
当てはまり、元素のひとつひとつを構成するものと言われています
それは’人の性質’にも、あてはまります。

だれでも、”浄性、激性、鈍性”=”サットヴァ、ラジャス、タマス” 
この三つの要素をもっています

どの要素が強いかで、その人の感情や心の側面を計ることが
できます。
たとえば、ラジャス要素が強い時、人は好戦的に、活動的に、
情熱的にふるまう~といいます。 

タマス的要素は、その反対で、動作が鈍く、怠惰的な感情、
受身的行動などにあらわれます。
 
サットヴァ的な要素は、その中道をいくもので、平和的で穏やかな
調和のとれた行動をとります。
まとめると、
 
サットヴァ は 安寧、平和、清らかさ。
ラジャス は、激しさ、活発さ、燃える。
タマス は、スローでゆったり、愚鈍、さえない感触。
が一般的な解釈です。
日本語ではそれぞれ、浄性 激性 鈍性と、訳されてます。
 
どのグナが良い悪い という区別はなく、それぞれが役割を
になっていると考えられてます。

 
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ところで、グナとは、少し離れますが、宇宙を生み出す
元素は、5つあると、ヴェーダ哲学ではいわれています。
空・風・火・水・地 です。
それぞの元素が、上に述べた三つのグナに結び付いて、以下
のような現状が現れるといわれます。
 
それぞれの元素がサットヴァと結びついた時

① 空、 この空が 浄性(サットヴァ)と結びつくと・・・・
最高な純粋の浄性として現れる。
肉体感覚器官でいえば、空の要素は聴覚器官の耳にあたります
 
風 の元素が 浄性(サットヴァ)と結びつくと・・・
肉体的感覚器官でいえば、皮膚に現れます。

同様に、ほかの元素がサットヴァと結びつくと以下のような、
五官が生まれます。
 
③  の元素 は 目、
④ 水 の元素 は 舌
⑤ 地 の元素 は 鼻。 
 
そういえば、’火のように燃える’という形容が付くときは
眼に対してです。

水商売という、水の字がつく商売。
これは、水の要素の、”舌”と関係があるのでしょうか?
料理や飲み物を味わう、’舌’あっての商売だからでしょうか?
蚊が飛んでくると、その気配は、空気の振動で、感じます。
それは’風’の動きです。
その風の表象が”皮膚”ですから、皮膚は、蚊に対して、敏感に
反応するのでしょうか・・・
 
そして、音楽家。絶対音感の発達している人は、空気の振動を、
きちんと聞き分けられる”耳”を持っています
空と耳、ヴェーダでいうところの、空の要素が身体に現れている
からなのでしょうか・・・

このように、自然を構成している、5つの元素から、人も自然の
一部であるため、身体上に、聴覚、触覚、視覚、味覚・臭覚の
機能が生まれました。
 
次に、これらの元素が、ラジャス、つまり激性結びつくと?

”激性”が加味されると、生命力(プラーナ)と結びつくと
言います。

①空 の激性は 声に、 
の激性は、手に 
③火 の 激性は足に現れます、
④第四、第五の元素である  と  は、人体の二つの
排泄器官となると言います。
 
こうして 3つのグナは、それぞれの意味合いを持ち、物質や、
人の性質や、感覚器官にも作用を及ぼしています。 

先もお話しましたが、インドでは一日を、三つのグナに
分けて、食生活にもとりいれています。

朝、夜明けの時は サットヴァの時間帯で静かに瞑想したり、
祈ったりする時間とされているので、 朝食は軽くとります。
なぜなら、まだ体がタマス(けだるく、休んでいる状態)に
浸っているからです。

日が昇れば、だんだん、活力が増し、活動的なラジャス時間帯
に移るので 仕事や勉強が集中できます。 
昼食はこの時間帯にとると、少々カロリーが高くても、代謝が
良いので太りずらいのです。
ラジャスの生命力で、消化力が高まっているからです。
 
日が沈む夕方、この間は再び、サットヴァの時間帯です。
夜明け前同様、祈りが捧げられる時間帯。 
そして、夜になると、タマス的時間帯となり、身体はその活動が
緩やかになって、内臓活動も沈静化していきます。
そこで、夕食は、体に負担にならないよう、日が沈む終わらせる
家族もいます
 
真夜中は完全にタマスの時間帯。 
心も体も、この時間に休息して、活力を復活させるのです。 
 
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 明日に続く......
 
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神に近い人

2023年10月25日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

インドの古代聖典 ギータより
2023年10月25日
********************
悟りを得た人の考え方の特徴とは?

ヴェーダ哲学の元にある、インドの古代聖典”ギータ”から
ご紹介したい。
”真理を 会得せる者は”から始まる、言葉の数々・・・

”ギータ”は、ヒンズー教の聖典と、思っていらっしゃる
かたが多い。
が、もっと、普遍的な、宗教に偏らない、真理を説く。

仏教の”般若心経”の教えの真髄が、このギータの根底に
流れている
(以下抜粋)

1・真理を 会得せる者は、見るも、聞くも、触れるも、
嗅ぐも歩くも、眠るも、呼吸するも、“自分自身は何事もなさず”
と感じる。

かれは語るも、手放すも、受け入れるも、眼を開くも、
閉じるも、己自身とは別なる “感覚” が、その対象に対して
働くにすぎぬことを知る( 5章 8~9節)
 
(須田註)”自分自身は何もなさず” という意識は、小さな
自我意識で、行動しているのではなく,肉体の内なる、大きな
自我【大我】こをが 常に、自分の身体を通して、行動して
いるのだという自覚


2.万物に、等しく内在する神を見るものは、誠の自己を自我
意識によって、けがすことなく、至高者への道をたどる。
(13章29節)

3・我は 本来不生不滅にして、万物の主なるも、おのが幻術
を用いて現象界に化身する。(4章6節)

(須田註:ここでいう、我は、大我(実存的自己)で
その大きな自我(大我)こそ、自分の身体と心に内在する、
神 でもある)

4・三つの属性(グナ)より、有る 我 が幻術をつきやぶる
ことは難しい。 
されど、’まことのわれ’に頼るものはこれを克服する 7章14節)
 
(須田註;ここでいう’我’は、3のそれ と異なり、現象界
の感覚と感情にゆさぶられている"小我"であり、最後のライン
の’まことのわれ’は、内なる、神性のこと。
  
ここでいう、不生不滅 は、般若心経の言葉通りである。 
実存する真の自己は、生まれたり死んだりすることなく、
3つのグナ(次回説明)を駆使して、現象界に物質化した
形をとる(化身する)



++++++++++++++




 
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ギータの中のヨガ④ Dhyana Yogaha (後半)

2017年08月24日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

瞑想を通じて神と一体になるヨガ(後半)2017.8.24

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少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、いいかえると、

神と一体になるための方法を クリシュナの言葉を借りて、

これからシリーズで、お伝えできればと願う。

ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する 

’Indwelling Entity',つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ 

のことである。

誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は

自覚していない。

自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。

苦労を苦労と思わず、喜びの波に有頂天になることもなく、

淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が

生まれて、変化というより、変容するに違いない。 

自然治癒力、病気の意義や病気の真の原因も、自ずから、

納得していただけると思う。

ディワリ, 祭り, インド, 伝統的な, ヒンドゥー教, ディーパバリ, 文化

 先回はユクタ(スピリチュアル意識を深く実践できる人)に触れたところで

終わっていた。 

ギータ6章では、瞑想の道を説く前の前振りとして、内なる神と結ばれる心持に

なる心得として、五感のセンセーションから解放された本当の自己になること

(感覚に左右されやすい自分のマスターになること)、結果を求めず、

そのプロセス(経過)においても、自分の野心や野望を重ねないこと、

常に自己の内なる神を意識しながら、中庸な生活の道を歩み、平穏な心持ちで

生活することが ユクタであると、クリシュナはアルジュナに説いた。

 

そのための方法に瞑想を挙げている。

具体的にクリシュナはその方法を以下のように語っている:

“The person who wants to embrace divinity, must, always in the 

privacy of solitude,

install himself with the Indweller.

聖なる資質を見出したい人は、常に一人の個人的な空間の中で内なる神を

心に反映させるべきである。

 

He must control his body and mind, must be without desires and 

possessive tendencies. In a clean place, he prepares a stable seat 

for himself that is neither too high nor too low and covers it with grass, 

animal-skin and a piece of cloth.

その人は、欲望や物質的所有願望を排除していき、身心を制御する。

(そのために)清潔な場所に、草や動物の皮、布などで地面を覆い、

高くも低くもない安定した座り場所を確保する。(須田注:瞑想のための場所)

 

Seated on that, controlling the impulses of the mind and senses and 

directing them to the Indweller, he must practice the purification of 

his mind. 

そこに座し、心と感覚を落ち着かせ、内なる神に心と感覚を向け、心を浄化

せしめる練習を行う。

 

Keeping his body, head and neck erect, stable and motionless, 

without cognizing external objects, with eyes focused on the tip of 

the nose facilitating one-pointed mental vision, without fear of any 

sort, with a controlled and peaceful mind, practicing celibacy, 

keeping Me as the goal and thinking of Me, he becomes spiritually 

skillful and competent.

体と頭と首は直立に伸ばし、外部に気をとられることなく 

動かさず、じっと静かに保つ。

目は鼻の先に視線を集中させると、心に集中して、ヴィジョンを

抱きやすい。 

微塵も恐怖の心を抱かず、安穏としたコントロールされた

気持ちで、欲望をいだかず、’私”を最終目標に置き、

’私’の事を念じることで、スピリチュアル性を獲得し瞑想は深まり、

上手くいくだろう“

 (6-10 to 14)

 

”私”のことに集中せよ~とは、クリシュナ自身をさしているように

思う。 

同時に、心の内なる神の資質である本来の自分は、宇宙維持の神、

ヴィシュヌ神のアヴァター(生まれ変わり)であるクリシュナに

通じることでもあるので、それに想念を全面的に瞑想中は向けなさいと

言っているのだろう。

アルジュナにこれを語った時、現実に生きている人間の姿をもった

クリシュナを思い浮かべ、瞑想中、心に座すクリシュナに、

集中想念を送ることは、きっと、漠然とした内なる神という存在より、

具体的で効果的だったのに違いない。

私の尊敬する、プッタパルティの故サイババ師は、仏教、キリスト教、

イスラム教、拝火教、ヒンズー教、すべての宗教が崇める神は、

結局は一つの宇宙神であるゆえ、

どの神の姿を思い浮かべ瞑想しても、かまわないと教えた。

この神のみに集中せよ~と限定すれば、神に限界を与えることになり

’普遍な神’という宇宙神の影像と一致しなくなるだろう。

 

現代人の私たちは、クリシュナの代わりに 仏陀やキリスト あるいは

その人が信仰する神様を瞑想中、思念の焦点とすることが、

理にかなっているのだと思う。

 

ここで大切なことは、私たちの奥深いところの内在する‘神’と同じDNAを

持つ自分の神性を自覚すること、それによって、ひきだすこと、それが、

言葉をかえれば、’master myself’ ということであり、自分を統御して、

あるいは、コントロールして、引き出された自分という意味でもあるだろう。

 

日本には仏教の座禅という形で、インド古代の瞑想は伝わり、

現代に根付いているので、日本人にとっては 座禅を組むとか瞑想する 

とかいう習慣はなじみ薄いものではない。

が、キリスト教圏内やイスラム教圏内にとっては、祈りの時間外に、

瞑想するという習慣はないように思う。

しかし、これらの瞑想による精神的安定効果は、実際の医療現場で

ヨーロッパやアメリカで、臨床心理学で応用され、成功を果たしている。

今、流行りのマインドフルネス という方法も、瞑想から来ているのは

注目したい。

果たして、瞑想して何がどのように、変わっていくとクリシュナは

教えているのだろう?

 

クリシュナはそのことを次のように言う:

“With his mind immersed in the practice of focusing on the Indweller, 

he experiences the unity among the apparent diversities.

瞑想の中に心の焦点を常に内在する本我(神我)に合わせる努力を

するものは、現象的多様性に在って、統一的な体験を得る。

 

He sees the same Indweller appearing as himself and all the things 

around as well. 

身の回りすべての中に、彼自身の内在する神が、顕現していることを

知るのである。

 

He, who sees Me everywhere and sees all things in Me, is never lost 

to Me, nor am I lost to him.

そのように、すべからく万物に“我”(神)がいることを見て知る者は、

“我”もまた、その人を見失うことはない。

 

This spiritual aspirant who is established in the experience of unity 

in the apparent diversities, worshipping Me present in all beings, 

gets established in Me at all times regardless of whatever actions

 he undertakes.

このように、スピリチュアルな大望を抱くものは、生きとし生ける者に存在

する”我“を崇拝し、現象の多様性の中に統一性を確立して、常に、彼が何を

なしていても、”我“とともに行動するのである。

 

My dear Arjuna! That spiritual aspirant who always keeps himself 

with the Indweller and experiences both pleasure and misery to be 

the same, is the most exalted-so it has been ascertained!

愛するアルジュナよ! スピリチュアルな大志を抱くものは、不幸の中でも、

喜びの中でも、同じく、内在する神とともにあるがゆえに、最も格調高い、

そのことはすでに確認されていることだ”

(6-29 to 32)

 

瞑想の目的も方法も、宗教や宗派によって異なることだろう。 

クリシュナはここに一つの指針を与えているようだ。

つまり、その目的は、心を落ち着けることや無我の境地を試みることだけでは

なく、瞑想する人の心の内奥を深く深く掘り下げ、究極に座している、

本来のその人の魂~神と同質の大我に焦点を当てるということだ。 

それが 瞑想の大きな目的で、それをたゆまず、修練するうちに、

現実生活の中に少しずつ変化が訪れるという。 

 

Indwellerを見続けている人は、現象の波の中に、喜びや悲しみの波の中に、

一転のゆるぎない、心の碇(いかり)を下すことができ、波に

翻弄されるように見えるときでも、流されない自己を体験し得るというのだ。 

それはまた、現象に現れる万物や万象に神の存在を感じるということでもある。 

だからこそ、私たちには不幸に見える事柄も幸せに見える事柄もそれに 

一喜一憂して心を動揺させるほどのこともなく、すべての事項の裏には

私たちの知らない、見えない、感じない、神の恩寵と愛が常にそこに

存在しているということも知りえるというのだろう。

 

この章の最後にクリシュナは、興味深いことを語る。

それは、今生で霊性が高いか否かというのは 前世でどのように

生きてきたかが影響しているという。

“His spiritual maturity at re-birth is at the level attained in the

 previous body.

 輪廻して得たスピリチュアルな成熟度は前生で得たレヴェルでもある。

 前世で獲得した分の 精神的スピリチュアル的成熟度はすでに

生まれながらにその人に備わっているという。

さらに、

 He then strives to progress further in efforts to embrace the Indweller.

彼は内なる神と一体化するための努力をさらに続け進化していくだろう。

 

Unconsciously, he is impelled by the practices undertaken 

by the previous body.

無意識にも、彼はかつて生きてきた時と同様の修練を今世でも自分に

課している。

 

Even a sincere enquirer of the knowledge about the Indweller 

transcends the bondage of actions originating in the Vedas.

 内在する神に関する真摯な知識の取得者でさえ、ヴェーダに基づいて

行動の規制(しがらみ)を乗り越えている。

 

(須田注; 瞑想実践しない、知識者ですら、行動のしがらみ、つまり、

カルマを超越することが可能だという。)であるのなら、なおさら、

瞑想するものは、神の栄光を勝ち取るだろうと、クリシュナは言う。

 

 The committed spiritual practitioner who practices embracing the 

Indweller with perseverance, gets purified of sins, progresses 

step by step to fulfillment many births and attains the most exalted

 and glorious state of the Indweller.

 スピリチュアルな熟練者は不屈な努力で内在する神と一体になろうと、

修練し、罪を清め、一歩一歩、その時の転生を大切に努力を重ね、

最高の栄光ある神との一体を成し遂げるのである”

 (6-40 to 45)

 

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