自然治癒力は芸術作品と同じ~非対称を見直そう。
2017.6.25
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今日の記事は”生きていること矛盾だらけ、それでも進む 前向きに”
というタイトルで、2015年7月31日に投稿したものをベースに書き
換えています。
生きているというのは、躍動、動いていることだ。
心も体も生きている証として、寝ていても‘動いている’、
自律神経が心臓を動かせ、脳では夢の世界を提供している。
そして、動いている限り、必ず、そこには、誤差が生じる。
自然界を見ても、無機質の機械でさえ、動き続け、そして、
誤差が生じ、アンバランスが生まれ、壊れたり、破損したり
している。
私たちが平面の図面でコンパスを使って描く完全な円も、動き
ながら造ると、どんなに正確に動いても、多少のほんのわずか
でも歪みを生んでいるという。
今日のテーマはこの アンバランスな歪みが自然治癒力でも
大切という話。
左右若干の歪みがある場合、それはアシンメトリー
=不対象といわれる。
不対象 であるのは、不完全か?といえばそうでもない。
生命的、躍動的な動きを示すためには、むしろ、不完全
でないと、心を打たない。
躍動的だから美が生まれる。
たとえば、芸術で言えば、生け花の極意も 左右不対象
に生けられた空間(間合い)によって決められる。
西洋の壮大な建築物はほとんど、左右対称に作られるが、
法隆寺などの仏塔の並び方や日本庭園などは、むしろ、
左右不対象で物体との間にある、空間で、奥深い味を
演出している。
有名なレオナルドダビンチのモナリザの絵も、彼女の
口唇の端はわずかな角度でずれているといわれるし、
ギリシャ彫刻のヴィーナス像にしても、顔の部位は
それぞれわずかに左右歪みがあるという。
その歪みやブレが 生きているような躍動感や生命感
を人に伝える。
歪みといえば、原子の世界でも同じで、1957年
中国人の物理学者 李政道らが コバルト60の原子核
から出る電子は S極から出る電子のほうが、N極から
出る電子より多いという実験結果を得て、のちに
ノーベル賞をとっている。
原子の世界でも左右不対象であることが証明され、自然界
や宇宙スケールの観方でも、アシンメトリーの規則を
科学的視点からも、無視できなくなったようだ。
ベルギーの物理学者 イリヤ・ブリゴージンは1977年
ノーベル化学賞を受賞し、次のような言葉を残している。
“宇宙の起源が大きな爆発(ビッグバン)で始まったとしたら、
宇宙は単なる花火だ。
自然界はビッグバンで説明がつくほど、簡単単純ではない。
近くに寄れば寄るほど、複雑な世界がみえてくる。
その複雑で豊かな想像力にあふれた宇宙ではすべてのものが
流転する。
そう考えると、確率の法則など、冗談にもならない。
本当の世界はもっとデリケートだ。
法則もあれば、例外もある。
時間もあるが永遠もある。
世界を自動装置の機械とする考えは古い。
古代ギリシャの発想に戻ろう。世界は結局芸術なのだ。“
法則のみで問題を解決しようというのに無理があるのは
人の体も同じだ。
上記の言葉の中で、”ギリシャの芸術”とは、何なのだろう?
躍動を現す、わずかなアシンメトリ―がアンバランスの
中に美をもたらし、動きをだすことで、絵や彫刻が、
より生命的に感じられるというその美的感覚を取り入れた
芸術にほかならないだろう。
一方、左右対称の差が大きくなればなるほど、不安定感
は増すのも事実のようだ。
あるところまでは 芸術的アンバランスが鑑賞されても、
それ以上崩れると、単なる駄作になってしまうから面白い。
心に訴えかけるには、アンバランスの割合も大切なのだろう。
千島学説の研究家 枠山紀一氏はその著(*1)で10項目を
挙げている。
中でも、
“すべての事物は矛盾対立を内包し、その葛藤が進歩や
変化の原動力となる”
さらに、
“生命の形態はアシンメトリー(左右不対象)である。”
というのがある。
“生命の形態”とは、言い換えれば“大自然の形態”とも
いえるだろう。
電子の小さな極点の形態から 宇宙のしくみにいたる
まで左右不対称、陰陽のエネルギーが上手にバランスを
取りながら全体として平衡状態を保っている~という
ことのようだ。
分かりやすい例を言えば、
私たちが歩くとき、右足に全体重を預けるとき左足は
上に上がっている。
左足を前に一歩進めて、それから右足を挙げれば左足に
全体重がかかる。
こうして交互に 左右不対象の動きを続けることで
前進できる。
だから、“生命は動いている”というのも こうした
“足で前進する動き”に似ているのかもしれないと思う。
歩き続けていても、ふと、立ち止まることもある。
途中でくたびれれば、休むこともある。
立ち止まれば左右両足に体重は二分されてかかり安定する。
それでも又、時がたてば ダイナミックなアンバランス
行動を無意識に始める、つまり、歩き出す。
完全にバランスが保たれたとき、平衡状態になったとき、
それは肉体の死を意味するだろう。
ヴェーダ哲学でもいうところの、総ては一(ひとつ)に帰結
するという、一の意味は、生命の原点をさす。
冒頭に例を出した、コンパスで円を書くときの、コンパスが
当たる位置をさす。
それを、“ひふみ神示”では“一が動いて二になり、何かが
生まれる三”になるというような表現をしている。
一、二、三、という数は 生命弁証法にとっても、象徴的だ。
もともとすべては一である。
一から始まる。
それが二つに分裂したかのように見える。
(かのように見えるというのは 生まれた二つのものが別個
であるという勘違いに基づく)物理的な意味ではなく、
ここでは精神的な意味で使っている。
そうすると、二つの相反する価値観が生まれる。
美と醜、善と悪、などなど・・
今、二極化された精神世界の中で 私たちは無意識のうちに
‘好きか嫌いか’、‘良い感じ、悪い感じ’、‘できるかできない’、
‘楽しいか苦しいか’などなど・・・二つの価値観は、今の次元
この二極化された価値観が、ある意味必要で、アンバランス
の中の、前進を生む役目をするのだろう。
そう考えると、私は 今の私で良いのだろう。
人とは違っていてよいのだろう。
批判されても、仕方がない。
その人の価値観と違うのだから。
私は欠点だらけと言われても、気にすることはない。
アンバランスな人と思われていても、それは当然だ。
生命も同様で、生物の中の矛盾対立とよばれるように、
完全な平衡状態はあり得ることではなく、多少なりとも
どちらかがより力を持ったり、無くしたりして、生体は
保たれているようだ。
風邪をひくのもその一つ。
”矛盾対立“が存在していて、それが風邪の症状を引き出す、
引き金になる。
体の中のアンバランスが崩れて、より良い平衡をつくろうと、
熱や鼻水、咳や痛みが伴う症状が現れる。
これこそ、体の自然治癒の働きの一つと、生体を知る人
は考える。
クライアントで膝小僧に水が溜まって心配している人がいた。
セラピーで体の有機的つながりが正常になると、この
アンバランスがほどけて、足の異常は消えた。
癌患者は腹水がたまる。
末期的症状といわれる。
これも、考えてみれば腹水をためて、芯の体温が上昇して
いくのを下げようと生体の自然治癒力が必要性に応じて
働いているからだ。
私たちは症状が出ていると、即座に”どこが悪いのだろう?”
と不安になる。
その時、生体はこうしてアンバランスを創りだして体を
整えようとしているのかもしれない。
生体の仕組みは、研究室で研究を重ねても、わからない
ものだ。
物理的法則は試験管内では100%外れはないだろうが、
生命となると、プラス@が必要になるから、そう簡単
には理論どおりにいかない。
むしろ、体は 物理的法則を取り込みながら 独自の
“生命法則”をつくりだしている。
たとえば、外科手術で片方の腎臓や肺臓を切り取っても、
片方が大きくなって、その不足を補う。
眼の視力が失われた人は、他の器官の感覚が、その分
発達していて、正常の人以上に、回りが見えていること
も考えられる。
こればフラスコや試験管の中では知りえない生命の法則
の一つだろう。
自然治癒力というのは、まさに、この生命の法則の
最たるものといってよいだろう。
アンバランスを、いろいろな意味で味わい、生きて
いけたら、心身ともにだいぶ楽になるはずだ。
(*1)“ 蘇る千島学説 ”2004年 なずなワールド発行
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