自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

問答に入る前に(2)バカヴァッド・ギータの占める精神的世界での大きさ

2016年06月11日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 ギータとヨガ、序章における祈りの言葉    2016/6/11

************************************

 

聖賢ヴャーサは ギータを“ヨガ・シャーストラ”、つまり、

ヨガの聖典と称している。 


日本でも昨今“ヨガ”教室は盛んだようだが、印度においての

ヨガの歴史はギータの時代に、さかのぼることが知られている。 

ギータの中でクリシュナがヨガの正方について語っていることは

有名だ。


“吸う息を吐く息に提供することで、ヨギはこれら二者を中和する。

こうして彼は、心臓からプラ‐ナを解放し、生命力を自己の支配下に置く

(ギータ4章29節)、さらに、


“至高の目標を置き、視線を内なる眉間の一点に集中し、

鼻孔と肺の内を流れるプラーナとアパ―ナの均衡した交互の流れを

制しすることによって外界の刺激を断ち、感覚と理知の

働きを制し、我欲と恐怖と怒りを追放させ、瞑想の達人は

こうして永遠の解脱を得るに至る”(同5章2728節)

 

この二つのクリシュナ神の言及からすでに、わかることは、

紀元前何千年も前から、インドにはヨギが存在し、永遠の解脱 

の意味を知り、その方法としてヨガ(解脱のための呼吸法に則った瞑想)

を行っていたことだ。


クリシュナ神は“生命力を人間は自らの支配下に置くことができる”

とギータで述べているのは意味深い。 


私たちは本質的に、その能力が具わっているということだ。 

生命力を支配下におくということは、肉体の法則を超越する

域に達し、若返りも、それ相応の年の取り方も、健康の保持も、

飴細工のように意識一つで、いかようにもできるということだろう。


生命力の存在すら、無意識に生きている私たちだが、その存在を

意識し、さらに、自由自在に操る~

それが本来のヨギ(その目的でいきる修行者)のゴールなのだ。


ギータでは、この二か所でしか、クリシュナ神はヨガについて

語っていないが、ヨガの王道はクリシュナ神の大いなる智慧を

以て後世インドの聖賢、ヨギ、聖者たちが実践する秘法として

残され伝えられていった。

あるヨギの自叙伝でヨガナンダ師もそう、語っている。

(“あるヨギの自叙伝”日本語版244頁)

 

ヨガが手段で“自己本質と神への合一”をゴールとするのなら、

ギータも同様に、手段であり、目的そのものであるとされる。


どういう意味かと言えば、ギータを書き留めた聖賢ヴャーサは

ヨガの聖典とギータを称したが、ほかにも“ブラハム・ヴィドゥヤ

BrahmaVidya)とも称している。


その意味はギータを読んで得た智慧の実践が、無償の愛の体得と

常住(常に変わらない)の存在に、触れえる体験を重ねることが

できるということだ。

 

さて、ギータは18章あり、ここで取り上げるのはその全部ではなく、

特に感銘深い章と節を選ばせていただいた。

第一章に入る前に序章からご紹介したい。


1:母なるバカヴァッド・ギータよ。

クリシュナ神自らアルジュナにお説きになった、古代聖賢ヴャーサ

によりマハバラータ(Mahabharatha)の中、18章に記された。


母よ、あなたの言葉は私の本質を呼び戻し、誕生来の罪を祓って

くださる。

此処に深い感謝をあなたに捧げ、瞑想してあなたに集中いたします。


2:ヴャーサに祈ります。

あなたは広大な心とその眼(まなこ)のような蓮の花びらを

お持ちだ。

マハバラータを燃油として智慧のランプに光をともされた。


3: クリシュナよ。あなた様について尋ね、あなた様への愛を常に

心に抱く者を引き寄せ満たしてくださる方。

牛の群れを手に持つ羊飼いの杖で統率し、ギータという万能薬を

与えてくださった方。


4:*ウパニシャッド(Upanishads)は乳牛たちで、そのミルクを

絞るのはクリシュナ。

(*注:ヴェーダ聖典の一つで、特に真理に言及している。

ギータはヴェーダの真髄が書かれていると言われる由縁はそこにある。) 

牛たちを守り幸せをあたえ、アルジュナは子牛。


クリシュナの与えるミルクは何処にもない花蜜水(ネクター)。 

真の智慧者は大いにいただき、堪能するが良い。


5:クリシュナに祈ります。 

ヴァスデヴァ(Vasdeva)の息子でカムサとチャヌラを滅ぼし、

デヴァキの喜び、偉大なる師であり、宇宙を守り導く方。


6:パンダヴァ兄弟たちは人生の河を渡る。

渡し船に乗って、その船頭はKesava(ケイシャヴァ)

(注:クリシュナ神のこと)。


其の河はビシマ(Bhishma)とドロウナ(Dhrona)のいる両岸

の間を流れる。

Gandhara王は青い花。

Satyaはサメ。 

Kripaは力強い河の流れ、

Jaythrathaは水、Karnaはそこの大きな波、Aswathama  と

Vikurnaは 恐ろしい獰猛な大魚、Dhuryodhana は河の

大きな渦を表す。


まことに、この闘いはこの河を渡るに似て、クリシュナに導かれ、

パンダヴァ兄弟は、渡り終えることに成功したのだ。

(注:下線傍線を引いた名前はギータに出てくる人物たちで、

それぞれの性格から、比喩的に説明されている。)


7: マハバラータを読むものに、カリユガ(注:ブログ61

に説明)に生きる人々の罪咎(つみとが)が取り除かれ、健康的で

幸福生活の秘訣が降り注がれる。


8;Madhava(クリシュナ神の別名)に頭(こうべ)を垂れ、

山々を超え、唖(おし)が話だし、足萎えが飛び跳ねることが

できるほど 素晴らしい、恩寵を乞い願う。


9:輝くばかりの本体(Self)に祈る;Brahma, Varuna, Indra, 

Rudra Maruthの神々たちが聖なる経を唱え礼拝する対象、

讃美歌を歌う者たちが、ヴェーダの聖なる句を輪唱しながら

称えるその対象、ヨギ達が深い瞑想の中に心の中で抱くその対象、

天使も悪魔も掴見えないその聖なる対象、私は、光そのもの、

輝けるその実相に祈りを捧げる。GV,1~11頁)

 

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アルジュナとクリシュナ神との真理問答の前に

2016年06月07日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

アルジュナの人柄の純粋さと闘いへの動揺と迷い 2016/6/07

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アルジュナが,鞭を片手に操る戦闘の馬車にクリシュナが乗り込んだ。

そこで,不安や迷いに揺れ動き質問するアルジュナは,クリシュナと

問答をする。 


それらの質問の意味や,クリシュナの答えの真意を理解するために、

アルジュナの人柄について触れてみたい。


アルジュナは 勇気ある負けを知らぬ兵士であると同時に、他者を

無意味に傷つけることを避け、目上の人たち、恩師たち、親族に

敬意を以て接していた。


クルックシェトラの戦場で いよいよ向こう側に並んだ敵軍を

目にする。

その時、彼の人生でこれまで深いかかわりあいを持つ尊敬すべき

人たちが,敵軍として佇んでいる姿が目に飛び込んだ。 

そして、困惑する。

闘うことは相手を負傷させ 時には死をもたらす覚悟を持つことだ。

武器を持つべきか、否か、大切にしてきた自分が属していた一族の

長老や友人たち、これまで愛情を以て接してきた,かけがえのない

人たちを殺めるのは,この上もない罪を背負うことになるのではないか?


ダルマ(dharma)の法を破るのではないのだろうか …

( 注:ダルマとは人間の生命、この世界、さらに宇宙全体を

司っている“実質的存在”をさし、時には“正義”という意味合いで

使われることもある)


もし、ダルマに反した行いをすれば、世の中を乱す原因にもなる。

社会に有害な行為をあえて自分はしようとしているのではないか?

彼は、それだけは、避けたかった。 

 

そうした行いであるのなら、闘いを放棄したほうがましだと

アルジュナの心は揺れた。

こうまでして、本来の彼や兄弟たちの取るべき領地を奪い返す

のなら、むしろ戦闘をやめて、その権利を放棄しても良いと

さえ考えた。


アルジュナは涙を落とした。 

純粋で子供のように穢れの無いその心は、ついに、クリシュナ(神)

に対して、’どのように考えたらよいのか?’

’そしてどう、行動するべきなのか?’~ と問う。

その心をクリシュナは理解し、受け止めた。


途方に暮れた子供が、母親に助けを求めてくれば、それに

応えない母親はいないだろう。

同様に、クリシュナ神もアルジュナの深い矛盾と悩む心に

答えを導き出していく。

それがこのギータが生まれた背景でもある。


アルジュナの質問に絞って答えているクリシュナ、その答えを

アルジュナの他に三人が聞いていた。 


一人は聖賢ヴャーサ(Vyasa)、この話を記録していった人だ。 

もう一人は、サンジェイ(sanjaya)という、ドリィダラシタラ

Dhridharashitra)王のもとで大臣を務めていた人。

三番目の証人は アルジュナの乗るチャリオット(馬車)に

同乗していたアンジャネイア(Anjaneya)。 


ギータの話は戦闘の話でもなく、兵としての心構えを教えられた

話でもない。 

アルジェナが抱えているこの葛藤こそ、私たちが日常生活の中で

揺れ動く感情の波と、同一であるということだ。


何をどうすべきなのか? 

正しい方法は何か? 

どう対処すべきか? 

家庭で、職場で、学校で、教育や道徳問題を含め、さまざまな

場所で起きえる問題。 


相手を傷つけないために、改善するために、人間関係に誤解を

生じさせないために、どのように心穏やかに、幸せに人生を、

送れるかという問題に 答えを提示する。


私たちの心の中にも クルックシェットラは存在している。 

葛藤の場、その原因は常に日々の生活に現れる。


力やパワー、権力や富が支配する世界で 人が抱く野望や野心を

どのようにコントロールし、それを社会のためにプラスになるよう

導き、周囲に平和をもたらすのか?

ということまでこのギータの中では回答される。

 

アルジュナという人物は比喩的に言うのなら、私たちの中にある

純粋な心を刺すのだろう。

クリシュナ神というのは、遠い所に存在していた異教の神ではなく、

私たちの最も深い心に住む、自分を声なき声で導く良心である

のだろう。 


敵対するカウラヴァ兄弟たちは6人の盗賊でもある。 

何を盗むのかといえば、私たちの心の平和、安寧を奪う象徴だろう。

その六人とは具体的に、欲望、怒り、迷い、プライド、強欲、

そして嫉妬の六つの私たちの心に潜む、敵だ。


結局クルックシェトラは、ギータに出てくる戦場でもあると同時に

私たちの日常の心の中の、闘いの場でもあるようだ。 

ここで自分しか知らない闘いを、自分の中にいる敵を相手にして、

毎日、闘っているのが人生の日常というものだろう。 


だからこそ、ギータの内容は時代を経てもなお、私たちの心を

打つのかもしれない。 

これは時代を場所を超えた“真の勇者”になるための読本だから。

 

 

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ギータとセラピー協会の接点序章

2016年06月02日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

バカヴァッド・ギータ~序章~  平成2861

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長いお話しになりそうだ。

自然治癒力の話はさらにギータを理解していただいてからになる

のだろうか?

とりあえず、お付き合いいただけたら幸甚です。

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 無料写真素材 に対する画像結果

神話はどこの国にもある。 

現代人は、御伽話し的な感覚で現実の生活とは離れた架空の世界の

伝承されたお話しとしてとらえる人たちがいる一方、実際、古代の昔

に起きたこととしてとらえる人もいる。

印度には、バカヴァッド・ギータと呼ばれる古典聖典がある。

 

実際そこに登場する人たち、場所は実在に存在した人たちである~と

考えられている。

どのくらい前のお話しかといえば、気の遠くなるような数字が

出てくる。

インドのスピリチュアルな世代区分として以下のような時代が

現在までに存在していると聖者は言う。


クリタユガ(Krita Yuga= 1,728,000

スレタユガ(Thretha Yuga= 1,296,000

ドワパラユガ(Dwapara Yuga= 864,000

カリユガ(Kali Yuga= 432,000

この4つのサイクル(ユガ)が交互に地球支配し、物質文明が

栄えたり、宗教的、精神的な暗黒時代が訪れたり、滅んだり

していると教える。

 

我々が生きている現代はカリユガの時代にあたり、精神的真理

が隠されてしまった時代だ。 


今日からのテーマである、バガヴァッド・ギータ(以下、

省略してギータと呼ぶ)はドワパラユガ期、およそ、5200年近く前

に書かれたという。


因みにカリユガのカリとはカーリー、つまり、黒く真理が隠されている

時代とされる。

実相の本質を忘れた精神的智慧の無智の時代である。


ギータは戦場が舞台だ。 

その戦場で戦うのが、カウラヴァ家(The Kauravas)とパンダヴァ家(ThePandavas)父親方の血を分けた兄弟たち。 


カウラヴァ家にドリタラシタラ(Dhritarashtra)という名の盲目の

王がいた。

彼の長男はドゥリョダーナ(Dhuryodhana)、弟にドゥサッサーナ

Dussasanaがいる。

一方、パンダヴァ家には若くした死んだ末息子のパンドゥ(Pandu)、

長男のユディシトラ(Yudhishtra)、ビーマ(Bhima)、アルジュナ

Arjyunaらがいた。


パンダヴァ家とカウラヴァ家が争う前、彼らの幼い時は一緒に育ち、

暮らしたのだが、兄弟たちが成長するにつれ、パンダヴァ兄弟は

何事にもカウラヴァ兄弟より長けていることで、カウラヴァ兄弟

たちはおもしろくなかった。


パンダヴァ兄弟たちの愛と懐の深さ、強さ、他者からの人気度の 

どれをとっても、カウラヴァ兄弟たちが、彼らにかなわないこと

を知るにつれ、嫉妬は憤怒へと変わり、その憤怒で現世的欲望

が助長するという悪循環だった。


そこで、ドゥリョダーナはパンダヴァ兄弟たちの土地を取り上げ

13年間彼らを放逐した。

13年後、戻ってきたパンダヴァ兄弟たちに言う;

“元に戻りたいか?

なら、私を殺せ、戦場で闘い、土地を取り戻せ”と。


平和的に、友好的に問題の解決を図ろうとした、パンダヴァ兄弟たち

の申し出を無視して敵対心をあらわにした、ドゥリョダーナと結局

パンダヴァ兄弟たちは闘うことになる。

 

両軍はクルックシェトラ(Kurukshetra)に軍をそろえた。

私はこの地を特急電車で通ったが、広大のフラットな土地が

デリーの北側に広がっていた。


カウラヴァ軍は11軍編成隊(一つの軍は21870の戦闘馬車で

成る)と同数の像、さらにその三倍の騎馬と、5倍の歩兵、

さらに、多種の兵器とその他の設備を取り備えた万全なもの

だった。


一方、パンダヴァ軍は、7軍編成隊のみ・・・軍隊の規模の

比較では、カウラヴァ軍にとても太刀打ちできなかったが、

彼らには、クリシュナ神が味方としてついた。


クリシュナ神は、この闘いに参加する条件として、騎乗しても、

闘わないnonfighting)ことを伝えた。


冒頭に戻るが インドではクリシュナ神は神として現代に

至るまで崇められているが(ビシュヌ神の化身として)

マトラの国に皇子として生まれ、ちょうど 実在したブッダ

(ゴ~タマ・シッダ=仏様)がそうであったように、歴史にその名を

残している。

 

ギータは、インドの子供たちなら小学生で学校で習い、テレビ

や演劇、古典芸能でも登場するヒーロー的存在、クリシュナ神

の語る言葉でつづられた聖なる本であるが、もともとは

“マハバラータ”の中に納まっている。


聖者 ヴャ―サにサンスクリット語で記された“マハバラータ”は

クリシュナ神がのべたとされる1万行の内容で、その中の

25章から42章までの“Bhishma Parva” を独立させて、

Bhagavad Gita”(バカヴァッド・ギータ)と呼んでいる。

 

ヒンズー教の聖典のみにとどまらず、その内容は西洋でも研究され、

仏教の基になる“空”の考えが貫かれて、東洋の宗教哲学の

土台である無の思想、空の理論、人間学、人生論、人の本質

などの基本が説かれているとされる。


だからこそ、古今東西を問わず、多くの真理を求める人たち

の指針書になっているのだろう。


自然治癒力との関連性は?と問われれば、その形而上的癒し

とこたえたい。

ギータを理解すれば、私たちの本質も理解できるだろう。

理解が深まれば、信念になり、信念は病をも癒す働きを、時には

持つことができる。


少なくても、体の免疫力を高め健康力を増すことは、インドの

ヨギの人生を見ても理解できる。

少しずつ、入門書的に バカヴァッド・ギータを皆様に

ご紹介していきたい。

 

 

  

クリシュナ神~ギータの中でアルジュナに教えを説く神

 

 

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三という神秘な数

2014年02月01日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

インド超古代哲学:3つのグナ(宇宙を造る属性)  2014・2・1

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数は神秘的だ。

それぞれの数に意味合いがあるといわれ、

それで占いをする人も少なくない。

姓名の画数や 生年月日、住所や電話番号にまで

こだわる人はこだわる。

三 という数字は 特に霊数の基調ともいえそうだ。

弥勒はミロク、三、六、九で 九は神の数と

信じている人もいる。

三は、 宇宙原理を一とし、それが動くと二になり、

体現されると、三になるとも考えられ 含蓄の

ある数字の一つのようだ。

 

例えば一二三神示ではこう書かれている:

”二二は晴れたり日本晴れ、

二二に御社してこの世収めるぞ、

一の神祀れ、

二の神様祀れよ、

三の神様まつれよ。

天の御三体の大神様、

地の御三体の大神様まつれよ”(108)

 

三位一体という言葉がある。

キリスト教では 聖霊・創造神・イエスキリスト 

を一体とみなす。

インドのヒンズー教では、

”天地創造神”、”維持する神”、新生を前提にした”破壊の神”

の三位一体を説き、ヒンズー教やキリスト教などの教えを

大きく含む、世界最古の聖典、ヴェーダでは それを

さらに、哲学的に解釈している。

 

ヴェーダの中には”三”つのコンビで言い表された

神聖な概念が多々出てくる。

たとえば、

①  サッチャム・シヴァム・スンダラム = 真善美

②  サット・チット・アーナンダ=真実・実相・至福

③  ブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァ=三位一体の神々の名前

 

三位一体の神は、それぞれ、

創造・維持・破壊・を担当して私たち人間や

宇宙を存続させている。

その神の資質は真理であり、善であり、美であること。

そして、宇宙を貫く至福が

サット・チット・アーナンダという言葉で、表現される。

 

次に大事な三つの宇宙を造る要素といえば

④  3つのグナ

グナというのは資質の意味であり、

人間の資質のみならず、行動と時間、休息と活動のリズム、

さらに、自然のリズムもこの グナに大きく関係している。

なぜなら、この世の中の万物は3つの属性、資質=グナが

表現されたものだから。

 

そのグナの種類は

①  サットヴァ = 浄性

②  ラジャス=激性

③  タマス=鈍性

この三つのグナの発展をここで考えてみたい。

 

アートマという大本の生命から万物が派生する。

 

① 自然元素:空     風      火     水     地 (パンチャブタスと呼ばれる)

 

② ①の浄性面から生まれる人間の器官      

耳    皮膚      眼     口     鼻 (サットヴァから発生)

 

③ ②のサンスクリット語での呼び方      

サブダ   スパルサ   パルー   ラサ    ガンク 

 

④ ③の機能   

(聴覚)   (触覚)    (視覚)   (味覚)   (臭覚)  (いわゆる5感覚)

 

⑤ ①が檄性面で発生したとき     

声・話   手の動作   足・運動      排泄器官  (元素’水’と’地’が排泄器官)     

 

 

以上の簡単な表記は、

アートマ がすべての根本のエネルギーであり、

そこからパンチャブタスと呼ばれる5つの自然元素が発生する。

それぞれの自然要素 風 空 水 火 地 には3つのグナがあることを

示して、それらが展開していくさまを簡単に表したものだ。

グナの一つ、浄性の面から

耳 皮膚 舌 鼻 眼の 五個の感覚器官が生まれる。

その激性の面からは、

機能面が生まれ、おのおの、聞く、嗅ぐなどの

行動機能を支配する。

 

グナの特性について)

サットヴァ的要素は外から受ける刺激や印象を内側に柔らかく

受け止める性質をもち、ラジャス要素は受けた刺激に対して

外側に向かい、反作用として働く。

タマス面は従順・謙遜・控えめ・怠惰的な要素を持つ。

一日の私たちの生活を考えてみてもこれに当てはまる

それぞれの時間帯がある。

 

時間と支配するグナ)

早朝明け方はサットヴァ的時間帯である。

早朝の瞑想が効果的であるのはこの理由である。

仕事場に着くころからだんだんとラジャス的になり肉体も

活動的に動くには適した時間帯となる。

夕方日が暮れるころ、再び、サットヴァ的な時間帯を迎える。 

インドの寺院では夕方の祈りがささげられる時間である。

夜は睡眠時間帯となり、タマス的な要素、休む、

活発な時間帯に当てはまる。

 

食餌消化とグナの関係)

食事はラジャス的な時間帯に終えてしまうのが

一番消化の効率が良く体にもいいとされる。

消化機能は火の性質をもつので、火の要素 ラジャスの

強い時間帯が適しているからだ。

 

アユールヴェーダとグナ)

アユールヴェーダの診断では まず、 

医者は患者の脈拍をとる。

その脈拍によって、身体の状態が判断を下される。

その時使われる表現が水、火、風の三要素である。

水はヴァータ、火はピッタ、風はヴァーユと呼ばれ、

水の要素が強い体質や火の要素が強い場合など、

それぞれの人の性格や体質で身体の状況も異なる、

アユールヴェーダの医師は

あなたの今の状態はヴァータ―・ピッタです”などと、

診断する。

ヴァータが一番強く、ピッタが次に勝っていると

いう意味である。

 

三要素が平均しているのが理想的であるが大概の人たちは

何かの要素が強かったり弱かったりして、脈診で、皮膚疾患や

内臓疾患、呼吸器系や消化器系などの状況が大方診断される。

 

 覚醒とグナの支配)

現実世界のすべては、これらの3つのグナに滲透され、

支配されているが、アートマを知るためには3つのグナを

超越しなければならないとインドの聖者は説く。

それはヒマラヤにこもって雪の中でも裸で

生活するということではない。

3つのグナがこの世の中の因縁関係を創っていることを

理解してそれを超越する努力が必要であるという意味だ。

 

特に激性の性質を持つ ラジャスが支配的になった状況では

人は 怒りやすくなりやすい。 

攻撃的で勝気、負けず嫌いで人と軋轢を生じやすく、

報復するために人を傷つけたりしかねないほどの、

激しい行動力のエネルギーとなる。

それがもとで(因)、念(想念)が生まれ、ドラマが造られていく。

因縁のドラマである。

 

グナを超越するとはそれぞれのグナを調和させていくことで、

そのグナの傾向に流されないように心がけることだろう。

サットヴァ的な浄的な心持であれば 

一見平安な心でいられそうだが、

グナ自体には何かを穏やかに受け止めるという

性質以上のものはない。

したがって、ラジャス的な要素も行動するためには

必要となる。

さらに、ラジャスのエネルギーが円滑にまわるためには、

休みというタマス的な要素も不可欠である。

ところが、タマス的要素が心を支配すると、

人に対して穏やかではあっても、自分から何かを自発的に

行動することが億劫(おっくう)になる。

そのため、心の持ちようも次第に消極的になりがちで、

自信もなかなか生まれないだろう。

 こうしてみていくと、

この三要素は肉体の維持にはかかせないものであり、

心の機能にもそれぞれが適宜に生かされることが

必要であることがわかる。

バランスが必要であるということは

これらのグナの統合性が保たれるためには

とても大切なことのようだ。

 

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謹賀新年・午年・アスワ(馬=感覚)

2014年01月02日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

馬を乗りこなす~今年を本意のままに  平成25年1月2日

******************************************

 

 

新年明けましておめでとうございます。

今年は午年、馬といえば、古代インドの賢人が馬を

人の感覚にとらえていたのを思い出します。

感覚で受ける、感受性・・・

今日のテーマです。

 

感受性は五つの感覚受け止めた”対象物”

への心の反応といってよいでしょう。

印度古代賢人たちは、諸感覚を馬(アスワ)に例えています。

 

なぜ諸感覚をアスワ=馬に比較しているのかといえば、

馬の習性が諸感覚と似ているからなのです。

というのも、よく見ると、馬はたえずどこか、体の一部分

を動かしています。

しっぽや脚、背中や顔など、じーっと落ち着いていることがない、

つまり、私たちの諸感覚もそれに似て、絶えず、揺れている。

 

友人と真剣に話し合っている時に、突然、昨日から気に

なっていることや、全く関係のないこと、

たとえば、今夜のおかずのことなどが頭に浮かんだことが

ありませんか?

 

心が一瞬 ふっと、自分の集中していることとは違う方へ、

かた向く、それは、諸感覚は常にいろいろなヴィジョンや刺激を

頭に伝える役目を果たしている証拠ともいえるでしょう。

 

感受性がもたらす感覚は、5つの感覚機能をとおして伝わります。

この感覚器官にはそれぞれ制限があります。

 

眼は見るだけ、鼻は匂いをかぎ分け、舌は味わい、耳は聞く

というように、感覚器官が馬だとすれば、私たちの体は、

5頭の馬によって いつも、ひっぱられているわけです。


ヴェーダのウパニシャッドにこう説明されています。

その昔インド古代において、犠牲祭(ヤーガ)が執り行われ、

時の統治者は馬を捧げた。

 

それは、心が変わりやすい諸感覚に支配されないように、

心が国をほろぼすことが無いように願い、アスワ(馬)を

神にささげることで、自己のアスワメーダ(変わりやすい心)

を自制できるように祈るためだった。“

 

このお祭りをアスワ・メーダ・ヤーガと呼んでいました。


時の勢力者が身体を正しい方向に導く有能な御者=

デーマンタ(馬=諸感覚、を正しく扱い統御できる人

になるよう この祭事を行い、祈ったのでした。

 

一口に、”諸感覚の制御”といっても これほど難しいものは

無いと思います。


私たちは感覚を制御するどころか、逆に感覚に引っ張り

まわされていつの間にか 御者(真の自分)が 

馬の言いなりになっている・・・


馬に引っ張りまわされて、知らずのうちに統制の効かない

馬車にのっていることもあり得るのです。


単純な食べる、飲む、見るなどの、意識的感覚を超えた、

高慢さや優越感 なども、身体に属する感覚でしょう。

特に霊的プライド(高慢)となると、厄介です。

ほとんど無意識のうちに自分を覆い、

御者の座に座っている場合が多いようです。

 

日常生活で “~しすぎて失敗した、”と 反省するときは 

大概 馬の暴走による場合が多いようです。


食べ過ぎておなかを壊した、深夜ヴィデオを見すぎて疲れた、

など、何かに無中になりすぎて 気が付いたときに

”自制が足らなかった”と、反省することは多々あるものです。

 

古代インドでも感覚の判断の奴隷になり、

愛する息子まで失った国王がいました。

その王の名前はダサラダ王といいます。


彼には3人の妻がいました。

一番若くて美しい三番目の妻を深く寵愛したあまり、

その妻の要求に答えて王は愛する息子を森にと追放します。


昨年ブログでお話しした、あの、神の化身ラーマ王子です。 

息子との離別によって その後さまざまな不幸に見舞われ、

王は深く悔いるのですが、それも、美しい妻に自制心を失い、

妻の願いをかなえるために、理性を失ったためでした。

 

この話をもとにラーマヤーナが書かれます。

この話はちなみに、アジア各地にも伝わり、インドネシアや

タイでは影絵や踊りなどのモチーフとして、現代にいたる

まで上演されています。

 

ラーマ王子は ラバナという特別の力をもったスリランカ

の王を倒すために海を渡り戦います。

その時に猿が大活躍します。 


この猿が神格化されて忠誠の代名詞となる、

ハヌマーン神です。


ラーマが桃太郎ならば、鬼ヶ島がスリランカ島、

鬼はランカというスリランカの王さま、にあたります。


犬(忠僕の意味)と雉はハヌマーン(猿神)が

一人三役しているわけです。

犬という忠僕さと、雉という空を飛ぶ能力を兼ね

備えた臣下としてラーマ・ヤーナでも、ハヌマーン神

は描かれています。

 

話しが脱線してしまいましたが、

3人の妻でさえ、コントロールすることが難しかった

ダサラダ王ですが、10人の妻がいたら、一体

どうなったのでしょうか?

 

実は誰にでも10人の妻、または恋人がいるのです。


それは5つの感覚器官とそれによって支配されている

5つの行動器官を合わせた数です。


先ほどのべたようにそれぞれの器官は一つの役目をはたします。

ですから 私たち誰でも、5つの感覚と5つの行動機能、

計10の統御すべき妻(恋人)がいるということになるのです。

 

たとえば、食事をして美味しいと舌が判断すると、

もっと食べたいと試みます。

良い音楽を CDで聴いて感動すれば、生演奏を聞くために

コンサートに足を運びます。


かぐわしい香に惹かれて、その香の香水を探します。

そのように、五感で得た快感にしたがって、その快感

や刺激を得るために、私たちは毎日 行動しています。

 

生きるためには、五感の快感の追及は必要ですが、

それが過度になったとき、いろいろな悲劇が生まれる

のは、古代インドのダサラダ王の時代と変わりはない

ということでしょう

 

馬が感覚器官であるというなら、その馬を統制する、

御者(ぎょしゃ)が手綱をしっかり持って、馬がきちん

とした道を進むように、大きな石に躓いて 馬車が転倒

することがないように絶えず注意しなければ 乗って

いても安全であるとはいえません。

 

同様、私たちも感覚器官をコントロールしようと

いう意思がなく、感覚を享受することにのみ集中すれば 

御者がいないのと同然になってしまうとヴェーダは教えます。

 

自分の心の中にいる御者とは? 

想念、想いというのは外から感覚器官で受け取った感じが

心に伝わり、愉快・不快、好き・嫌いの単純な心象を

生みます。


その時 心がその心象に、振り回されると、

喜怒哀楽の感情も出てきて、幸不幸などの想いが生じます。

不幸だという負の感情に対して、前向きで建設的な


アプローチをすれば、感覚の馬を統御できると言います。

 

感覚が生む感情(喜怒哀楽)に 

心(マナス)が流されることは容易ですが、

前向きに希望を持って落ち着いて善処することで、

ブッディ(心の智慧)とチッタ(潜在意識の中にある善の記憶)

の心の領域を開発することにつながるというのです。


こうして、御者[ブッディとチッタ]が確実に手綱を握って

その馬(感覚器官からの刺激で生まれた想念]をコントロール

することができれば 真の自分のコントロール下に馬が置かれる

というわけでしょう。

 

反対に常に馬の暴走を許していると、

御者にとっては困難といえる状況になりかねません。

ブッディは理知、つまり、理性ある智慧です。 

チッタは記憶から必要な善き情報を見出す役割をもつ心です。

 

どんな状況に置かれていても、

それが、自分のブッディとチッタを強化する良い機会と

捉えられれば、問題は半分以上解決したようなものです。


馬(感覚器官)と手綱(マナス)を統制して、

自分を失わずに 安全に 馬車=身体 を自分の希望地・

目的地へと、運んでいくでしょう。

2014年を走る馬車、心して、ブッディ(智慧~誰でも

持っている)にしっかり 手綱を持っていてもらいたい

と願います。

 

 

 2014年ご来光(初日の出) 淡路島に入る入り口の橋から (読者投稿)

 

 

 

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