”いったい、何を私、悪いことをしたのかしら?” 2019・6/13
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先回の投稿で少し脱線しましたが、また、6月1日の記事の続きとなります。
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知人友人から、健康や家族の心配事などを打ち明けられる。
話の中で、多くのかたが、話の中で、”私、何か悪いことをしたから、
こんな問題にむきあわなければならないのかしら?”と自問自答する。
因果応報、悪いことをしたら自分があとで苦しむ~という仏教的考え。
意外と日常的に私たちはその考え方を受け入れているようだ。
ほかの宗教でもいろいろな言い回しで、因果応報のルールを教えている。
たとえば、”良い種をまこう”、自分の蒔いた種を刈り取らなければならない、
のように。
因果応報のルールは原因と結果という言葉があるとおり、
この世の中の真理だと思う。
が、時には人生全般の悩みや問題に関して、このことを追求する
のはあまり意味がないと思うときがある。
特に、病に関していえばあまり、お勧めしたくない‘真理’でも
あると私は思う。
自分が癌だともし宣告されたとき、因果応報にこだわれば、
思わず自問自答したくなる。
“自分はそれ相応の何か悪いことを過去にしてきたのだろうか?”
“過去世に犯した悪いカルマが今、こうしたつらい病気となって
出てきているのだろうか?”
あれやこれやと思い出し、苦い想いとともに、自分の至らなさを
不甲斐なく思い、自分の未熟さを責める。
反省したからとて、回答は見いだせないし、病状に待ったは
かけられないし、暗い気持ちになっては
反省どころか悪循環の未来の見えない混乱を招くだけだろう。
そうは言っても、癌と宣告されて、“よし、今までのカルマを
一掃して新しく生まれ変わったように心を
入れ替えよう”と即即座にポジティヴな考え方に切り
替えることも難しい。
では宗教に頼ればよいのか?
時には、それも心を落ち着かせる手段として有効かもしれない。
一方、信仰を高めるために恐れを利用する
宗教組織の思惑も残念ながら感じる時がある。、
”恐れ”を抱かせて神や仏に信仰を持ちなさいと導く方法。
ある宗教では”人は罪深い”と教えられ、”神に頼らなければ
救われない”と導かれる。
ある教えでは”そんなことをしたら、7代までたたりますよ”
と脅かされ、導師のいうことに素直に耳を
傾けざる得ない状態にはまる。
ほんとうにそうなのだろうか?
人間は罪深いのだろうか?
7代までたたるような所業が存在するのだろうか?
そもそも生まれながらに’罪深い’とは’原罪”を意味する。
”原罪”という教えがない宗教では、この”罪深い”
という考え方は存在しないが、この世で悪業をした人が
行く地獄の存在を説いたりしている。
7代たたるという話にしても、輪廻転生を説く教えでは
通用するが、魂は一代で終わり審判の日まで
眠りにつくという教えなら、理解しにくいだろう。
そう考えると”心配とか恐れ”は、病気を引き起こす
メンタル要因になっているといえるだろう。
それは“自分は決して人のためになるばかりの行動を
していないから、この結果が何か生来、病気となって
現れるのではないか?”とか、もっとダイレクトに“
自分は罪深いから、神様から何か罰を与えられて
苦しむ結果になるかもしれない。”とか, そうした
無意識に積もり積もった不安が本当に病気を引き起こす
可能性があるだからだ。
私たちの念はクリエーターだ。念の通りに人生が
展開しているといっても過言ではない。
さて、今日の本題にある、いじめと恐怖心~その話に
入ると、こうした不安や自身のなさが、
いじめをする方にもされる方にも見え隠れして
いるような気がしてならない。
いじめを受ける子供たち、統計的に見ると、そういう
子供たちの共通性は次のようなものがあげられる:
①“自分に自信がない。” ~ ひっこみがち
②“はきはきしていない” ~ 優柔不断
③“目立たないように行動する“ ~ 自己主張がない
④”交友関係があまり多くない“ ~一人の行動
⑤”外見的に、あるいは、実力的に他の子どもより
劣っていると思い込みがある。“
⑥”学校的行事には消極的、不参加することもある“
~ 社会的ではない
⑦“愛されているという実感がない” から “生きて
いても無意味だとしばしば考える”~ 自殺願望に
なるときがある
一方、いじめをする側の子どもたちは、こうした特性を
相手から敏感にかぎ取っていたずらや嫌がらせ、
時には暴力などをふるって、自分の優位性を満足させている。
心理学的にみれば、いじめられる側・いじめる側とは
紙一重でいつでも役割が交代する可能性があるという。
つまり子供の時代は”いじめられる側”だったが、成人
してからは”いじめる側”に変わったりする。
その逆もまたあり得るだろう。
なぜなら、こうした’いじめられやすい資質’は実は、
いじめる側も心のどこかに持っているものだから。
上にあげた7つの特質は裏を返せば、いじめる側の
子どもたちの特性でもあるということだ。
ただし、表面にはそうは見えないし、気がつかれないから、
”本来は” という但し書きが必要だろう。
本当はいじめている側の子供たちも“寂しく、自分に
自信がない”ほど、弱弱しい部分があるからこそ、
そういう資質を持った子供に対して”いじめる”と
いう行為で、その弱弱しさをカムフラージュしていると
いえそうだ。
これもまた‘類は類を呼ぶ法則’で、似た者同士が
ひきつけられといえる。
つまり、いじめる方は、自分を認めてもらえない寂しさ
の代価として、やはり自分の価値を知らない
“いじめられる方”にかかわりを持ち、自分の観たく
ないその弱さに対して’いじめ’という形で反抗する。
いじめられる方の人間はいつも、びくびくしながら、
次のように言い聞かせ、自己防御をする。
“自分が目立ったら、こんな価値のない自分だからこそ、
きっと、だれかにいじめられるだろう”
“理不尽な扱いをされるのがおちだから、なるべく隠れた
ところで傍観者でいたい”
と後ろに引っ込むから余計に、“弱さ”が目に付くという
結果になる。
さて、どうしたら、もっと積極的で楽しい人生、罪や罰の
意識にとらわれないおおらかな人生観を
持つことができるのか?
それは、簡単なことであり、最も難しいことでもあるのだろう。
答え:“自分を愛してあげること”~抽象的すぎる。
ならばこう言い換えてみたら?
“自分が一番気持ちよく、リラックスして心地よい在り様を
選択する”
それがいつもうまくいくとは限らないのは知っている。
そう思ってそうしても、むしろ後味悪い想いしか残らな
いことがあるかもしれない。
何が後味悪くさせたのか少し反省すれば、もっとうまく、
自分が本当に欲しているものを理解してあげられるだろう。
その対象はきっと、自分が深まるほど、すこしずつ
変わってきて最初求めていたものとは異なること
があるかもしれない。
二つめは、“自分を責めない”ことが 大切なようだ。
三つめ、相手に思いやりをもつことは大切だが
“相手の感じ方を気にしすぎて、周囲に振り回されないこと”
実はこうしたことは自分が日頃気を付けていることに
ほかならない。
ややもすると、自分を責めたり、周囲にふりまわされたり、
本当に自分が心地よく感じられる条件を選択せず、
いつの間にか、ストレスが溜まっているということに
なりかねない。
そして、最後の最後に、一番大切なこと。
”自分が純粋な愛、無償の愛を受けるに足る存在である
と知ること”、~ と先人は教える。
自分が一番心地よい状態は、たぶん、物質的環境を
整えるのみならず、どんなに小さな行為でも
この”無償の愛”が現れた自分に触れた時かもしれない。
無償の愛を受けるに匹敵していないと思ったら、
逆に、その愛を ”与えるに足る心豊かな自分”
であることを信じたらどうだろう。
なぜなら、私たちは、本来神の子だから。
その時、恐怖心や恐れ、寂しさなどの念は、こうした
’豊かな心’になったとき、自然と消えるという。
病気も不幸に見える事柄も、実は、私たちの心の’
豊かな自分’を発掘するための、’体験なのだ’という
師の言葉を思い出す。
それが私たちの人生の最終ゴールに掲げられている、
目的なのだから~と。
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