自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

裸の王様と無心

2012年08月27日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

 防御する心

 

偶然はすべて必然であるということを信じている。

だから、今日 セラピーの3人のクライアントさん

口から出たある一つの言葉が 自分にとって、偶然の

言葉ではない、考慮する価値ある言葉なのだろう と 

感じた。

その言葉は 無心 という言葉だ。3人のかたがそれぞれ

の学びの体験の話しをされて、その気づきこそ、”無心” 

という言葉に要約されていた。

哲学的に宗教的にいろいろ話しは尽きないこの言葉だが、

もっと、現実的な私たち誰もが味わう そして遭遇している

そんな場面で その言葉は心の中にひらめいたそうだ。

もう少し、詳しく言えば、自分を防御するために その時為

すべきことが 見えなくなり、そのために、周りの人たちを 

結果的に傷つけてしまった”という内容が共通していた。

 


自分の防御というのは、別に武器を持って構えるということ

ではなく、自分に責任が無いよう、責められることがないよう、

あとで 巻き込まれないよう、あるいは単に無関心になって 

その事態にかかわらない態度を指す。

そのために、心のバリアーを貼らなければならない

 

それは自分自身にも思い当たるふしがあり、省みることになった。

バリアーを 意識的でも無意識でも、心に引いたとき、周りの

状況が良く見えなくなる。

布を頭にかぶせて外を見ても、見えずらい。 

その布が厚ければ厚いほど、遮断される。

 無関心になることで、有る事件にかかわらないように、防御する

ということは意識的に周りを観ないということ。

だから、防御した心に、思い込みが入ると、余計、

コトが複雑になるらしい。

楽天的な思い込み、つまり、相手は自分に敵意は

いだいていないと思い込んでいるのなら、特に さしあたって、

問題はないかもしれない。

 

反対に、相手は自分に対して、怒りを持っているかもしれない、

傷つきたくないという恐怖心が 心のどこかにあると、

遮断されている分、さらに、誤解が深くなることになる。

たとえば、相手が 手をあげているだけで 自分を、叩こうと

している、とか、危害を与えるのではないかと 感じる。

 

防御もなく、周囲に対して、思い込みもなく、ありのままの

状況をあるがままに、見据えることができるとしたら、

それが、無心になっているときかもしれない。

 

無心になとき、それは、ある意味、本来の自分が、一番

リラックスしている時かもしれない。

無心の心の眼は、ちょうど、幼子のように、本当 が

判る心でもあるだろう。

裸の王様の童話は、きっと、そんな 無心の童子と、防御

された大人達との、対比のお話しなのだと思う。

 

王様は 特別の透明の高価な衣装を しつらえさせた。

そして、裸の身に ”それを” 着て、 意気揚揚と自信

持って、町を歩く。

家来は絶賛する。

”素晴らしい、お洋服でございますね。”

ところが、王様を観た、小さな男の子が叫ぶ。


”あ、王様は裸だ!!”

こうして、バリアーを持った心は、本当の事を本当と

いえず、その場で 自分を守るための 行動をとらざる得ない。

皆がそうすることで、そこには、喜劇とも悲劇ともいえない

芝居が 展開する。

素直な子供は誰の心にもいる

大人になっていても、そのこどもの心は 必ずどこかにある。

バリアーで覆われていても、厚い布に覆われていても、必ず、

心の中に存在する。

大人になるにつれて、王様の機嫌を損なわないように、

”素晴らしい洋服でございます。お似合いでございます、王様” 

と賞賛しなければ生きていけない場面は増えていくだろう。

 

確かに、この世は、真情に覆いをして、生きていかなけれ

ばならない、ママならぬ世の中だ。

 

透明の服 というのは、現代的に言うのなら、実態のない、

言葉、約束、のようなものかもしれない。

話しはだいぶ飛ぶ。

原子爆弾に関する拡散防止条約に対して 我が国は、核体

験国として、賛成はしていても、”いかなる場合でも使用しない”

という、文言に、ひっかかって、原子爆弾の使用を認めない

という、文書には、署名をしないという、ニュースを観た。

 

日本政府も、そうなると、裸の王様と似ているかもしれない

と思う。

自分たちは 広島。長崎の体験をもとに、世界平和を願う

という言葉。

と同時に、”核(核の傘)がこの国を守っている” と考え方。

 

自分達の国を防御するために、核の不使用 という概念を

布で覆い、とりあえず、見ないようにする。

そこには、矛盾が、無いのだろうか?

”結局、裸の王様の服と同様、実質の無い言葉で、平和を

かかげているのか?”

と、無心で純粋な子供たちに、疑問をもたせることが

無ければいいのだが・・・

 

 


 


                                                                                            

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