自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ギータの中のヨガ④ Dhyana Yogaha (前半)

2017年08月19日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

瞑想を通じて神と一体になるヨガ ~(前半)中庸な道

*****************************2017.8.19

前回よりの続きです)


ギータ6章でのクリシュナとアルジュナの会話が、今日のテーマである、

クリシュナは、瞑想を通じて神と一体感を味わうことについて語る。

6章1-2でクリシュナはアルジュナにこう語っている:

“神性と一体化することが、俗世間から離れることだと言われてきている。

プロセス(経過中)での 自己の思惑や欲望を犠牲にせずして、

その目的に達することはできない。“

続けて

“It is said that for the seeker of freedom, 

doing action is the means for progress.

 Purification of the mind is the means as the progresses 

to embrace the Indweller and becomes skilled at it. 

He starts embracing the Indweller when he doesn’t 

attach himself to the sense-objects or actions, 

and renounces all possessive desires and resultant resolutions. 

(6-3-4)”

 

自由を求める人にとって、行動することは進歩することだと言われている。

心を浄化することが、神を心に抱くための向上手段であり、

それを確実に助ける。

五感の刺激対象に無頓着になり、五感の刺激のための行動に束縛されず、

持てる欲望を捨てられたとき、彼は内なる神と一体感を味わい始める

 

五感の欲望や刺激に執着なくいられる、そうした魂の進化はどのように

達成できるのだろう?

クリシュナは そうした理想に程遠い状態の自分をダメだと決めつけるな

という。

自分こそが、最高の友であり、敵にもなるからだ。

自分という敵に勝った時の自分は、最高の友となる。 

その反対も真なりである。

その事を以下のように、表現している。

“He, who has not mastered himself, becomes his own friend. 

He, who has not mastered himself, becomes his own enemy 

and plays the role of an opponent to himself” (6-5,6)

 

上記青文字の言葉の中の、

”He, who has mastered himself” という表現は、自分自身の主になる

ことで、(小我の)自分に勝った人といういみだが、

サンスクリット語の原語に近い英訳であるはずなので、

この一行をもう少し深く読んでみたい。

 

Master、マスターするという意味は、例えば、外国語を使いこなせるように

なったときなどに、使われているが、目的語が、自分であったとき、

つまり、’自分をマスターする’というとき、の意味はどのような状態を

指すのだろう。

クリシュナは具体的にその状態をこう述べる;

“He, who has mastered himself, stays peaceful and undisturbed 

while contacting the opposing sensations of cold and heat and 

remains unperturbed by honor and humiliation. “ 

つまり、

”自己をマスターした人は、平穏な心持で、対極的な感覚的刺激、たとえば、

冷たさや熱さ、などに煩わされず、名誉や屈辱に心を踊らされないように

なる。“

 

平穏な心持とは、平和な平常心を常に保っていられること。 

対極的な刺激とは私たちが日常生活で“感じることすべて一般”が

対象になるだろう。

好き嫌いの感覚を起こさせる事柄や現象や人や物、に対する自分の気持ちは

常に自分の感覚器官からくる刺激となって、心の波を作り出す。

綺麗-汚い、美味しい―まずい、愉快-不愉快、嬉しい-悲しい、など、

感覚によってもたらされる情報に心が引っ張られると、平常心とか穏やかな

心持というのは維持が難しいということだろう。

 

それは難しいことだが サンスクリット語でいう “ユクタ(yukuta)”

を心がければ、可能だとさらにクリシュナは説く;

“This peace is not available to the one who eats excessively or

 to the one who starves, to the one who sleeps excessively or 

to the one who abstains from sleep. 

The skilled spiritual practitioners(yukuta) who practice 

moderation in food, living, action and sleep are able to 

embrace the Indweller without difficulty.” (6-16,17)

 

訳)心の平安は過剰に食べる人や飢えている人は得難いし、

過剰に睡眠をとる人や不眠症の人にも得難い。

スピリチュアルな行動に長けている人(ユクタ)は、程よく食事し、生活し、

行動し、睡眠をとり、困難なく、内心に存在する、絶対者を心に抱くことが

可能となる。“

 

古代インドでも、日常生活での”~過ぎない”ようにという、

注意を 敢えてクリシュナがアルジュナに語って聞かせるほど、

ほどほどの調和のとれた、’程よく’ の生活は 当たり前であるからこそ、

案外難しかったのかもしれない。

 

(前半終わり、次回、後半に続く~)

 

クリシュナと恋人ラダのモチーフ。横笛を吹き、牛飼い女たちと踊りながら、その中の一人

最愛のラダと愛を育むクリシュナの有名なモチーフ 

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ギータの中のヨガ③ Sanyasa Yogaha

2017年08月14日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

Embracing Divinity through Renunciation : 世俗を捨てて神性を抱くヨガ

2017・8・14

*******************************************

 少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、いいかえると、

 神と一体になるための方法を クリシュナの言葉を借りて、これからシリーズで、

 お伝えできればと願う。

 ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

 クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する ’Indwelling Entity',

 つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ のことである。

 誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は自覚していない。

 自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。苦労を苦労と思わず、

 喜びの波に有頂天になることもなく、淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が

 生まれて、変化というより、変容するに違いない。 自然治癒力、病気の本質や

その原因も、自ずから、納得していただけると思う。

 

 

その話(前回)を聞いたアルジュナはクリシュナにこんな質問を投げかける

(5章-1)

“Krishna! 

You praise both giving up action and embracing action. 

Among these of two, which is superior? “

訳)クリシュナ!

あなたは行動をあきらめること、そして、行動をすること、双方の意義を

たたえているが、実際、どちらが勝っているのでしょうか?“

 

クリシュナは現実的にこう答える:

“Among these two, doing action is better than not doing it.

He, who neither hates nor desires is to be understood 

as an eternal renunciant. Having freed himself from the 

attraction of the opposites, he very easily frees himself 

from the bondage of action. It is the amateurs, not the scholars, 

who describe knowledge and action as different. 

He, who establishes himself firmly in any one of these two, 

gets the benefit of both. 

The final state of awareness attained by the enquirers of knowledge 

is attained by the practitioners of selfless action as also.  

Knowledge is the same as embracing divinity in action. 

He, who realizes this, has indeed realized.  

Without doing action and embracing divinity while doing so, 

it is very difficult to give up the awareness ‘I’m the doer.’

But embracing action as divinity itself and becoming skilled 

at this embrace, one rises to the awareness of Brahman promptly.”

 (5-2 to 5-6)

訳)行動する方が行動しないより勝る。

憎しみも欲望もなくなったものは世捨て人と理解されよう。

また、自分に向き合う魅惑的対象(誘惑)に左右されなければ

行動の束縛からも解き放たれる。

また、知識と行動とは別物だというものは素人(神の智慧において)

学者(熟知者)ではない。

知識か行動か、どちらかにおいて、自己をしっかりと確立したものは

双方の恩恵を受け取ることができる。

つまり、真理の知識を積み重ね、最終的に悟った人は 同時に、

無我の行動の実践者になるのである。

真理に至る知識とは、行動するうえで神性を意識しているということだ。

それを悟ったものは、まこと解脱を実践できる。

行動しているとき、同時に、神性を心に抱いていないと、

‘行動を起こしている者(行為者)は私である’ という考えをなかなか

捨てることは難しい。(須田注:行動していても、私を媒体に神が

この行為を為している~という考え方が、神を心に抱いている人の考え方)

しかし、行動は神性からなされているという考えを抱き、

それに徹することができたとき、人は即ブラフマン(宇宙神)の

智慧の高みに到達できるだろう。

 

 上のクリシュナの言葉で大切な要点をピックアップしてみると~

 

①    知識において、行動するときにおいて、神と自己の関係をしっかりと

把握したものは、双方の恩恵を受け取ることができる。

つまり、真理の知識を積み重ね、最終的に悟った人は 同時に、

無我の行動の実践者となり、解脱することができる。

 ******

 

ここでクリシュナが言う所の、知識とは、受験のために暗記したり

するような教科書に書かれている知識ではない。

サンスクリット語の言語では その知識を、ヴィディヤ と呼ぶ。

そういえば、タイ国に仏教とともに、サンスクリット語が伝わり、

タイでは、現在でも、大学をウイッタヤアライというが、もともと 

大学 で教えた事は、真理のための知識で、その場所を、勉強する

最高教育学府という意味でこのようにサンスクリット語がそのまま、

使われたのだろう。

 

②    神性の働きが基にあり、(自分は)行動しているという考えに

徹すること。

そのような行動の積み重ねで、人は即ブラフマン(宇宙神)の智慧の高みに

到達できるだろう。

 ***

自分が行動をする、が、その行動の成し手は、自分の小さなエゴではなく、

この自分を生かしている、大きな生命の力、そしてその意思、つまり,

神性が自分を使って行動している~と理解できたときは、

その人は最高の智慧(ブラフマンの智慧)を獲得できるという。

この理想的な意識を再び、繰り返して説明しているのが以下の

クリシュナの言葉である。

With mind purified and focused on divinity, with body and senses 

well controlled, he does his actions attaching himself

 to the one spirit that motivates him and all beings. 

Although he undertakes actions, he is not touched by them. 

The wise, mentally holding on to the Indweller and d

oing actions like seeing, hearing, touching, smelling, 

eating, moving about, dreaming and breathing must think 

‘I’m not the doer.’(5-7~8)

訳)心を澄ませ、自分の内奥にある、神性に焦点を合わし、

身体と感覚器官を その自分のコントロール下 において、

生きとし生けるものを生かしている宇宙の心に自分の行動の動機

を置く人。

その人は、行動していても、それに影響されることはない。

賢者というものは、気持ちは常に内なる神に全託して、見たり、聞いたり、

触れたり、嗅いだり、味わったり、動き回り、夢見たり、息をしたりして

いるが、‘私(小我)が、行為者ではない’ と考えている。

***

内なる自分の本質、Indweller を常に意識しながら行動する人は

自分が主体となってする行為ですら、’自分がなしているのではない’と

認識している。 では、誰の行為か?といえば、冒頭のクリシュナ

の言葉にあるように、Indweller の行為であると考える。

このことは、上のクリシュナの言葉の中の、

’he does his actions attaching himself to the one spirit that

 motivates him and all beings.’という言い回しに込められて

いるのだろう。

 さらに、続けてクリシュナはそのことを強調して以下のように

述べている:

 

People who do their actions embracing the Indweller purify 

their mental impulses. 

Whatever actions they do with their body, mind, 

intelligence or the senses, they do without attachment 

to the actions, results or to the feeling ‘I’m the doer.’

He, who practices the discipline of doing action as selfless 

sacrifice and who discards the desire for results from his actions, 

attains peace progressively as his discipline progresses. 

On the other hand, the person without this discipline is 

impelled by desire for the results of action and gets bound 

by action. (5-11,12)

訳)内なる神への意識を抱いて行動するものは、自然と心が清まる。

肉体的、心的、知的、感覚的な いずれの行動をとる際でも、

自分が行為者であるという思いはなく、行いや結果に対し何も執着

を持たない。

無我で、犠牲的行為を自制的に行い、その行為の代償に得る結果を

放棄する人は、修行の進展にあった、心の安寧を徐々に得ていく。 

一方、こうした自己修養に無頓着なら、欲望に促されるまま、

行為の結果を求め、その行為に縛られることになる。

 

精神的、スピリチュアルな行動だけが神の目から見て、心の安寧に

つながる、

無我の犠牲的行為ではないらしい。

肉体的な行動、つまり、本能的、生きるために必要な行動、

感覚的な行動、つまり、五感感覚が察知した刺激や情報に反応して

行動する行為、それらでさえ、無私で犠牲的行動となりえるという。

どういうことだろう?

Indweller と呼ばれる、誰の心にも座している、神性の自分を意識

して行動すれば、どんな行為も、ある意味、神に捧げる行為となる

のだろう。

犠牲というのは、自分の小さな意識、エゴ意識を犠牲として捧げること

かもしれない、。

行為の結果を求めて行為するのでなければ、その行為は”エゴ”の自分では

なく、”神性の自分が行為者” であるという意識に達するのだろう。

”肉体的、心的、知的、感覚的” の日常生活 一つ一つの行為すべてに、

それは当てはまるのだろう。

 

この章で、クリシュナは、世俗を捨てて神と一体になるヨガ 

を教えている。

それは決して、家族や仕事を捨てて、洞窟や森の隠者の生活を

勧めているのではなく、エゴ意識、自分がしている という

意識を犠牲に神に捧げ、すべての行為は神のために、あるいは、

神自身が 行っているのだという

意識で行うことを指しているのだ。

だから、誰でも今から、この場所で、実践できるヨガでもある。

何を捨てるのか?

小さな自分、エゴ意識を行為の主体者とするのではなく、それを捨てて、

大きな自我、大我、つまり、神性に帰結して、行為する心持を抱け

ということなのだろう。

 


 

 

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ギータの中のヨガ② Saankhya Yogaha”

2017年08月09日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

アートマの本質を知ることによって内在する神性と合一する

*****************************************2017/8/09

少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、

いいかえると、神と一体になるための方法を クリシュナ

の言葉を借りて、これからシリーズで、 お伝えできればと

願う。 

ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する 

’Indwelling Entity',つまり、”内在する普遍の資質”、別名

アートマ のことである。


 誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達

は自覚していない。

自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。

苦労を苦労と思わず、喜びの波に有頂天になることもなく、

淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が生まれて、変化

というより、変容するに違いない。 

自然治癒力、病気の本質やその原因も、自ずから、納得して

いただけると思う。

 蓮の花, 孤立しました, Pngスイレン, 孤立しました, 花, 黄色の紫色

今日のクリシュナの言葉はギータの2章にある。 

 

背景として、アルジュナが戦闘の場に出陣するに及んで、

敵方に属している、自分の親類や師匠などに歯向かい、刃

を向けることに、心が萎えていくのである。

クリシュナはそこで、アートマ という 心の主体的主

あるじ)、人間の神聖なる本性、内在する神 について

語り、結局、殺し殺されという行為ですら、敵陣の人たち

のアートマを破壊することはできないのだから、心を消沈

させる意味はないと教え諭す。 

それでも、闘うとしたら、ダルマ(正義)を後世の人たちに

身をもって示すという使命で行うだけだと、付け加えている。


何頁にも上る、2章に書かれたクリシュナの言葉の中から、

ヨガ~神との合一に関しての言葉を選んでここにご紹介したい。

 

 Look, my dear son of Kunthi! The senses touch the 

sense-objects, as per their nature. These sensory contacts 

give rise to the feelings of cold, heat, pleasure, misery etc. 

These feelings come and go, appear and disappear. 

They are transitory. 

My dear Bhaaratha! Develop fortitude. 

 Bear them, unconcerned! 

Arujuna, you are a man of excellences! Remember, he 

whom the pleasures and miseries of life do not disturb 

and  whose intelligence is firmly established in the

 constancy among the changes – only he can be blissful 

always. 

That which is not (the “seen”), can never be; that which is 

(the “seer”), can never not be. Those who have understood 

the Truth, experience the finality of these two observations. “ 

(2-14,15,16) 

訳)クンティの息子よ!(アルジュナの事)

感覚器官はそれぞれの性質によって、外部の対象の情報を

与える。

寒い、暑い、喜び、悲しみ、などの感覚はやってきては

消えていく。

常に変化している。

だから、アルジュナよ、不屈の精神を養え。感情・感覚に

左右されるな。

お前にはそれができるのだ。

覚えておくがよい。喜びや悲しみに流されない者は、そうした

変化の中で絶えず知性をゆるぎない状況に置いている、

ただただ、彼は、そうして、至福を味わうことができるのだ。

認識されないことは成立することはなく、認識する人は

そうならないということはない。

真理を理解したものは、この二つのものの観方の結末を体験

することができる。“

 

’不屈の精神’とは、困難に負けないとか、根期強く努力前進

していくという意味とは異なり、五感感覚の対象に、微動だ

せず、心の平安を揺るがされないための、自分の最も内なる

本性に対してのゆるぎない信念をさしている。


それは 信じる、ということ、固い信念をさし、こうで

あると信じたことに対して、移り変わる世の中の現象に

影響を受けることなく、その信念を貫き通すということに

通じる。

 

“That which is not (the “seen”), can never be; that 

which is(the “seer”), can never not be.” 


と上のクリシュナの言葉の最後の節に出てくる言葉。

これは、禅問答のような言葉だ。 

See という言葉がキーワードだと思うが、これは単純

に見るというより、認識する(I see~わかった)という

ニュアンスだろう。 

つまり、the seen とは、認識されていること、その前に

notが付いているから、’認識されないこと’となる。 


認識するというのは、物事が成就するために’心の目で見る’

という意味がある。

だから、心の目できちんと見ていないことは、それが実現

することは難しいということだろう。


反対に、the seer 、つまり、認識する人 にとっては、

その人が認識したことは’そうならないということは無い’、

つまり、現実化する~ということだ


言い換えれば、認識を続けること、それと、信念を貫く

とは、ほとんど同義語かもしれない。

認識してはっきりと心の目でそれを見続けることが、実現の

一歩だからだ。 

そうすることによって、不動の心は造られ、どんな周りの

状況にも左右されずに、自分の思う所を現実に引き出すと

いう真理をクリシュナはアルジュナに教えた。

 

 次に、

“This indwelling entity the Atoma, neither kills nor gets

 killed. 

This entity never takes birth and never dies. It is never

 absent. 

Therefore, it is not something that makes its presence felt 

out of a sometime-absent situation. It has no birth, 

undergoes no change, is ancient and is always present. 

It is not killed when the body is killed. 

Purtha! 

He who knows this entity to be Indestructible, permanent, 

without birth and changeless, tell me, whom will be kill or 

who will he takes to be the killer? The indweller discards

 old, used-up clothes and don’s new clothes. Weapons do 

not destroy this entity. Fire does not burn this. Water does

 not wet this. 

Wind does not dry it. 

This entity cannot be cut, burnt, wetted or dried. 

 It is Indestructible, always present everywhere without 

movement and is well established. It is beyond the ability 

of the senses to perceive and of the mind to capture.

 It cannot be changed in anyway whatsoever.  

Therefore, understand it as such.

Do not be disheartened.”(2-17 to 2-25)

 

訳 心に住む神性、アートマは殺すことも殺される

こともない。

アートマは生まれたり死んだりすることはない。

存在しないということが無いのだ。つまり、ある時は

そこに在り、ある時は、そこに居ないということがない。

古代から現代にいたるまで、生まれることなく、変化

することなく存在している。

肉体が殺されても、アートマは殺されない。

変化することのない永久不滅の実在、それがアートマの

資質だとしたら、だれが一体殺し、誰が殺されるのか? 


内在するこの資質(アートマ)は古い服のように捨てられたり

しない。

武器でアートマを破壊できず、火で焼き尽くされたり、水に

ぬれたり、風に乾いたりするようなものではない。

傷つくことなく、自然の力に影響されることなく、あらゆる

ところに実在し、移動せずとも、よく秩序を保ち、人間の五感

を超えていて、心(mind)でとらえることはできない。

そういうものだと知るがよい。

ゆえに、心を落ち込ませることもなかろう。“

 

ここで初めて、アートマ という単語が出てくる。

簡単な比喩で、アートマの普遍性をクリシュナは

アルジュナに説く。

死と生の狭間(はざま)に置かれて、理不尽な殺戮を

余儀なくされていると感じている、不安げなアルジュナ

に対し、自分自身のアートマを自覚せよと、クリシュナ

は言う。


それは時を超えて、ただ“存在”している唯一の実体で

あることを、様々な角度で語り、アルジュナに理解を

求める。

 

ギータで描かれる クンティ家とその敵,ドリタラシタラ

(Dhritharashtra)家 の闘いは、この地球上の対照的価値観、

つまり、二元性の世界(二つの価値観のある世界)の象徴

である。 

アルジュナの属す、クンティ家は スピリチュアルな存在

として象徴的に暗示され、敵方は物質的な存在として

暗示される。

だから、双方の闘いは、聖と俗的象徴の闘い、あるいは、

神に従順な心と、それに相反する心の闘い、と言えるだろう。


賢者はこの闘いは、現代の私たちの心の中で毎秒起きて

いるものでもあると教える。 

それは、毎瞬、繰り広げられている、私たち一人ひとり

の心の中の、アートマと小さなエゴ(自我)の葛藤’こそが、

ギータの世界で象徴的に描かれているという。


第二章で説かれた、ヨガの名前は、サンキャ ヨガ。

アートマとは何か、理解すること、アートマの実在を自分

の心にも、闘う相手の心にも、見出すこと、感情に左右され

ない、アートマを見据える不屈な信念を養うことで、

神の心と一体になることが可能である、とする、ヨガ行為の

別名でもある。

 

スイレン, 孤立しました, 花, 黄色の紫色ロータス, 花, スイレン, ピンク

 

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Jnana Karma Sanyasa Yogaha~ギータの中で説くヨガ(1)

2017年08月04日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

Embracing Divinity Wisdom and Sacrifice in Action

=常に聖なる智慧と聖なる犠牲的精神を心に抱いて 行動するヨガとは?

 2017.8.5

*******************************************

少しでも多くのヨガ、生活の中でできる、実践方法、いいかえると、

神と一体になるための方法を クリシュナの言葉を借りて、これからシリーズで、

お伝えできればと願う。

ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する ’Indwelling Entity',

つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ のことである。

誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は自覚していない。

自覚したとき、その人の人生は、心身ともに一変するだろう。苦労を苦労と思わず、

喜びの波に有頂天になることもなく、淡々と、しかも、確実にゆるぎない信念が

生まれて、変化というより、変容するに違いない。 自然治癒力、病気の本質や

その原因も、自ずから、納得していただけると思う。

 

Murudeshwar, アラビア海, カルナタカ州, Gopuram

チャリオットの中のクリシュナとアルジュナ~クリシュナ自ら御者となり、

アルジュナに教えを説く~ギータの場面

 

 

真理に直結している智慧、犠牲的行動を通して得られる神との合一、

そのヨガ(合一)を ジャナーナ カルマ サンヤシ ヨガ と呼ぶ。

このヨガをクリシュナはギータ4章でアルジュナに教える下りを

ご紹介したい。

ここで注目したいのは、行動、つまりアクションという言葉だ。

 

クリシュナは

“In the world of human beings, action is followed by results quickly.

(4-13 ) この世の中では行動に対し結果が伴う。

と述べているが、クリシュナは、続けて、云う:

He, who understands that actions do not attach to Me and

 that I do not desire the results of actions, is not bound by action. 

Seeking freedom from action, many people carried out their actions 

in the past in this manner, knowing it is only the nature’s tendencies 

that perform action.

Therefore, you do your allotted work in the same way. (4-14,15)

 

訳“ 私がアクションに固執せず、結果に無頓着であることを

知っているものならば、アクションに縛られることはない。 

アクションをとることから自由になるため、人々は昔から、行動

することは、自然の摂理だと思うがゆえに、そのようにふるまってきた。

だからこそ、皆は毎日の決められた仕事をこなしてきたというわけだ。

 

神(クリシュナ)のいう行動に固執しない、結果を求めないということは

どういうことなのだろうか? 

私たちは、よりよい結果を残そう、と行動することが、建設的で前向きな

姿勢と好ましく感じているが、結果を求めないとは?

アクション、行動するとはどこで、ヨガと関係するのだろうか?

クリシュナは続いて述べている:

“Even the learned are confused about what is action and 

what is action-less.” 〈4-4-16〉

訳 “教養ある人たちでも、アクションとは何か?とアクションが無いと

はどういうことか?を知らず、混乱する。”

 

そして、クリシュナは以下のような禅問答のような答えをアルジュナ

に与える:

“He, who experiences the action-less in action and action in the 

action-less, is the wisest among men; he has attached himself

 to divinity; he has concluded all actions that need to be done. “

訳)行動の中に、アクションレス(アクションの無い)を体験したもの、

アクションレスでありながら、行動することを体験したものは、

最も智慧者だ。 

彼は、自らを神性に結びつけ、すべての行動は必要だからなされたという

結論に達している。

 

ますます、混乱してくる。 アクションの中のアクションレスとは何か? 

アクションレスの行動とはどういう行動なのか?

クリシュナが それに関して説明している、次の言葉を探ってみたい。

“He, whose actions are devoid of the pulls of desire and whose

 bondage to action is eliminated by his embracing the Indweller, 

is called a Panditha(scholar)by the wise.

He does his action, unattached to its results; he is ever contented 

and does not seek anything at all. “ (4-16~)

訳)欲望に引っ張られて 行動を起こすことなく、心の主(あるじ)を

常に意識して、行動に束縛されることを避ける人は、

パンディット(神の学者)と賢人から呼ばれる。

その人は行動しても、結果に執着しない。常に、心は満たされているから、

他に何かを探そうという気持ちはない。

 

 ここまで読むと、’アクションレス’という言葉の意味が少し見えてくる。

それは、結局、五感感覚が促(うなが)す欲望、身体的心地よさや満足感、

小自我(エゴ)を膨らますための、見栄や欲望(パワー)を満足させる

動機のために行動をとらないということらしい。 

行動、体は動いていても、結果を求めるために行動していないのは、

すでに、心の中で満たされた境地に達しているからだという。

そして、行動することは Indweller つまり、内在する神が

なしていることだから、力まず、無理せず、自然と行為を行う。

そういう人が’アクションレス’のように、’行為している’というわけで、

そういう人達を、パンディットという称号で尊敬を得るに値する人だと、

クリシュナは分別している。

以下はクリシュナがパンディットの定義の一つとして、語る言葉だ。

 

“He realize that both fulfillment and non-fulfillment are the same.

 He is not bound by action even though he may be doing it. 

His action is done without attachment to the action or its results. 

Focusing on attaining freedom from the birth-death cycle, 

he mentally embraces the Indweller. His action is done as selfless 

sacrifice and simply dissolves in itself. (4-16 to 4-23) 

 

訳) 彼は 充足した状態でも、そうでない状態の中でも、大した差は

ないと認識している。

自らのアクション そうした外部の状況に縛られるということは無い。 

その行動は 執着からなされたものでもなく、結果を求めるために

なされたものでもないからだ。

死と生のサイクル(須田注;輪廻転生のこと)から自由になること、

そこだけに焦点を当てて、自分の心に内在する神を抱き続けて行動して

いるからだ。

彼は自我意識を犠牲に捧げ、行動を起こすことで、内在する神に

溶け込むのだ。”

 

ここに、犠牲的(sacrifice)という言葉が新たに登場する。

犠牲という言葉は、個人的には、一種の悲壮感が少々だがついて

回る気がする。

犠牲によって、何かは、あるいは、誰かはその恩恵を受けるだろうが、

犠牲をささげた側は ”何か”を失うという前提があるからだろう。

犠牲ではなく、自主的に自分の喜びのために、自分の資質の一部

を誰かに、何かに喜んで捧げるというのなら、それは、犠牲とは

言わないような気がする。

 

 クリシュナは”犠牲”をどのように定義しているのだろう?

The action of sacrifice is Brahman.

What is sacrificed is Brahman, Brahman is the sacrificial-fire. 

Offering made into this fire are Brahman. 

He who attunes to the oneness of action and Brahman,

 attains Brahman Itself”

(4-24)

  訳) 犠牲的行動はブラハマン(神)そのものだ。 

その時 犠牲としてささげられた物もブラハマン(神)である。 

ブラハマンは犠牲祭で使われる火でもある。

その火に投げ込まれ捧げられるものも ブラハマンだ。 

行動とブラハマンとが一つであると自らを律して知る人、

その人こそ、ブラハマン神そのものだ。“

 

犠牲を捧げる人、捧げられる対象物、どちらも、神なのである。

クリシュナの、この言葉はある聖者が語った言葉を思い出させる。

それは、ガンジス川で早朝、昇る陽を崇めるため、川に入って身を清め、

川の水を両手で救い、太陽にかざし、川に戻し、花を捧げ、祈りを

口ずさむ人たちを 目の前にしての、聖者の次の言葉だった。

“あの川の水は、神の恵み、花も神の恵み、彼らは、神にそれらを

捧げているつもりだが、与えられたものを返している行為にしか過ぎない。 

が、彼らの神に対する、厳粛な愛に満ちた心だけは、

神は受け取ることができる。

それこそが、彼らの中に普段は眠っている、神聖な神意識、ブラハマン

意識、あるいは、アートマ意識だからだ。神と彼らはその点で繋がれ、

一体である。


それを知ることこそ、この修行(朝の早朝沐浴)の大きな目的なのだ。”と。

日没, 風景, アッサム, インド, 自然

 

犠牲を与える側、受け取る側、その犠牲となる対象、犠牲を捧げようと

する心、すべて、結局はブラハマン、神そのものの現れであると 

クリシュナは教えている。


そこには 個(こ)の意識 はない。 

すべての要素~人、犠牲にするもの、捧げられる対象、その時に使う道具

などは 結局、あらゆるところに存在するという普遍の神の心の中に

渾然一体となっているのだ。


それを知れば、犠牲的行動に伴うときの、”自我意識”がないから、

犠牲にともなう悲壮感もない。

無我の境地で愛をもって相手に奉仕すること、それが、犠牲的行動、

つまり、クリシュナの意味する”sacrifice"を意識したアクションということ

なのだろう。 

 

ところで、犠牲祭で使われる火、火は、儀式において重要であると同時に、

無用な資質を焼き払うということで、浄化の意味を持つ。


日本の仏教にもこの影響が見られる。 護摩業(ごまぎょう)だ。

不浄を清めるために薪を組んで古いお札などを燃やし、その煙にあたること

で身心の不浄を清めるという仏事である。

 

最後に、この章でクリシュナのいう、このヨガ(表記タイトル)の言葉に

Jnanaという言葉について。 これは、真理に直結する叡智を意味する。

クリシュナは、この叡智を その浄化の火に喩えて 次のように 

アルジュナに聞く;

In this world there is nothing that purifies thought, 

word and deed the same way as the Fire of Wisdom, is there?”

訳 この世で、想念 言葉 行い を清めるために 智慧の火以外のものが

あると思うかね?“

 

叡智 の火、つまり、ジャナーナを取得することで 思い・言葉・行動を

清めることが可能なのだ。

その智慧は何を指しているかといえば、

行動する際、執着の無い行動、犠牲的行動、ブラハマンと犠牲、

捧げる方も捧げられる物も すべて 普遍に満ちている、ブラフマン

の現れである~と知ることだろう。


’私が’、’私のために’、という時に使う’私’、言い換えれば、エゴ意識も 

’神と私’という感じ方、つまり、自分と神は対極にあり、別の存在である

という二元意識すらもそこにはない。


冒頭にクリシュナが述べた、結果を求めない という意味もつながる。

無私で行う行為はそれ自体のプロセスが尊い。

こういう結果を持とうという目的をもって行う(アクションする)ことは、

すでに、その時点で、欲と自我 が入り込んでくるからである。

 

それを知ることが、ここでいう、Wisdom(智慧)、つまり、

サンスクリット語で、云うところの ”ジャナーナ”なのだろう。

 

こうして、ギータ4章で、クリシュナは、“Jnana智慧、Karma 行動

Sanyasa 犠牲に基づく ヨガYogaha(神と一体になるということ)

が 如何なるものかを アルジュナに説いたことになる。

 

 

 

 

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再度 ギータの解釈とヨガ

2017年07月30日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

神話のしめす意味   2017・7.30

***************************************

Murudeshwar, アラビア海, カルナタカ州, Gopuram

 

Bhagavad Gita (バカヴァッド ギータ)に関して シリーズ的に

まとまったものをご紹介したいと試みてきたが、みな中途半端で終わって

しまった。

それは、日常生活とかけ離れた異国の神話をお話することは、読者のニーズと

かみ合わないと解釈されているのではないかという一抹の懸念があったから

だろう。

が、一元論そのものを主体として、真理の生活の手引きとして、クリシュナが

アルジュナに戦場の戦車馬車(チャリオット)の馬上で、やさしく、かみ砕いて

教えるギータを、再び、違う角度からご紹介したいと今回は思った。


数日前にお話ししたように、究極の身心の癒し、それは、物質的なものの

影響で来るのではなく、形而上的、つまり、心の奥深いところからの’納得’

された真理によってもたらされると信じるからだ。 

それは、一元論的観方、すべては善であり、美であり、真理であるという

観方からしか生じえない。

 

ところで、皆様、神話というのは、本当にただの超古代のおとぎ話程度の

お話にすぎないのだろうか?

次の著名な人達の言葉をどう受け取ったらよいのだろう?

たとえばアーノルド・J・トインビー博士。 博士は、西欧中心の歴史観

でなく、イスラム、仏教、それに特殊な存在としての日本にも着目した

20世紀最大の歴史家の一人といわれる。

各文明国の発展を描いた『歴史の研究』(原著1934-1961年)は最も

しられている本であるが、トインビー博士は日本の伊勢神宮に訪れたときに 

しるした言葉が残っている。

それは、

「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」

「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」

(情報源:人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 

P-250~)

 

トインビー博士は、その国の神話を子供たちが12~13歳(小学校義務教育)で

学ばなかった国は例外なく滅んでいくという言葉も残している。 


神話の中に、深淵なる智慧やその国の民の歴史が込められていることで、

自国への愛国心を持ち、誇りとともに、他国への理解を生む下地が造られる

からだ。


自国の神話をその民から切り離すことで、自虐的価値観の素地をつくり、

他国の文化への必要以上の憧憬を起こさせ、自国文化の価値観への

不認識などが生じさせることができる。


結局、何世代か経つうちに、その国の精神的力や、アイデンティティー

意識は、失われていく。 

実際、敗戦後の日本では、日本人の個性と長所を徹底的に研究した、

アメリカの調査機関によって日本弱体化をはかるために、あるプログラム

を適用した。 


それが、WGIP(War Guilt Information Program)と呼ばれるプログラムで、

民主化の名目のもとに、日本人に神話を忘れさせ、神道の大和心、天なる道

という古来の精神文化に無関心にさせ、精神的中枢神経を抜かれる集団と

化すべき、GHQの長期戦略が、占領時代に開始されていたという事実は、

多くの、諸賢の警告の中に知るところである。

 

占領下の日本弱体化のためのプログラムが、長期的計画で(100年)仕掛けら

れたと聞いたが、現在にいたるまで、じわじわとまだ、その影響を及ぼして

いるのかもしれない。


嫁ぎ先の祖母は 賀川豊彦師に師事し、キリスト教を学んだ。

その折、師自ら、”古くから残されている書を大切に、もっと、読むべきである”

と語ったと聞いたことがある。


それは何か? 

祖母は、古事記やホツマツタエという、日本古来の書を指すのだと直観した

という。

 

神話は、その国の民の精神的遺産である。

日本には古事記、そして、現代の宗教本庁では正式に認められて

いないが、それよりさらに古い文献とされるホツマツタエ(秀真伝え)

が残されている。 


同様、インドには多くのまだ神話が残されていて、これから再度ご紹介する、


バカヴァッド ギータ は、単なる神話を超えて、現代のインド人の

あらゆる階層に受け入れられ、幼いころから教科書で教えられ、

道徳的・精神的よりどころとして、インド人の精神力の源になっている

きわめて古い歴史をもつ、‘聖なる書’と解されよう。

 

バカヴァッド ギータはシンプルに ギータとも呼ばれる。

ギータに展開されるクリシュナとアルジュナの会話の中から、

今回のシリーズはヨガに関するものを種類別にしてご紹介したい。


ヨガ とは、神と一体になることを意味するが、その方法は

さまざまである。

一般に、体操のように様々な体のポーズをとり、呼吸を支配しながら行う

ヨガはハタヨガであるが、他に献身を通して、智慧を獲得すること、

あるいは行動を通じてなど、それぞれにヨガの名前は異なる。


Saankha  Yogaha, Karma Yogaha, Jaana Sanyasa Yogaha, など、

順を追って、少しでも多くのヨガが示す、神と一体になるための方法を 

クリシュナの言葉を借りて、お伝えできればと願う。


ここでいう神とは、ヒンズー教や特定宗教の神ではない。

クリシュナのいうところの、誰の心の中にも存在する ’Indwelling Entity',

つまり、”内在する普遍の資質”、別名アートマ のことである。


誰もが、アートマを心に持っているのに、ほとんどの人達は自覚していない。

ヨガとは、その資質を思い出すことこそ、神との一体化の意味であると同時に

生活に即した方法で可能なことであるという。


アートマに心をむけたとき、健康も、自然と、発現するから面白い。

私自身の体験と、アートマセラピーの体験者の結果から、少なくとも、
それは、証明されている。


 

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