自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ユングの”無意識論”から、”色即是空”の断片を想う

2018年02月03日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

無意識にスポットライトを当てたユングの独自論

****************2018 .2.03

 

前置き)

母の死を昨年暮れ体験し、母の安らかな眠ったような最後の

表情を観て、昨日まで生きてた母とどこが異なるのか? 

意識がないということは、どういうことか? 

意識とは何か?と疑問がわいてきた事に 今日のブログ記事を

書くきっかけがあったように思う。

 

手元に ユング著”Analytical Psychology:Its Theory and

Practice" の日本語訳がある。

これを訳した人は小川捷行(かつゆき)氏だ。

1988年に第14刷として発行されている本なので、

すでに25年以上前の本である。

この本の序文(日本語)に小川氏は次のように書いている:

今では、むしろ、学者は’魂’のことを口に出すとき、

顔を赤らめねばならないのではないだろうか。 

現代という時代は魂を抑圧している。”

 

この’顔を赤らめる’という言葉の裏には、歴史的推移がある。

たとえば、心理学者フロイトがは人間の心を抑圧しているのは、

“性”の問題だと定義した。

ゆえに、心理療法において、’性に抑圧された意識の部分を開放

すること’が大切であると説いたとろ、当時の学者たちの波紋を

呼んだ。

’その時代に残る、タブー、つまり、性’の問題を公に口にだす

ことは、恥じらうべきと、’顔を赤らめる’ことと、されていた

風潮に逆らったからだった。

 

しかし、次第に、フロイトやユングによって、精神分析学が

盛んになり、アメリカを中心にカウンセリングという方法が一般的

になり、フロイト流の心理療法は違和感がなくなった。 

一方、ユングは ’人とは何か?’ という疑問をに対しては、

’魂の問題’抜きに語れないとして、学問的に魂の問題を扱う姿勢に

徹したことは、勇気あることだったと推測する。 

それが、現代に至って、ユングへの高い評価の一要因になった

だろう。

なぜなら、科学的アプローチにとって、魂的問題 を扱うことは、

危険を伴うと、一部の学者たちの間から、ユングの理論は敬遠される

という背景があったからだ。

 

今から半世紀以上前は’哲学と心理学’を結びつけることさえ挑戦

としてとらえられていた時代であった。 

その風潮の中、ユングは批判を浴びながらも、人間の心と体に

一貫性があること、また、心の無意識の領域を多角的に探ること

を貫いた。

こうして、哲学と心理学を結びつけたユング独自の考え方は、

心に科学的アプローチを試みと評価されて、後世に多大な影響

を与えた。

ユングは彼独特の 哲学と心理学を結びつけるための、アプローチ

大きく二つのテーマに分けた。


①~無意識の心の構造とは?その心の内容とは?

②~①の内容を探るための3ツの手段

(’言語連想法’、’夢分析’ ’能動的想像’)を試みた。

 

 

哲学者のカントは、’無意識は世界の半分を占めている’(*1)

と述べているが、私たちが自分で意識して考えて行動する~

と思っている、どの程度が本当に自分自身の決断であるのか? 


ましてや現在意識というのは、氷山の海面に現れている一角に

すぎず、隠れている部分は無意識の領域だということならば、

ふと、思いついたり、急に気がめいったりするのも この無意識

の投げかける刺激が、原因なのではないだろうか?

意識 と 無意識、もちろん、生きている人のそれではあるが、

ユングはこれに関して次のように、レクチャーで述べている:


”われわれの人生の5分の一、あるいは三分の一、おそらくは

2分の一さえもが無意識の状態のままで費やされています。” 

さらに、

”(これまでの一般的観方とは異なり)

私は、逆に置き換えたいのです。

明らかにはじめに来るものが無意識であり、意識はまさしく無意識

の状態から生ずると言いたいのです。

児童期のはじめは、無意識の状態です。 

本能的な特質の最も重要な機能は無意識であり、意識はむしろ

無意識の産物です。”


この意見はとても、東洋的哲学の匂いがする。

たとえば、仏教哲学では、空 が本来の物質の姿であり、空 

から現象が生まれていると説く。(諸説はあるとは思うが・・) 


イラクの地に発展したシュメール文化では、何もないとされる、

間(くうかん)を渦巻くエネルギーが物質を顕現させていると

考えられている。


ユングが言う、無意識とは、’はじめの児童期の状態’である、の

だとすれば、ユングのここでいう無意識は私”という’

我の認識’が発達する以前の意識でもある。 

その漠然とした、小我意識の発達する前の’無意識’が、’意識’を

生み出すというのは、空 というまだ個別化する以前の

エネルギー状態から物(色)が生まれるのにも似ているようだ。

 

さらに、私の心に、もう一つのイマジネーションが膨らむ。

それは、修行や練習を積み上げて、人間国宝級の達人といえる

人の意識だ。

彼らの動きは、無駄なく、美しく、的を得て、芸術でも

職人でも、武道でも、’迷いはない’ ほど効果的に、”的を得て

いる”気がする。 

しかし、それらは、意識を超えて’無意識の動作’になっているのだ。 

たとえ、どんなに激しく厳しく時間をかけ努力し修行をした

しても、それらの成果は達人の無駄のない 美の極致ともいえる、

簡潔で最大の効果を与える実技の中に溶け込み自然の動きとして、

身についてしまっているようだ。


自然の動作、つまり、力をいれない、’無意識’の中に、意識的な

努力の賜物は影を潜める。

無意識の動作だからこそ、自然で美しいし、力が入っていないから、

きわめて無駄なく、強い効果を生むのだろう。 

達人の所業は、’無意識’の’究極の意識’ともいえるものかもしれない。

 

まさに、無意識から生まれた意識は、最大限の意識を通過して、再び、

無意識に戻る。

そして、演技や技、スポーツや芸術 などの分野で’結果’として形に

残すものを生み出す。

意識と無意識の関係は、深くて面白いと思う。

私たちも、生きている間、意識的にいろいろな感情を体験する。 

酸いも甘いもかみしめて~といったところだろうが、死ぬときは、

それらが熟成して、別の安らぎに昇華していくかのようだ。

 

 

 

 

 

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