現実とのギャップ、イラン人の友好的態度
********************************2018・1・15
ホテルでの朝食ー質素なナンとチーズ、サラダ、美味しい紅茶
今回の、イランへの旅では、短くても、印象に残る個性的な
場所をめぐることができた。
インド経由でイランに飛んだが、テヘラン空港に着いて
小一時間ほど待って、当局からもらったアライバルビザは、
パスポートにイランに行った痕跡を残していた。
それは、このパスポートが切れるまでは、日本人なら大使館
でヴィザをもらわなくてよいアメリカに、フリーヴィザでは
は行けなくなったということを意味していた。
さて、この旅で印象的に心に残った、イランの想い出は、
到着一日目のフラリと乗った地下鉄内での経験だ。
イランに到着して、一時的に休憩するためにとった、
ホテルに荷物を置いて、地下鉄でTabiyat Bridgeに、出かけた。
Tabiyat Bridgeから見た街の風景
地下鉄の雰囲気は欧米の歴史を感じる先進諸国の地下鉄と同様、
進んだシステム化したものだったが、異なるのは、地下通路内
が清潔で、ごみが落ちておらず暗い感じがしなかった点だ。
この地下鉄では、とても印象的な体験をした。
女性用車両が、モスリムの国らしく、時間帯問わず、用意されて
いたが、自分は息子と共だったので、女性用は利用せず、
普通車両に乗った。
ドアが閉まって走り出して、5分しないうちに、近くの男性が
席をたって、私に座れとポーズをした。
女性で外人、一応、モスリマとして頭をスカーフで覆っていた
ので男性の体に触れることは好ましくないと判断されたのだろう。
’外国人のゲスト(私)に対して、そんな不愉快な想いをさせる
のは、失礼だ’という理由から、席を譲ったのだということは、
知人のイラン人の女性に後で聞いた。
このブリッジに到着して橋を渡り、緑の多い、広大な敷地を
持つ公園を散策した。若者たちがカップルでデートしていたり、
女学生たちが楽しそうに話しをしている様子が、日本の公園
にいる若者たちと変わらない、和やかな雰囲気を醸し出していた。
しかも、空気が、とても東洋的にウェットなのが、心地よかった。
数年前に訪れた韓国の公園に似ていた。
イランにいるというより、12月の寒い東京郊外の散歩道を
楽しんでいるような、錯覚を覚えながら小道を散策した。
ブリッジからは、ビル街が見渡され、モダンでしかも
しっとり落ち着いた雰囲気が楽しめた。
女学生たちが談笑しながら、向こう側から歩いてきた。
異邦人である私たちに、さわやかな笑顔を向けて、通り
過ぎたかと思ったら、踵(きびす)を返して近寄ってきた。
”一緒に写真とっても良いですか?”と息子に尋ねた。
頭は髪の毛が見えないように、隠しているが、服装は日本の
若い女の子たちと変わらず、表情も楽し気で、親睦的だった。
散歩道で
2時間ほど、ぶらぶらして、ホテルに戻るために帰りの地下鉄
に乗った。帰りの地下鉄内では、行きと同様 イラン人の
おもてなしの心を 行きの地下鉄内同様、追加体験した。
少々お年を召した男性が、私にまず、席を譲ってくれ、
隣りのさらにお年を召した男性が息子に席を譲った。
’ゲストなのだから、どうぞ、私の席に座ってください’
というおもてなしの心だという。
その暖かいウェルカムのマナーに心を動かされた。
15分ほどの地下鉄の体験だったが、面白いことに、
いろいろな行商人が 揺れている車内通路で物販販売
を始めたのには驚かされた。
その商品はさまざまで、男性用のベルトだったり、小さな
家電だったり、おもちゃだったり、立っている乗客の間を
巧みにすり抜けながら、少しでも、タイミングがあえば
揺れている車内の中で商品を広げ 商売を始めた。
乗客たちの間を器用にすりぬけながら、大きな声で 掛け声
をかけながら、セールス販売をしていた。他(よそ)の地では
見かけたことのない、地下鉄車両内での、その商魂たくましさ
に可笑しくなったが、乗客たちは慣れたもので殆ど反応せず、
静かに、乗りあっていた。
が、時たま行商人に声をかけて、商品を手にとったりしている
乗客がいるところを見るとなにがしかの利益は期待できるの
だろう。
息子が ’自分が席を譲らなければならないような人に譲られて
座るのは複雑な心境だ’ とつぶやきながら、譲られた席にかけた。
知らない女性の体に触れては好ましくないモスリム社会の
しきたりから、私の隣に座っている男性でさえ、遠慮して息子
に席をゆずるのはイスラム社会のマナーが徹底しているからだろう。
デリーからテヘランの夜通しのフライトで疲れた体を、荷物を
預けたホテルでしばらく、横たえて半日の滞在時間が過ぎた。
夕方にチェックアウトの手続きをフロントでしていると、男性
スタッフが流暢な日本語で話しかけてきた。
日本のアニメが大好きで、アニメを見ながら日本語を勉強した
という。
この日訪れた公園の雰囲気が東洋的だったのと同様、この日、
出会ったイラン人たちの
オーラは、やはり、東洋的な日本人にも共通する、遠慮がちで
慎み深さを感じられたのは、私だけではないようだ。
この国を訪れた、知りあいの日本人たち(インド在住の)は、
同様に口をそろえて、イランの旅の意外性の1つに、友好的で、
穏やかな国民性を挙げていることをつけ添えておきたい。
その方たちからの話を聞いて、百聞は一見にしかず、一度、
まだ足を踏み入れたことのない、ペルシャ文化の中心国、
イランに行きたく思ったのも事実だ。
第一日目に数時間滞在したホテルのフロントスタッフと 記念写真。
余談だが、アメリカへは最大の友好国の1つ、日本の国民は、
観光の場合、ヴィザなしで行ける。
が、イラン入国証印のあるパスポート保持者は、アメリカ
大使館を通して、ヴィザをもらう必要が生じるということだった。
つまり、アメリカに気軽に入国できないわけで、イランに行った
理由や背景が調べられるということらしい。
その理由は、以下のような、アメリカとイランの歴史的関係を
背景にしているからだろう。
参考)なぜ 米国にフリーヴィザで行けなくなったかといえば、
以下のようなイランとアメリカの歴史がある。
(イランとアメリカの歴史的関係)
1.1979年4月のイスラム革命
時に、革命政権がアメリカ政府に対して、
パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の
関係 に変更し、パフラヴィーが私物化した財産を
イランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄を
イランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領
はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。
2.革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、
1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を
人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。
カーター大統領は1980年4月にイランに対する
国交断絶と経済制裁を実施した。
イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、
イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・
経済制裁・敵視政策を継続している。
3.アメリカ政府は1984年にレーガン大統領が
イランをテロ支援国家と指定し、2008年現在まで
指定を継続している[35]。
4.アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、
アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の
禁止措置を実施した。
アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガ
ス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法
[36] を可決してクリントン大統領が署名して成立し、
アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長
する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、
イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を
修復し制裁は解除した)である。
5.ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを
悪の枢軸と表現して批判した。
アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒
である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラーや
ヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。
6.2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、
バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、
エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、
イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網
への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府
もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ
大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも
賛同・協力は得られなかった。
7.2009年のイランの反アフマディーネジャード派の
大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していた
ことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、
大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの
財団・機関が関与していた事実があったとして
「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)
を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに
対して公表し[37]、アメリカ政府もイランの体制を壊す
目的で工作していたと発表した。
(以上 ウィキペディアより抜粋)