自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

心の仕訳~アハンカーラ(エゴ)

2013年10月28日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

誰でもかかえる矛盾した弱さ  平成25年10月28日

***********************************                     

ある人が聖者に尋ねます。

“わたし達は感覚器官のおかげで見たり聞いたり話したり

しています。

死人にもそれらの器官が具わっているのにどうして、見たり

聞いたり話したりできないのですか?“

すると、聖人は答えます。

“それは感覚器官を活気づける力がそこにないからです。”

 

身体は懐中電灯のようだといいます。

目は電球で、理性はスイッチ、電池は私たちの血液のように

エネルギーを運ぶもの。

しかし、血球があっても、それに生命がなければ、

感覚器官は動くことができないし、

身体の分解を繋ぎとめる こともできないでしょう

すると さらに、この人は質問をしました。

 

“そうです!大生命こそ、神です。

しかし、私たちはこの世界を実質が幻影であるにも

かかわらず、実在するかのように、知覚して、多くの

物質を享受して、執着しています。


それらは迷妄であると聖者たちは説きますが、

どのようにしてその迷妄を知り、断ち切ることが

できるでしょうか?“


すると、聖者は

“現象世界が’実在か 非実在’か、という問題は

世間に任せておくがよい。

まずあなた自身が実在か非実在か実相か非実相

かどうか それを探りなさい。“

と答えました。


つまり、他者や現象世界を知る前に ”自分を知ること”

そして、そのために、必要なのは、自分自身の本性が

何か知ること、そう聖者は 答えました。 

そのうえで、自分自身を変えること、が次の目標、になる

わけです。

 

それがなかなか、できないのは、私たちの心の弱さであり、

どうして、”そうなるの?”が今日のテーマです。

 

私たちの心は弱い道具であるという言い方を

サンスクリット語では カラナ・アバータヴァム”言います。

そのサンプルケースを聖者は次のようにあげます・・・。

 

デリー郊外の村に富んだ農夫が住んでいました。

村長として村人を指導していました。


ある日、この村長と小作農の村人の牛たちが草原で

草を食べていました。すると、この牛たちの間で

喧嘩が始まり、一頭が死んでしまいます。

れは 村長の牛でした。


小作農は驚き、その事実を村長に 慌てて、報告に

行きました。

そして、慌てていたあまり、言葉の主語と目的語を

取り違えてしまったのです。

“たいへんです、村長。あなたの雄牛と私の雄牛が喧嘩して、

あなたの牛が私の牛を殺しました。  

                     

すると、富んだ村長は、冷静に この知らせを受け止め

次のように言いました:

“知能のある人間同志が殺し合う世の中、

自分の雄牛が あなたの雄牛を殺したのは不思議ではない。

すべての動物は 知性を持っていないのだから

何かの事故だと考えて欲しい“


その間、この農夫は自分の言い間違いに気がついて

再び、慌てて 言い直しました。


“村長、申し訳ないです。私は 言い間違えました。

実は、あなたの雄牛を殺したのは 私の雄牛でした。“

 

(これを聞いて、冷静だった、村長がどのような

反応をしたが想像できるでしょうか?)


村長はそれを聞いているうちに形相が変わり

怒りで我を忘れました。

彼は それまでと打って変った、強い調子で 農夫を

責めたて、その上に多額の弁償金まで要求したのでした。

 

この話が カラナ・アパータヴァム(弱い心のからくり

の 一例です。

村長の弱い心は 私たち誰にでも潜んでいます。


その弱さが、

自分の感情を、状況によって一転させ、主張がひっくり返り

首尾一貫しないという結果をつくるのです。


この心の弱いからくりを最大限に保守するために

私たちの心には  ブッディ が与えられています

 

ブッディは、”内部の声” ともいわれ、啓示を与えてくれる

心に備わった”智慧の声”でもあります。


良心 とも言い換えられるでしょう。心の仕訳をして

みたいと思います。

心(こころ) と私たちは何気なく 使っている言葉ですが、

何層にも分かれています。

 

ブッディ と区別するために、感情に揺れる心マナス 

サンスクリット語でいいます。

 

マナスの波動より ブッディ は 精妙な波動を

持っています。

だから、人は本音と建て前を使い分け社会生活

送れるのです。

感情をおもむろに出さず、ブッディ(知恵・理性)で

抑えることを知っています。

  

知性=ブッディ より、精妙な心の層は、ブッディ

覆い隠します。

その心の層は、私たちの 小我エゴ意識、アハムカーラ

です。

とても精妙な波動ですから、良心をも覆い尽くすことが

できます

 いつのまにか、エゴ意識は、私たちの あらゆる行為や

想念に滲透します

それが、”私”、”私の” という意識の正体でもあります。

 

アートマ という私たちの実相や大生命力を なかなか、

認識して、悟ることができないのは、この 小我意識

つまり、アハンカーラ が私たちの心を覆っているから

言われます。

 

アートマに もっとも近いアハムカーラの波動は精妙です                      

次に、心の中のブッディを分解してみましょう。

ブッディ は、鳥 に喩えられます。

ブッディ~智慧 を上手に使うと 自分の本体=アートマ 

を知り、そこへ飛翔することができます。


心を、高次元に、飛翔させてくれるから、 鳥 に

喩えられています。

その 智慧のトリのにあたるものが、信仰と信念

右翼にあたるものが、想念と言葉と行為の調和と統一

左翼にあたるものが、自分の言葉を行動に移し、その行動を

ありのままに、言葉で言い表す能力です。

 

胴体は 真理を支える原理を理解する心、具体的にいえば、

”我は神なり” という真理を体験させるための 智慧 

となります。

 

この智慧は、現象界の知恵とは大いに異なり、世間的な

才能や知性、賢さとは全く次元を異にするものとして

位置づけられます。

そして、 は、両翼のバランスを取るための

心と感覚の統御役をします。

 

信仰と信念というのは 頭に喩えられています。

信念がなければ意思が生まれないから 頭に位置して

全体をコントロールしているわけです。

英語の、Spirit は 精神ですが 

R を L に変えて、Split と綴ると、 裂く と

言う意味に変化します。

同様に、この鳥の頭、 信念と信仰 を維持すると

高い統一された、精神 になり、

それを 裂こうとすると 精神の分裂 になります。

精神の分裂は、物質文明によってもたらされる

唯物的考え方に発展していきます

 

頭に象徴される信仰・信念が、大切な理由は、意思が

堅固になって不動心になり、不動心で飛翔していけば、

鳥の身体に象徴されるそれぞれの智慧の徳をもってして、

アートマ(生命の実相、真の我)へと 心(人生)全体を 

向かわせ、昇華させてくれるからです。

 

 意識, コスモス, 神様, 宇宙, 現実, 仮想現実, 精神的です, 夢, 精神

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サーマヴェーダと波動

2013年03月27日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

インド古典音楽の直観直覚  平成25年3月27日

******************************

 

Saraswati sits on the bank of a river,
 holds a book and beads, and plays music 
on Veena,

 

直観・直覚 とは何か?

それは 心が 無心になったとき、その静けさの中に 自然に顕れる

魂の声だ。


人の心は、マナス といわれる、情感に揺れ動く心の性質のために、

動揺することが多い。

動揺は、ある意味、この直観の経路への妨害波動になる。

心は、さまざまな波動を通す、一種の精妙な生体のラジオ装置にも 

似ている。

電波の周波数があったものをキャッチするように、心も、

その時の想念の波動によって、受け取る質が違うということになる。

 

 

私たちは、日常生活の中で、波となって、押し寄せる、想念波動

への意識は コントロールしやすい。

一方、異次元の想念波動や、宇宙規模の想念波動に対して、

あまり、意識も薄く 無防備になりがち かもしれない。

しかし、インドの聖者が言うように、宇宙にはあらゆる想念が 

時間と空間を越えて振動しているのだ。

生きている人のみならず、死んだ人の想念も 空間の中に、

行きかっていることは、飯田教授の体験(ブログ:H.25/3月13~20日参照)

容易に伺える。


そうした種々様々な波動の中に、神とつながる波動も 

実在している。

否、真理の波動のみが 実際は実存しているのだが、

空間と時間の中で屈折して、そうした雑念と渾然一体に

なってしまっているのかもしれない。

 

ヨギたちは、テレビが発明される以前から、

直観に従い、心を澄ませることにより、他者の考えや状況を瞬時に

自分の心に映し出してきた。

その直観・直覚こそ、神につながる 波動の道への切符だからこそ、

その研ぎ澄まされた能力を、ヨガ の修行で身につけていった。

 

 

自分は 15年間のインド生活で、古典音楽を通して、こうした、

神と直観的に結ばれる 波動 に ひきつけられてきた。

インド古典音楽は、ヴェーダの時代に残された、

サーマヴェーダの世界最古といわれる、音楽理論が 基盤にある。

 

サラスワティ女神は、智慧の女神であり、ヴィ―ナの奏者。

この女神は、日本に伝わり、後世、弁天様となり、琵琶を手にもつ、

仏教の女神となった。

クリシュナ神は フルートを片手に持ち、その音色で、マーヤー

幻想の世界)に溺れる人たちの心を救い出そうとした。

 

シヴァ神は、リズムを生み出し、そのリズムは宇宙のダンスとして、

創造の前の破壊、古いものへの打開という役目を果たして

いるという。

こうした、インドの神話から、わかるように、神々と音楽とは、

重要な関連をもっている。

ヴェーダの音楽理論は、その、神々の音楽に、人間の五感と能力が

少しでも近づくことができるように、外枠を 整える 役目を

果たした。

 

少し、専門的になるが、そのヴェーダにはすでに、下記の決まりごと

が記されている。

インド古典音楽は6つの基本的な旋律のグループ(ラーガ)について。

それぞれ、四季に合わせて、さらに、演奏される時間帯も 細かく、

決められている。

ラーガの基本的な旋律は、100以上の旋律に分かれている。

その分け方は、宇宙の太陽と月が大気に及ぼす影響、大自然の

季節の波動、に合わせての 決められている。

 

大学院の パフォーマンス(試験)でも、その試験の時間帯に

合わせて ラーガは 慎重に 選ばなければならなかった。

時として、試験の予定が伸びたとき、用意していた時間帯の

ラーガが、その時間帯と合わないこともある。

そのため、それに合ったラーガの、選択肢がなければ、

それだけでも大きな 減点となった。

 

インド古典音楽では、西洋音階の ドレミソラシド 

の7音以外に、それぞれの音階の間に微妙な 半音より

小さい音が いくつか存在する。

それを シュルティ と呼び、これは、1オクターブに 

22個 存在した。

ラーガによって 微妙にシュルティを引き出すことができる

演奏家が、達人とされた。

 

リズムも重要な要素だ。

シヴァ神の 生み出す そのリズムは、16拍子、10拍子、

12拍子など、多々存在した。

自分は 数種類のリズムしか、演奏ができない、

新参者だったが、 理論上では120種類の ターラといわれる、

拍子の取り方があるといわれる。

  

サーマヴェーダ の聖典には、インド音楽が、もともと、神に

ささげる 音楽から出発したことが明記されている。

現代でも、古典音楽演奏家は、その音楽を 魂で弾く という

ことを、徹底して教わる。 

西洋のオーケストラ音楽とは対照的に、インド古典音楽は、

個人の音楽に終始する。

主観的であるからこそ、表現が豊かで 、自分自身が 

その音楽の粋(すい)に没頭してこそ、醍醐味が、聴衆に

伝わると、教えられた。 

テクニックも大切だが、まず、演奏する人が心から 直覚直観を

研ぎ澄ませ、自ら、その境地を楽しむことが必要だと、師から

何度か注意された。

筆者のグルのお父様 ヴィラヤット・カーン師は、演奏会で 

聴衆に向かって、こうおっしゃった。

“私の音楽は、皆様、眼をつぶってお聞きください。

魂で聞いてほしいからです。“

 

インド古典音楽の演奏に待ったなしだ。  

というのも、基本旋律以外には 楽譜は 存在しない。 

あえて言えば、ジャズのように、ほとんどが、即興だ。 

ラブ という静かなリズムのない 最初のパートは、そのラーガ

の真髄を、聞いている人たちに届ける。

ここでは全く、楽譜はない。

同じ奏者でも 全く同じには、二度と弾けないだろう。

アラブは、その ラーガのエッセンスを表現する。

最初のフレーズを聞いただけで、聴衆は、何のラーガか聞き分ける。

 

そこには、22個ある シュルティの微妙な使い方なども、

吟味されている。

アラブの次に、ガッツといわれる、旋律部分に移行し、テンポと

リズムが加わる。

ここで初めて、タブラ(インドの太鼓)奏者が登場する。

さまざまな、即興曲がここで披露される。

勿論、タブラの拍子と、合体して、隙間が無いくらいに、見事

に重なると、ますます、その演奏の魅力が増して、聴衆は

ひきつけられていく。

 

最後に ジャラ という 特殊な装飾的なひき方に変わって、

クライマックスを迎え 曲の終了となる。

(以上、シタールリサイタルの場合)

直観の音選びとテンポの連続が、インド古典音楽の 絶妙な

面白さかもしれない。

波動の選び方、テンポの創り方、すべて、主観的な美的感覚は

奏者にゆだねられる。

 

このような インド古典音楽波動に 文字通り、毎日 浸り

ながら15年のインド生活を送った。

そして、神への波動 という言葉は、抽象論で観念的ではない

ことを、インド古典音楽を通じて、体感したような気がしている。                 


Murti of Saraswati for puja in Kolkata
Devanagariसरस्वती
Sanskrit TransliterationSaraswatī
AffiliationDevi (Tridevi)
AbodeBrahmapura
MantraOm Aim Sarasvatyai Svāhā
ConsortBrahma
Mountswan, Hansa Bird, and often peacock

以上表はWikipediaより

 

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バカバッド・ギータ;神人:

2013年03月26日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

物質主義と精神科学の距離 平成25年3月26日

***************************

物質科学は 精神科学の後を追っているという説がある。

たとえば、インドヒマラヤの聖者たちは 通常ヨギと呼ばれて

いるが、彼らの弟子たちの前で行う、奇跡の数々は、ある意味、

現代の物理学を飛び越えてしまっている。


1934年 11月26日 ローマのローヤル大学で実証されたこと

があった。(以下)

“神経心理学の教授 G・カリガリス博士が、被実験者の身体

のある部分を抑圧すると、彼は向こう側の人々の詳細な描写

を行った。

博士はまた、教授たちに、被実験者の皮膚の、ある範囲に

刺激を与えると、普通では見えないものでも、超感覚的に

知覚する能力が生じると発表した。“


次のお話は、ヨガナンダ師が著書で、体験エピソードの一つ

として物語っている(以下)。

 プラバナンダ というスワミ(僧侶の意味)は 二つの体を

持っていたという。

ヨガナンダ師が、そのスワミの家に訪れた時の出来事だ。

家から少し離れた、ガンジス川で 沐浴していたある男の元に 

同スワミ(ヨガナンダ師が会う)が 近づいて来て、こう

誘った。

”ヨガナンダが来るので、良ければ家にこないか”と。 

その男と、ヨガナンダ師の父上とは知人同士であったので

その誘いを快く受けた。

沐浴をやめて、男が声をかけてきた、そのスワミと一緒に、

スワミ宅を目指して歩き始めると、スワミは途中から足を

速めて、こう言って立ち去った。

“今 ちょっと用をたしてから、帰宅します。

あなたを家で待っているようにします“ 

 

30分後、その男は一人で 歩いて、スワミの家に着いた。

すでに到着していたヨガナンダ師が、その男を迎えた。 

そして、スワミからその男がヨガナンダ師に会いに、来る

ことを聞いていたのでその男の名前を言い当て、男を家

に向かい入れた。

すると、男は、どうして、自分のことを知っているのか? 

と ヨガナンダ師に怪訝に思って、尋ねた。

’私は、今、そこで、スワミと会って 途中まで一緒にきた

のに・・・私が来ることをどうして、君は知っていたのかね?”


そこで、ヨガナンダ師は 答えた。

”私はすでに、一時間も前から スワミと談笑してますから。

あなたのことも窺いました” と。

男は それを聞いて、困惑した。 

一時間前から、スワミは在宅して、ヨガナンダ師を接待
していた?

’そんなはずはない。
30分前、スワミは確かに、ガンジス川で沐浴をしていた自分と
会って、家に来ないかと誘ってくれたのだ・・
あれは幻想だったのか?’

現象世界の時間でいえば、ヨガナンダ師が スワミと 自宅で、

すでに会っている間に、確かに、スワミは、男に家に来るよう

誘いをかけたのだ。

そのことを 当惑している男から聞いて、ヨガナンダ師も 

畏怖感をもって、あらためてスワミの霊的な力を知った。


そこで、ヨガナンダ師は、スワミに 実情を聞いた。

スワミは こう話した。

 “これしきの事に、何をそんなに驚いているのです。

真のヨギは、現象界の万物が、霊的には一つに結ばれている

ことを体得しています。 

私は、遠いカルカッタに居る弟子たちとも、即座に会って、

話ができます。

そして、彼らも同様に、どんな物質的障害でも、自由に

超越することができるのです


どうしたら そのような 時間や物質に煩わされない 

ヨギの力を持つことができるのか? 

それはここでは 深くは 触れていないが、

古典書で聖典でもある、”バカバッド・ギータ” の中に、

自我を超越した 神人になることについてのヒントが

述べられている。

 

1・真理を 会得せる者は、見るも、聞くも、触れるも、

嗅ぐも、歩くも、眠るも、呼吸するも、“自分自身では

何事もなさず”と感じている。


彼は、語るも、手放すも、受け入れるも、眼を開くも、

閉じるも、己自身とは別なる “感覚” が、その対象に

対して働くにすぎぬことを知る( 5章 8~9節)


2.万物に、等しく内在する神を見るものは、まことの

自己を自我意識によって、けがすことなく、至高者への

道をたどる。(13章29節)


3・我は 本来不生不滅にして、万物の主なるも、おのが

幻術を用いて現象界に化身する。(4章6節) 


4・三つの属性(グナ)より、有る 我 が、幻術を

つきやぶることは難しい。 


されど、まことのわれに頼るものはこれを克服する 

(7章14節)


++++++++++++++

説明補足)

3 にある、我(が)は、自己の本質 と置き換えられる。


4 にある、我(が)は、3のそれ と異なり、現象界に

顕れている"我" をさす。

つまり、実存を物質化するための3つの事象(昨日のブログ参照)

として存在する”我”(が)のこと。


それは、創造・維持。破壊の現象は時間と空間の中で行われ、

時間と空間の規則に、縛られない”我”(3の’我’=自己の本質)

になるために、その”我”(4の’我’)を “克服” しなければ

ならない。


ヒマラヤのヨギたちは、このような、現象では考えられない

事象をおこして、その克服したことを弟子たちに時として

知らしめる。

 

1 の ’自分自身は何もなさず’ という意識は、小さな

自我 で何かをなしているのではなく,大きな自我(本質)

が 何事も(自分の身体を使って)なしているのだという 

自覚による。


 3 の、その大きな自我こそ、内在する、神 でもある。


 4 の 不生不滅 は、般若心経の言葉通りである。 

実存する真の自己は、生まれたり死んだりすることなく、

 3つのグナ(タマス・サットヴァ・ラジャス)を駆使して、

現象界に物質化した形をとる(化身する)


これらのギータの中に書かれている、真言が、物理的事象

を越えた奇跡を起こす人の資質の条件でもあるのだろう。

だが、奇跡そのものには あまり意味はない。


奇跡を越えて、いかに、自分の中の真なる自我を探し

求め一体化するか ということこそ、本来の目的で

あるからだ。

 
引用箇所:”あるヨギの自叙伝” 

パラマハンサ ヨガナンダ著

 

 

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ヴェーダ:護符の意味

2013年03月25日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

創造・維持・破壊           平成25年 3月25日

*******************************************

護符(お守りの札)と波動について、ヴェーダの中に触れている部分。

その前に ヨガナンダ師のエピソードをお話しします。

師の幼少の名前は、ムクンダ。

母親は、信仰深く、困っている人が家の前に 物乞いに

来ると、必ず何かを持たせて帰らせたといいます。

その母親が遺言を書いて、’ある、聖者から預かった’という

護符~お守り札 について、述べている部分です。

 

その護符を渡される前、聖者が ヨガナンダ師の母親に、

会いに来て こう伝えます。

”あなたには、有る種の護符を保管してもらうことになります。

私は、私のいう事が真実であることを証明するために、

その護符を今日お渡ししないで、明日、あなたが瞑想している

時に、それをあなたの手の中に物質化してあげましょう。

貴方は死ぬとき、それを長男のアナンタに渡して、一年間

彼に保管してもらい、次男に手渡すよう言いつけなさい。

ムクンダ(将来のヨガナンダ師)は、偉い師たちが、その

護符の意味を教えられ、理解するようになるでしょう。 

その護符は、彼があらゆる、

用意ができたとき、わたさなければなりません。

護符は、数年間彼の手元に在って、その目的を果たすと消えて

しまいます。

どんな場所に隠しておいても、それは元あったところに戻って

しまいます。”

 

そして、母親が亡くなると、その護符は長男のアナンダが管理し、

それから 一年後、ようやく、ムクンダの手に渡りました。

兄は、こう言いながら、その護符を渡すのです。 

”ムクンダ

私は今まで気が進まなかったのだが、実はお前に不思議な伝言

を伝えなければならない。 

この事をお前に言うと、お前の家出(ヒマラヤへ)しようとする気持ち

に油を注ぐことになりはしないかと恐れていたのだ。”

兄、アナンダが心配していたこと。

それは少年期のムクンダが、ヒマラヤにあこがれて、何度か

家でを試みていたようです。

その護符を与えるということは、そこに秘められている不思議な

話しを、ムクンダが知ることになり、さらに、ヨギ(聖なる修道者たち)

のいるヒマラヤへの郷愁を深めることになると、

兄は案じていたのでした。

 案の定、この護符を手渡されて、ヨガナンダは、様々な不思議な想いに

かられました。

 

ヨガナンダがこの護符を受け取ったとき

“私は強い光の炎に包まれた。

すると眠っていた様々な記憶が一時によみがえってきた。”

と著書に述懐しています。 

さらに、

”ごの護符が、後に、私の障害の申告な苦悩のさなかに

消えてなくなった。

そして、そのことが私と師の巡り合いの前触れになった”

と書いています。

 ”ともあれ、ヒマラヤへの脱出を阻止された少年は 毎日護符の

導くままに、遠い旅を続けることになったのである。” 

護符には 真言(マントラ)がサンスクリット語で掘り込まれていました。

創造、存続 破壊 という三つの事象は、ヴェーダ、

タイテリア・ウパニシャッド1~8)において、

実存するものの、顕現の在り方として、定義されています。

実存が物質として顕現したとき、はじめは創造として、 

それが存続している時期があって、破壊という一見 

それが亡くなる相が現れます。

そして、再び、新たに、創造という形で 生まれます。

私たちの一生を例にとっても、同様の事象が当てはまるわけです。

 

護符に刻まれている、サンスクリット語のマントラは正しく発音される

ことによって、波動として効力をもつからこそ、お守りの御札になるのです。

それは、真言の力が発現されるからです。

祝詞でも、お経でも、言葉そのものが、波動をだし、物事の創造に関与して

います。

それが、創造、維持、破壊の どれかの事象を動かすだけの力を持つとき、

真言の役目をはたすとみなされるのです。

私たちが日ごろ、日常生活で口にしている言葉も例外ではないでしょう。

良い言葉を話す、

確信をもって話す、

言葉と行為と心を一致させる

真実の波動をだす

などは、こうした、言葉の波動の並々ならない力を物語っているのだと思います。

護符が現れたり、消えたりするのは、それが波動で成り立っているからという

ことになります。

物質化したり、幽玄化したりするというのが、実際、ヨガナンダ師の体験で

わかります。

 

私の父も、黄色い小さなサファイアの指輪を 右手にしていました。

本人はお守りとして 身に着けていました。

葬儀の前に、形見として 父の指から抜き取り、私はある、

ケースにしまっておきました。

ところが、その直後、その指輪は無くなっていました。

誰も見た人はいません。

母が持っていたのかと思っていたところ、母も 必死で

探しているようでした。

こうして、その指輪は 父の肉体が荼毘にふされた翌日から、

行方不明になりましたが、もしかしたら、行くべきところに

帰ったのかもしれません。

 

参考文献

あるヨギの自叙伝 パラマハンサ ヨガナンダ著 森北出版 1994年

 

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ヴェーダの活力

2013年03月24日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

哲学と頭の体操 平成25年3月24日

*****************************

スリ・ユクテスワはヨガナンダ師の師匠にあたる。

哲学が実際の生活に生かされず、さびた勲章のように、

プライドとともに揺れ動く、無用の長物になっている人を

揶揄(やゆ)して 次のように述べる;

”こちこちの物知りには本のカビの匂いが染みついている”

さらに

”彼らは哲学を優雅な頭の体操だと思っている。

その口にする高尚な思想とは逆に、自分の行為は下劣で、

また、

きびしい内的修行には、何の経験も持っていない

 

この言葉を聞いて、耳が痛いかたはいないだろうか?

筆者がその筆頭かもしれない、

師の言う、内的修行 とは、自分の心の中に目を向けて

反省を重ねながら、自己の純粋化をはかることである。

行動と心と言葉の不一致を見るたびに、

今更ながら反省を促される毎日だ。

ヴェーダの聖典には、その心構えが さりげなく説かれている。

 

“聖典の言葉を たくさん覚えること と理解することとは、

 まったく別だ。

 聖典は、一句一句をじっくり味わってみにつけるならば、

 霊的悟りを得るための意欲を刺激するうえで、役立つが、

 単なる物知りになるための研究は、いくら積み重ねても

 生半可な知識と偽りの満足が得られるだけで、

 悟りを得るための役にはならない。“

古代インドでは、集中詰め込み授業や 知識の丸暗記といった、

現代的な授業形式とは ほど遠い授業が展開されていた。

それは、ダブル・バラヴという著名な教師の授業法を、

ユクテスワ師が見学してその印象を語っていることからわかる。

 

生徒たちを森の静かな場所に集めて座っていた。

 彼らの前には、聖典バカヴァッド・ギータが開かれていた。

 彼らは、約30分間、一つのページに じっと目を注いていた。

 それから、眼を閉じた。

 こうして、また、30分が過ぎた。

 すると、先生は短い注釈を施した。

 彼らは身動きせずに、また、一時間黙想した。

 そして、最後に先生が言った。

 ‘どうだ、この一節の意味がわかったか?’

 ‘はい、わかりました、先生’

  生徒のひとりが答えた。

 ‘いやいや十分にはわかっていない。

  これらの言葉の中には、何世紀にもわたって、インドをたえず、

  若返らせてきた、霊的活力が秘められている。

  それを探しなさい‘ 

 沈黙のうちに、また、一時間が過ぎた。

 ダブル・バラヴは生徒たちを開放させると、

 スリ・ユクテスワに向かって尋ねた。

 ‘師よ、あなたは、バカヴァッド・ギータをご存じですか?’

 ‘いいえ、まだ、ほんとうには、・・・目と心では何度も

  読んだことがありますが’ と ユクテスワが答えた。

 ‘この問いに対して、私は十人十色の答えを聞きました。’

 偉大な賢者は、スリ・ユクテスワを祝福しながら、こう答えて

 ほほえんだ。“


 

実際、スリ・ユクテスワ師 も これと、同様の教え方をしたと 

ヨガナンダ師は 著書の中で、回想している。

“一つの真理に対する確信が、単に、頭脳だけでなく、

 自分の全存在の中で滲透したとき、はじめて、

 その真理は、自分のものになったといえる。“

というのが ユクテスワ師の信念だった。

それは、言い換えれば、百のヴェ―ダの句(フレーズ)

を覚えても、実際その人が 神よ と 心の内に、

語りかける気持ちが なければ、

そして、神こそ、自分の中にある、

実存の異名であることを体感しなければ

意味がないということでもある。

それはこの上もなく、単純な真理である。

それでいて、その単純さは、理知主義に偏った、

知識偏重の学者たちには、かけ離れたものだという。

彼ら学者たちが いくら聖典を学んでも エゴの上塗りをして、

尊大さを増すだけで、真の自己意識への到達から

離れるだけだとユクテスワは言うのだ。

 

こうした大師たちからみると、人の価値を判断するのに、

おおまかに、二種類にわけられるという。

それは、

神に無関心で、悟りに至る智慧に無欲かつ、高慢な人

と、

”神を求め、悟りの智慧に貪欲でかつ、謙虚な人

の 二種類だ。

どんなことに向かっても、どんな人に会っても、

落ち着きを失わない人こそ、

聖者の証だという、シンプルな言い回しがある。

 

それは、自分の本質を知っているから、腹も立たず、

相手の立場を理解して、

それなりの対処ができるからだ。

自分の心を治めることにも通じる。

怒らない人、それは、スリ・ユクテスワに対する、

ヨガナンダ師の観方でもある。

 

“わたしはときどき、先生がもし、その心を

 世俗的野心や栄誉に傾注されていたら、

 世界に名前を馳せる、武将にも、皇帝にも、

 容易になれたであろうとつくづく思う。

 しかし、先生は、人間の至高の目標を求めて、

 内なる怒りとが欲の牙城(がじょう)を

 粉砕する道を選ばれたのである“ 

 

と著書に記している。

続く・・・

 

参考文献 
あるヨギの自叙伝 パラマハンサ ヨガナンダ著 森北出版 1994年 

 

 

 

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