自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ぼうさんへ:マントラと呪文に関していただいた質問の返答

2019年07月10日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ぼうーさんへのお返事、  2019 7月10日

***************************************

 前書き)

村上氏のスピリチュアリティのお話は

まだ続きますが、先回7月3日に

予告しましたように、今日は少し脱線します。

**************

ぼうーさんからずいぶん前(2019・2/8)

に、以下のようにコメント欄(公開)

質問をいただきながら、気がつかず、

3月になってその質問を拝見し、時間が

経過しているので慌てて、’機会が

あったらブログ上で取り扱いたい”

と返答をしています。

もう7月。

とりあえず、いただいた質問をUPして、

遅ればせながら茶色字で返事を入れました。

 ぼうさんの目に留まることを願いつつ。

 ぼうさんの質問は以下のように始まって

います。

*************************

須田先生、はじめまして、こんにちは。

密教や修験道であるような「呪術」と(

西洋)黒魔術に代表されるような

「魔術」の違いがどうしても知りたく、

調べてもわからず、しまいに先生の

ブログ記事に行きつきました。

関係のない記事にてコメントで

申し訳ないです。

参考にさせて頂いた記事は6年前の、

「インドで知った黒魔術の攻防戦」です。

「魔」ついては、個人的には一部

可視化、肌で感じるといった形で

わかることもあるのですが、そうで

ないことも多いです。

それで先生がご自身の体験を通して

どうお考えになっているかお伺い

したく思いました。

伝統的にお守りに代表される「破魔矢」

ですとか、仏教で「降魔」という観念で

魔を退けている日本の呪術も魔性との

関りはないのでしょうか? (質問終わり)

 

***この質問の中にある、黒魔術の攻防

というくだりは、私が実際インド滞在時の

最終ステージで体験したものだ。

詳しいことは、当時のブログを見て

いただければ仔細に状況プロセスが

つづられているが、ざっくりお話

すると、生霊の念に体が縛られ、

危うく死の扉の近くに行くという

体験だった。(大げさに聞こえるが、

私の代わりに一人の身近な女性が

病院に緊急に運ばれ命拾いし、

その代わりのように、彼女の弟

が心臓麻痺で数時間後他界した。)

 

こういう話は、科学的ではない。

また、作り話でも本当の話でも読者の

方には信ぴょう性がないものとしか

映らないと思う。

ぼうさんは行間のニュアンスから私の

体験を真なるものととらえてくださり、

その時の相手の呪術の念から身を守る

ために唱え続けた真言に興味を持たれた。

 

サンスクリット語ではこの場合の

真言をマントラという。

呪術に使う言葉を呪文というが、

マントラを呪文を考える人もいる。

それに関しては、以前、私はこんな

記事をブログに挙げているので

最後の方に、参考に載せておきたい。

 

さて、ぼうさんのお返事に入りたい。*** 

回答~これ(破魔矢の魔)に関しては、

魔性と関係が当然あると思います。

破魔矢については、日本超古代史

(ホツマツタヱに書かれている事柄)

の中で、その云われについて触れています。

 それを読むと、古事記の神話以上に、

リアリティーがあり、破魔矢を含め

日本人が古代から続く風習や慣習

などの‘起源’を知ることができます。

ホツマツタヱによると、“はたれ魔”

という”人の欲望や利己意識に付け

込んで入り込む’魔’の存在を認めていて、

ホツマツタヱの中では命尊(ミコト)

と呼ばれる神々がこれと戦った記録も

残っています。(これに関しては後日

また、ブログでご紹介したいと思います。)

 

仏教でいう”魔”については私は正式に

勉強をしていませんが、少なくても、

お釈迦様が最後の悟りを開くとき、

この‘魔’と観想をしている中で闘った

ことは、スリランカの経典の中に

書かれているようです。

ちょうど、西洋の悪魔的存在と匹敵

するのですが、キリストが、深い

祈りと瞑想を続けているときに、

’全世界を お前にやるから私に服従

しないか~’と誘惑してきた

悪魔と同様の種といえるでしょう。

  

質問)先生の記事に、「この状況下で、

古神道の さすさつづ歌 という、

魔性を払いのける祝詞を選んだ。

・・・黒魔術師 からの、波動を

突っぱねるために 祝詞の波動で

わが身を守り続けた。」 とあります。

 基本、例えば密教の真言に「魔性」

はなく、前述の祝詞のように全く別

(次元)の(神聖な?)力が働いて

いる、と考えてよいのでしょうか?

 

回答~はい、真言と訳した場合はそうです。

ただし、どの宗教にも裏と表があるように、

言葉で相手を呪い、身に災いをもたらす

という方法はあるようです。 

というのもその実在を、数年前に高野山

に行ったときその呪文が書かれた書物を

古書専門店で見つけたからです。 

当時はインドの黒魔術の体験がまだ

生々しく、私自身、もう触れたくない

という想いが強かったせいか、その本

は興味はありましたが、購入しません

でした。

 

密教にも呪文は存在していたでしょう。

陰陽師(おんみょうじ)と呼ばれる人たち

の中にもそうした業を知っている人たち

がいたようです。

 

質問)先生も般若心経の記事で真言は

「呪文」と訳されている、と書かれて

いますが、また学術界では魔術を単に

呪術と学術的に呼び変えているだけの

ようですが、一般人としては、その

あいまいな線引きがどうしても

気になるところです。

 

回答~専門学者ではないので、呪術と

魔術の線引きを学術的にお話は

できませんが、学者さんも、たぶん、

呪文の体験や真言の力を体験したかた

はあまりいないので この線引きを

現実的にひくことは難しいのでは

ないでしょうか? 

ですので、魔術=呪術と単純に呼び

変えているのも不思議ではありません。

それから、魔術と訳された本来の言語、

それが英語でもサンスクリット語でも、

元の言葉がわかれば、魔術か呪術か、

その概念がはっきりとするように思います。

 

私は、魔術ときくと、インドでよく

身近な人たちがかけたりかけられたり

していると信じていた”黒魔術”、英語

では文字通り、black majic と称して

いたそれを思い出します。

私が住んでいたニューデリーの界隈

でも教養を受けた人たちがこの言葉を

意外と頻繁に使っていたのが印象的

でした。

黒魔術でつかわれる、呪いの言葉は、

真言と訳されるマントラの中の呪術

とは異なります。

まさに私がインド滞在中最後のほうで

体験させてもらった、黒魔術の師

からかけられることになった

私への呪いの言葉は、その念の

入りようを恐ろしく感じた周りの

弟子たちが”もうやめてください。

須田さんが死んでしまいます”と

止めたほどでしたから、(その弟子の

ひとりが私の会社の運転手でしたので、

その話を直に聞くことができました)

その時、その師匠は、おどろおどろしい

雰囲気を醸し出していたと推測

します。

 

そして現にその術は私のところに

確実に届き、その時刻、私は体が重く

硬直して、ベッドから起き上がれ

なかったのですから直観的にその術

で受けている波動は察知するほど

でした。

また、中世の西洋諸国で行われた

魔女狩りも想起させられます。

魔女たちは特殊な‘念の力’を使い、

キリスト教に反する邪道な悪を

操るものとして、とらえられ火あぶり

に処せられ、中には無実の疑いを

かけられ犠牲になった

人たちも多かったようです。

黒魔術はいわゆる、呪いです。

相手の幸せを祈るより、呪うための、

言霊を駆使します。

一方、マントラは神への祈りの言葉

に通じます。

それは相手の幸せを祈るため、肯定的な

本来の祈りの言葉でもあると思います。

 

 ****************以上です。続いて、

 呪術に使う言葉を呪文というが密教的な

意味で真言と考えられるマントラを呪文と

呼ぶ人もいる。

それに関しては、以前、私はこんな記事を

ブログに挙げているので最後の方に、

参考に載せておきたい。

 

(平成25年9月2日のブログ記事より)

 真言 という言葉をそのまま使っている 

仏教宗派がある。

真言密教だ。弘法大師が開いた真言密教

の中で、”真言” は重要性を持つ。

それは、”言霊” の威力 によって、 

魔を祓い、病すらそれによって、

治すことも可能だからだ。

言霊の威力というのは、その聖なる言葉

の発する振動が、人や事象に

変化を与えることもできる。

弘法大師の書かれた”即身成仏義”に次の

ような言葉がある。”六大(*1)

は無碍にして、常に瑜伽(ゆが)なり。” 

”諸の顕教の中には 四大等 を以って、

非情とす、密教には 即ち これを

説いて 如来の三摩耶身とす、

四大等 は 心大 を離れず” と

説いている。 

 

意味は、物質はそれぞれ、お互いに

無碍涉入(むげしょうにゅう)しており、

物質は単なる、物ではなく、ことごとく

意識を備えた物心一如の自覚体である、

一木一草森羅万象、総て自己との

深い関わりがあり、それらの存在すると

ころに人格的存在があり、仏の

三摩耶(samaya=誓願)によって、貫かれた、

如来の三摩耶身である。

 

言い換えれば、この世の中の万物は 

如来の心の顕れであり、すべての存在

にその心が流れているから、自分と、

まわりの自然事象とはすべて深い関係で、

繋がっている、ということだろう。

或いは、それらの事象と一如である

からこそ、自分の発するコトバの

波動によって、すべからく、自分を

含め周りの事象の変化を可能に

するのである。

この言霊の威力を使う真言密教の

行の一つに護摩法(ごまほう)がある。

四角の炉に蒔きをくべ、火を燃やし、

真言を唱えながら行う、心身清浄の

行だ。 

筆者がガンジス河の修行所で

体験したそれは、次のようなものであった。 

”・・・・・スヴァハ(日本語の

漢字表記では娑婆詞~ソワカ~” 

で終わる マントラを繰り返しながら、

そのたびに、香木が燃えたぎる炉の

中に、お香や、花や米などの供え物を

投げ入れる。

日本では、数度、真言宗の寺や、

大山御不動様また、鞍馬の満月の

祈りの夜などでお焚きあげを体験したが、 

ガンジス河の古式の護摩法の儀式と

根本的に同一な儀式であった。

 

護摩行に関しては、印度の古代聖典、

ヴェーダの中で、リグ・ヴェーダにその

儀式の方法が書かれている。

火炉(かろ)に供えられた供物を

聖なる火で焼き、火煙となった供え物は、

天の諸神のもとへ運ばれる。

と同時に、この火炉の薪(たきぎ)は

智慧の火の象徴であり、燃やすお供物は、

我々の煩悩と欲である。

それらが 智慧の火の中に交わり、

溶け、燃え尽き、さらに、煙となって、

転化して上昇、天に昇っていく。

 つまり、煩悩が燃やされ、新たな智慧

のエネルギーに転化し、昇華していくさま

を深く、観ずることも、護摩行の特性で

あるだろう。

 

日本の密教では こうした理念を受け

継ぎお炊き上げに繋がっていくのだろう。

このお炊き上げの裏にある真の意義は、

印度で生まれた、タントラ密教の考え方にも

通じるものがあり興味深い。

我々の欲望を否定するのではなく、

それを聖なるエネルギーに同化させていく

手段と考える。

象徴的に 聖なる火 で それらを燃やす。

欲そのものは悪ではない。

欲は誰しも持って生まれた煩悩、

それは生命力の伸びようとする、

エネルギーの顕れでもあり、

自分を浄化せしめるパワーの根源でも

あるのだ。

 

キリスト教会の教義によると、

 ”人は罪深い原罪を持つ”存在で、 

赦しと救済が必要だから、イエスが

十字架にかかり、贖罪をしたと

説かれる。

イエスを信じることで、罪は許されるが、

永久に、人と神との間に 越えられない

一線があるという一般的キリスト教

考え方とは、そこで、密教は、意見を

異にする。

 

護摩行では先にもお話ししたが 

真言が唱えられる。 サンスクリット

で言うところのマントラだ。

般若心経で書かれている、”呪” 

である。呪、呪文というと、

漢字では 呪い(のろい)と同義語

に錯覚しがちだ。

呪いのような、言霊を利用した、

よこしまな呪術は真言密教では、

禁じられる。

よこしまな呪術 というのは、言葉を

変えれば、己の欲望のために、言霊 を

行使して、

”小自我の欲求達成のための手段”と

すること。

般若心経の 呪 は、その意味とは

正反対の自分を縛る執着(呪縛)から

の解放を得て自我意識に到達するための

言霊をさす。

例えば、念仏や念誦に用いられる

呪文を密教では 

vidya(明呪)、mantra(真言)dharani(ダラー二)

と呼んでいる。

その梵語のもともとの意味は、

vidya( 明呪 )は般若の智慧( ヴァンニャー)

であり、無明を開き真理に明るくする智慧。 

mantra(真言)は、神聖な思想を盛る

器の意味dharani (ダラー二)は、

精神統一する際に必要な精神力をそれぞれ

表現している。 

弘法大師が、

”真言は不思議なり、観誦すれば、

無明を取り除く。一字に千理を含み、

即身に法如を証す。”といわれた、

不思議と述懐された真意は、魔術的

な要素 をさしているのでなく無明

を取り除く、という真言(マントラ)

の不可思議さをさしている。

真言の一つの文字に 千の(無数の)

真理をあらわし、これを理解したとき、

その身に功徳をいただき、真理と一体

(大我)を実現するということを大師は、

言われている。

護摩法とお炊き上げ、そして 真言の

祈り、それはすべて、不浄を燃やし、

燃やして残る大我(人間の実相)の顕現

を目的にした、儀式ということで

共通しているようだ。

 

 

 

***補足*1) 地・水・火・風を四大、

それに空・識を加えて六大元素とする

 

 

 

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