自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

永瀬先生を偲ぶ~アカデミー俳優の演じる映画のキーパーソンとして

2014年04月19日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

かつての敵は今の友~贖罪がもたらした愛~    2014・4・19

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前書き)この記事は直接、自然治癒力セラピー協会とは

関係がありません。ただ、この記事の中の 永瀬隆先生は、

私ども夫婦に大きな影響を及ぼし、世界の平和、異文化の理解、

戦争の空しさ、人間の素晴らしさなどを、身を以て示して

くださったことで、皆様にぜひ、ご紹介させて戴きたいと思い、

この記事をあげました。

 

  

永瀬先生を変じた俳優真田氏                     

 

この映画は1995年 ’エスクァイア’誌で、ノンフィクション大賞を受賞した

エリック・ローマクスの自叙伝”The Railway Man"をべ―スにしている。

イギリスで75万部が売れベストセラーとなり、英国において、戦後の傷跡

にどれだけ多くの達が関心を持っていたかをうかがわせる。

 

死の鉄道と言われた タイメン鉄道建設には6万2千人のイギリス軍など

連合軍の捕虜たちと、それ以上のアジア人労務者たちが携わった。

 

鉄道の枕木一本に一人の命がかかっていた”といわれるほど一本ごとに

一人の命が犠牲になったことで知られ、過酷で不当な労働を課せられ、

1万5千人の捕虜たちが亡くなった。

 

捕虜たちの 痩せこけた姿(当時捕虜に捕られていたローリング氏の筆による)

 

当時の捕虜で戦争画家となったレオ・ローリング氏(*1)は自らの著書で

”病気で死ぬというより、十分な休養や栄養を与えられず、

過酷な労働によって、死に至るケースが多かった”と記している。

そこで行われた拷問は、”真実を吐かせるため” のそれでもなく、

”罪を罰するため”のそれでもなかったようだ。

 

敢えて言えば、”いたぶるための拷問”、そこには人間性のかけらもない、

非情なものであったことが、ローリング氏の記述や、”レイルウェイ~

運命の旅路”の映画からうかがい知り得る。

 

コレラ、マラリヤ、その他熱帯性潰瘍などで死の寸前の病人に対して、

ローリング氏は、わずかでも人間の情を感じられる心遣いがあれば、

日本軍に対してこうも憎しみが募ることもなかっただろうと語り、

以下のようなエピソードを挙げる。

 

病めるもの、負傷した者から先にジャングルの木々の伐採へ行け!” 

と 日本軍の兵士は、無情に命令し、”邪魔者でしかない、そいつらから

天国に行かせてやるのだ”と 日本軍の軍曹が叫ぶ。

 

”レ・ミゼラブル”の映画の冒頭のシーンを、ご覧になった方達も多い

だろうが それに似た、否それ以上過酷な現場だったと推察する。

まさに、捕虜たちは、奴隷同様。奴隷以下だったかもしれない。

奴隷は人間としてみなされるが、彼らは’犬畜生’の扱いを受けていた

と感じていたからだ。

 

若き誇り高い知性にあふれた、イギリス軍戦士たちは、心身ともに

ずたずたにされ、人間以下の尊厳の無い仕打ちを受けながら 大切な、

アイデンティティーすらも失っていく。

こうした、日々を克明に ローリング氏はわずかな素材を生かして

命がけで記録絵に残した。

 

映画の中で、ローマクス氏役のアカデミー賞俳優コリン・ファースは 

妻にも語り得ぬ苦悶のカンチャナブリでの思い出と、そこで受けた悪夢

のようなフラッシュバック体験で戦後数十年の間、苦しみ続け、妻をも

巻き込むほど不安定な情緒で悶々とする日常生活の一コマを事に演じている。

 

 

強制労働所に向かう、カンチャナブリに着いた英国兵士、その実態に驚きながら・・・

 

ローマクス氏同様、タイメン鉄道で友人たちの死と自らの死の境を

見続けてきたローリング氏は言う。

 

”私自身、あらゆるものを神の意思として、受け入れ生活するのは、

ただ敗北と絶望、つまり死につながるだけであるという実例を

数限りなく見ている。

 

多くの友人たちは別に致命的でもない病気で死んでいる。

かれらは自己の意志力を信じられなったので死ぬ前にすでに屈服して

しまっていた。

そして、生きながらえた者はかたくなにも、全力をあげて、生に執着

して苦悶しながらも、病苦と闘った人である。”

 

ローリング氏にとって生きるとは”精神をいかにしてコントロールするか”

ということだった。

 

  パトリシア夫人

 

パトリシア・ローマクス夫人はこの映画のために来日。

4月11日付の朝日新聞夕刊で ジャーナリスト鳥越俊太郎氏との

対談で次のように述べた。

 

”日本の方々、特に若い方達にこの映画をとおして、過去のことを

ちんと知ってほしいと願います。

何が起きたのか、どうして起きたのかを学ぶことで、これから戦争が

起こらないように繰り返さないように前に向かって進んでいける

でしょうから。”

 

 

鳥越氏は、

”人は戦争で人を殺したり、拷問したりという非常に残酷な面を

もっているにもかかわらず、憎しみあった人達が赦しあうという

崇高な面も持っている。それが私たち人間だということ・・”

と語る。

 

ローリング氏の著書から~”となりの男は死んでいる・・私の彼の分をくれ”

と食糧配給時に乞う捕虜の絵

 

鳥越氏の述べる、”崇高さ”を、元連合軍捕虜の日本人に対する憎しみの

心から引き出したのが 永瀬先生の苦しみぬいた”謝罪の念”だったと思う。

 

戦後の永瀬先生の戦後の人生は、日本軍とともに自らがかかわった、

捕虜への非人道的行い への謝罪表明を常に発信しながら、

憎しみから友情”を芽生えさせる活動にすべてを捧げた。

 

永瀬氏の功は 平成17年認められ読売国際協力賞を受けた。

これは国連に貢献した緒方貞氏についでの、受賞になった。

しかし、先生にとって、そのような国際的栄誉も、それほどの

大きな意味をもつものではなかったようだ。 

 

通訳として戦争にかかわったにせよ、虐待現場にいた日本人

一人として、まだ戦後の処理が終わっていないことを痛感し

続けていたからだ。

 

   

自ら建立した平和寺院で冥福を祈る永瀬先生の後ろ姿

 

永瀬先生の贖罪の深さは、タイ訪問135回という数字に裏付けられている。

その間、キリスト教信者だった先生は頭を剃髪し、仏門に入り僧侶の

資格をとり、カンチャナブリのクワイ河の鉄橋のそばに小さなお寺

(平和寺院)を建立した。

 

連合国捕虜たち、アジア人労務者たちの 鉄道建設時に病や拷問で亡くなった

御魂を祀った。

何故、そこに建てられたのか、お聞きしたら、仏教国のタイ人は ここなら、

通りすがりにでも、手を合わせてくれるだろう。

ここなら、観光客や地元の人達が多く、往来するから。”とおっしゃった。

 

先生のモットーは ”自分の行為は自分で責任を取る”、そして、”与えられた

恩には感謝を持って報いる”という二つであった。

タイ人の子供たちへの奨学金制度を設けたのは、当時タイ人が捕虜や日本人

兵士たちに温情をかけて、世話を焼いてくれたことへの恩を忘れないため、

またその感謝の顕れだとも聞いた。

 

 

まさに、”戦争がもたらした悲劇”と片づけられようとしている個々の

捕虜に対しての責任を、戦争に関わったものとして”自分で責任を取る”~と、

言う姿勢を貫き、一人で黙々と行動に移された。

 

イギリス元連合軍捕虜の方達を日本に招待して、贖罪し、憎しみを消して和

合ある人間関係を構築しようと奔走された人生でもあった。

 

国家とは二つの側面を持つ。

権力機構としての国家、政府であり、もう一つは国民共同体としての国家。

前者は英語ではstateと呼ばれ、後者はnationと呼ばれる。

 

永瀬先生は、stateとしての当時の日本国家(政府)の過ちを個人として自覚し、

そこにできた人間と人間の間の溝を埋めようと人生をかけられた。

戦争が残した心の奥の深い傷が癒えるためには 憎しみを愛に変えることしか

方法はなかったのだ。

それを実現することが、永瀬先生の人生の唯一の目標でもあった。

 

永瀬先生の意思を次世代に引き継ぐために、記念館の構想が現実にタイの

カンチャナブリで動き出している。

平和基金の責任者も満田康弘氏(*2)に引き継がれた。

満田氏は、永瀬先生の活動を1994年から取材して、ドキュメンタリー番組

として多く発表している。

それを本にまとめて、”クワイ河に虹をかけた男”というタイトルで出版

されている。

  

憎しみから愛へ~ 言葉では平坦だが、その道のりは長く、一生を

かけて到達できる人もいればそうでない場合もあるかもしれない。

戦争にかかわることのなかった私たちにとっても、生きていくうえでの、

共通したテーマであることには間違いないだろう。

 

 

 

 

 *1)レオ・ローリング (1918~?)

英国バーミンガム生まれ。

第二次世界大戦では英国各地に駐屯中、肖像画や将校食堂なd

戦場の画家として腕をふるった。

粘土や植物の汁を使い、シンガポールで捕虜になったとき、

中将ルイス・ヒース卿から将来戦争犯罪裁判の証拠として記録

として戦争絵画を残すよう私的に命じられ、ジャングル収容所で病身

だったときに描かれた。

完成した絵は、古いストーブのパイプで自作した容器に入れて、ベッドの

下、地中にうずめて隠した。

1945年終戦後、何回か英国各地で展覧会が開催された。

戦争のための慈善事業に賛助して出品されたとき、2万ポンドの募金が

集まった。

1958年 リバプールのラッセル卿が”武士道の騎士たち”を発刊。

その際、ローリング氏の絵を8ページにわたって掲載。

1964年、ようやく、戦中から崩していた健康も戻り、

講演活動も始める。 BBC英国放送協会を通じて、放送もされ

コレクションの競売が行われ、絵画の多くは、英国戦争博物館に

よって、買い取られた。

 

*2) 満田康弘 

1984年株式会社瀬戸内海放送(KSB)入社。

主に、報道、制作部門でニュース取材や番組制作い携わる。

日本民間放送連盟賞受賞など、ドキュメンタリー番組で

受賞多数。                                   

永瀬 隆氏のドキュメンタリー取材を通して、まとめられた

”クワイ河に虹をかけた男”著者。

梨の木舎、2011年

 

参考書)

”泰麺鉄道の奴隷たち”("And The Dawn Came Up Like Thunder")  

 レオ・ローリングズ絵と文  永瀬隆訳  発行所:青山英語学院 昭和55年

 

 

永瀬 隆 (ながせ たかし)氏について)

1918~2011]1943年タイメン鉄道造作戦要員としてタイ国駐屯軍司令部に充用。

1964年からタイ巡礼を始める。以後毎年行う

1965年、タイからの留学生受け入れ開始

1976年、クワイ河鉄橋で元連合軍捕虜と初めての和解の再会を果たす

1986年、クワイ河平和寺院建立、クワイ河平和基金設立

1991年、ロマクス・パトリシア夫人から手紙を受け取る

1993年、ロマクス氏と再会

1995年、クワイ河鉄橋で第二回目の元捕虜たちとの再会

2002年、英国政府から特別感謝状授与

2005年 読売国際協力賞受賞

2006年、クワイ河鉄橋付近にタイ人有志による永瀬氏の銅像完成。

2008年、山陽新聞賞受賞

2009年、最期の巡礼に妻桂子さんと出かける。

      その年9月最愛の奥様他界。

2011年 永瀬隆氏  死去

 

 

 

 

 

 

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