自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

お悔やみの言葉の価値を知る

2017年12月29日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

形式だけの言葉と思っても・・・・2017・12.29

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喪主として母を送って翌日から市役所・銀行・ガス水道電話・

法務局・税務署・司法書士事務所なとど、連絡を取って多く

方たちと接している最中だ。

 

その中で、気が付いたことがある。

大体、電話にしろ、直接の応対にしろ、まず、

母が逝去しましたので解約の手続きをお願いしたい云々”と 

要件を切り出す。

この数日間に、少なくても20名以上の職員さんや担当者の

方たちとお話をしたが、その中で、

それは御愁傷(ごしゅうしょうさま)です”という意味合いの

言葉を投げて下さったのは、ほんの、2名だった。

 

わずか、2秒ほどしか費やさない、この言葉だが、なんと大きな

意味合いを持つのかと改めて実感することになった。

役所や会社の中だから、特段、顔見知りでもない人の親が

亡くなっても、特になんの情感が

あるわけがないのは承知している。

お悔やみの言葉なしに、事務手続きにすぐ入るのは通例である

ことはわかっていたが、この一言を聞いた時は、なぜかホロっ

とするものがあった。

 

対応してくれている方の心の余裕と、相手への思いやりの

2点を汲むことができた。 こちらも悲しみに浸っている感傷的な

余裕はなかったが、やはり、心の奥底に空いた穴をこうしたほんの

一行のねぎらいの言葉により、思い出されたり、癒してくれる

ことを感じた。

 

葬儀の翌日、定例にしていたあるクラスに 敢えて、心の

転換をはかるために参加した。

思いがけず、教室で心がゆるみ、一番後ろの席で、ひそかに

こらえながらも、涙が止まらず、鼻も噛み続けていたところ、

エジプト人の先生がそっと、後ろに回って、日本語で、

”大丈夫、大丈夫”と言いながら、肩に手をまわした。 

先生も泣いておられた。 

 

母の存在は、イスラム教では特に、大切な位置づけをされて

いるだけに、理解を示し、情感を共有し、突然の場を取り乱し

かねない空気を言葉と態度で受け止め、やさしく包んで

くださった。

 

何気ない一言、”お気を落とさないでくださいね。” とか 

そのような大変な時にお電話いただき恐縮です”とか、

お寂しくなりますね”とか、常套句(じょうとうく)では

あるのだろうけれど、少なからず、親を失った直後に聞く

とき、心に響く言葉であることを実感した。

 

以前、同様の場面で、逆の立場にいた私は、なかなか、この

形だけに見える言葉”を家族を失った知人に投げかける

ことは少なかったように思う。

すっと自然に口にそうした言葉が あがるほど、世慣れして

いないせいもあったかもしれない。

が、今思えば、他に理由があったような気がする。

 

付け加えるのなら、親族親戚間でも同様のことが言える

ように感じた親類に母の逝去の知らせを 亡くなった当日、

すぐsmsで送ったとき、叔母の1人が

~さんに連絡しました?”と 訃報の知らせに対し返答を

送ってきた時には、さすがに違和感を感じた。 

従弟の1人は、即答で、”それはご愁傷様でした”と短く

対応してくれた。

 

考えれば、”ご愁傷さまでした”と使うときはごく身近の家族を

失ったときに限られるような気がする。

従弟のこの短い言葉は、早朝、インドから着いた直後の

成田から帰宅路途中のバスの中で親戚に送った母の訃報の

お知らせの最初の返信でもあった。 

相手の心が伝わった。

同時に、実感の伴わない、母の死を現実として、この言葉で

受け止めた。

 

葬儀の席で親族と控室でご挨拶したり、弔問の際、受付付近

で頭を下げたりしたが、この常套句は、なかなか、耳にすること

はなかった。

たぶん親戚で近しければ近しいほど、形式ばった言葉のようで、

なかなか、口に出しがたいのかもしれない。

御1人だけ、前列 喪主席に座っていた私の顔を覗き込まれる

様に、お焼香をすまされ、通り掛けお気を落とされずに、

気丈夫にいらしてくださいね”と言ってくださったその時の

お顔と言葉は後々まで鮮烈な印象として残った。

 

そのタイミングが絶妙だった。

読経を聞きながら、意気消沈していた姿の私に対して、その行為

自体が突然にもかかわらず、自然であっただけに、心からの言葉

として私の胸に直接入ってきたからかもしれない。

 

心の応対、心の対応、心の受け取る情感、こればかりは人間

である以上、国境を越えて、性別を超えて 共通するものが

あるのだろう。

白々しく聞こえるから~という理由で、常套句を避けていた

私自身 大いに反省する場面でもあった。

 

余計なことだが添えさせていただきたい。

このような記事を書いたのも、まず、手始めに母逝去のあと、

連絡を毎日頻繁に取り合っていたのが葬儀屋さんだったら

かもしれない。

さすがに、徹底した葬儀の専門家としての教育を受けて

いらっしゃるせいか、電話応対を始めとして、言葉の隅々に、

気をつかった言い回しを選んでいらっしゃることが

よくわかった。

 

葬儀が済む間の1週間、お世話になったのだが、いろいろと

勉強させていただいた。

言葉のトーンから始まり、”てにをは”の助詞の使い方から、

遺族への思いやりと気遣いの対応、すべてが完璧に近いもの

だった。 

悲しみ に沈んでいる人の心に届く言葉というのは?

 

このことを考えさせられる背景になったかもしれない。

 

 

 

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