本当は、”幸せな自分”こそ、あなた自身なのですから
2024年4月18日
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心身健康のときは、幸せ感があります。
反対に、幸せ感があれば、心身は健康に導かれます。
あなたは、幸せですか?
”幸せ”は、人と比較したりして頭で考えて、
出す結論ではないですよね。
人によって、”幸せ”というときの状態は
みんな違うようです。
”幸せという表現”は、本当に、曖昧です。
前回まで、”自由”って?
を考えて、ブログに書いてきました。
その理由は、私は、”本当の自由が、幸せをもたらす”
と感じるからです。
”自由”という意味も、一人ひとり、微妙に違います。
私のいう、”自由”とは、心に、何も”とらわれ”がない
状態です。
たとえば、人間関係がぎくしゃくしていれば、
誤解や、相手の言動を反芻したりして、
心はそれにとらわれます。
だから、私にとって、この状態は、決して、幸せとは
いえません。
何かにとらわれていれば、自由ではないから。
これが無ければ、この人がいなければ、幸せでない・・
という大切な物や、人、に自分の幸せが頼っていること
も 多々あります。
そして、”これ”が見つかり、”この人”が、いたとしても、
その結果が必ずしも、幸せの条件ではなかった・・と
気が付くこともあります。
ということは、”幸せ”って、こうでなければ、
幸せではない、という条件付きではなく、
どんな条件下のもとでも、心が、満たされていられる
ことも、その定義かもしれません。
それでは 常に無条件でも、幸せな自分になれる?
と疑問が湧きます。
それに対して、覚者は答えます;
”はい、幸せを外に、求め続けているのなら、
いつまでも見つかりません。
’今’、ここに ’幸せ’はあります。
それに気が付かないだけのことなのです。”
これは、メーテルリンクの“青い鳥”の童話(*1)
の主題と同じです。
’幸せの青い鳥’は、自分の家を出て、探し回り、
結局、自分の家に”すでにいた”というお話です。
”いろいろ問題を抱えている”と考えているのは、
”錯覚のボート”に乗っているからだと、覚者は、
さらに、こう言います。
”誰でも、”錯覚”しながら生きている。
自分のそのままで、幸せだということに
気が付かないのは、
’小さなエゴ意識(アハンカーラ)’と、
生まれ持って生まれたの気性(サンスカーラ)
のせいです”
錯覚のボート とは、何でしょう?
それは、”本当の純粋な自分”に、眼を向けない限り
肉眼で見る世界に、翻弄される、この娑婆の世界
のことです。
そして、娑婆世界に必須な”エゴ意識”は、自分を、
’肉体に属している’と思わせ、
身体の五感感覚に振り回され、
そのたびに、感情を揺り動かして、同時に頭(脳)
をフル回転させ、’考え’の空回りで 無駄なエネルギー
を消費させています。
この聖者の紫色の言葉の中の、”サンスカーラ”は、
過去生の何万年以上にもわたり、この世に生まれ、
培ってきた自分自身の、キャラクターのことです。
うまれつき、その人の性格として、短気とか、
疑り深いとか、もちろん長所も含まれますが、個性を
創造しているのが、この”サンスカーラ”と呼ばれる
資質です。
インド在住の際、師から、”あなたは誰ですか?”
と、聞かれたことがあります。
”自分の名前” を答えると、却下されました。
なぜなら、自分の名前は、この肉体を持った時に、
付けられたもの。
この肉体の分別のためのもので、”本当のあなた”を
あらわしていないという理由でした。
そして、師は、こう続けました:
“自分の肉体の定義をしてみなさい。
この肉体が自分だと思う理由も、考えてみなさい。
肉体を構成している材料は、宇宙に存在する
物質なのに、
どうして、それらは’あなた’だと、いえるのかね?
あなた自身は、肉体に住む、アートマという純粋
性。
だから、’あなたは誰か?’ の答えは、’アートマ’
なのだ。”
その純粋性の中にいると、湧き上がる本物の感情
があります。
それは、愛とか、祝福感とか、何も物質的条件なし
に、人を本当に、幸福に感じさせる源泉感情です。
これこそ、何も”囚われのない境地”です。
囚われる、執着する、しがみつく、頼り切る、
期待する、などの、一連の感情から、フリーになる
こと、
それが、先にのべた、私の、幸福の定義 でも
あります。
次回に続きます
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(*1)幸福の青い鳥はどこだろう?
クリスマスの前夜、妖女に言いつかって青い鳥を
探しに出た兄妹、
チルチルとミチルの夢と冒険の物語。