スサノオの尊の暴挙と天照大神のお諭し 2015・7・28
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暴挙を辞めることのなかった
素戔嗚の尊に対し、天照大神が
どのような態度をとられたのか、
秀真伝えには次のようにある;
“ 其の後に素戔鳴尊の仕業
(しわざ)は味気(あぢき)なく、
天神地祗の御供田の苗代に
草の種を振り蒔(ま)き、
畔(あぜ)をこわすなり。
故に稲の実乘らず、また
御(み)稲(そろ)の新嘗
(にいなめ)の神御衣を織る
齋(いん)服(は)殿(との)に
汚物を投(な)げ入れ殿(との)
を汚すなり。
天日尊は勅宣りを以って
糺(ただ)されぬ。
素戔鳴尊の責(せめ)一人
(ひとり)に帰し身の置き処なし。
故に剣を提(さ)げて殿(との)
に昇(のぼ)り佇(たた)ずむ時、
各齋服殿の戸閉ぢぬ。
素戔鳴尊は怒(いか)りて
斑駒を逆(さか)剝(は)ぎにして、
殿の甍を穿(うが)ちて投げ入
(い)るる。“
身の毛がよだつような暴挙
がうかがえる。
天の神に供える稲穂の苗代
には 雑草の種をまき、
あぜ道を怖し、大事な新嘗
の祭りのための お衣装を
織る機織り所には汚物を
投げ込む。
天照大神は注意をされる
のだが、スサノオの尊は
自分ひとりを責めてをいわん
ばかりに馬を逆さにして
皮をはぎ、宮殿の屋根の
甍(いらか)をめがけて
投げ込むなどなど・・・
それだけにとどまらなかった。
” さらに 天照大神の
御怒りを誘うとどめは、
スサノオの尊が中宮の妹、
稚桜姫(和歌桜姫)花子内侍妃”
と続く。こうした諸行で花子内侍妃を
驚かせたうえ、機織りをしている
最中に躓き(つまずき)、命が
絶えてしまった事件が起きて、
天照大神は最後のとどめのような
お怒りをあらわにされた。
秀真伝えによれば、
“ 天照大神は怒りまして
素戔鳴尊に「汝は何ぞ
邪心を以って国を望むや」
と宣給いて、天成道を以って
蒼生を猶子と為す御歌を
製られ給うなり。
あめがした やわしてめぐる
ひつきこそ はれてあかるき
たみのたらなり”
この歌の解釈は
“(天(あめ)が下(した)
和(やわ)して運(めぐ)る
日月(ひつき)こそ
晴れて明(あか)るき
民(たみ)の親(たら)なり
意味は、~天(あめ)が下を
日月(ひつき)和合(わごう)
して運(めぐ)り昼夜を照らす。
潤(うるお)して万物を育成
する日月こそ、実(げ)に万民・
万物の君なり、父母なり。”
天下を正しく治める道
人の生きる道 天成神道
とはるかに 隔たったスサノオ
の尊の諸行に天照大神は
お怒りになり、上記の歌を
詠まれ、弟に対し自制心を
求められたのだが、スサノオ
の尊は反省するところか
益々怒り狂い、剣まで抜く
さまに天照大神は恐れられ
とうとう、岩屋に隠れられて
しまった。
“天(あめ)の岩(いわ)窟(や)に
入り磐(いわ)を閉(と)ざし
隠(かく)れます。”
そしてその時、光は消え、
天下は真っ暗に
なってしまった。
“ 時に天下は常闇(とこやみ)と
なりて昼夜(ちゅうや)の区別
(くべつ)なし。
安河辺の宮に在る思兼神は
驚きて、松明(たいまつ)を
持ちて忽ちに伊勢路
を上(のぼ)るなり。”
そこで、思兼命(おもいかねのみこと)
がこの事件を宮殿のある、
伊勢へと、知らせるために、
向かった。
多くの神々がこの大事件を知り、
協議をはかり、天照大神を
岩戸からどのような方法で外に
出てきていただくかと、策を
めぐらす行(くだり)である。
以下、どのように岩屋から天
照大神に出ていただいたかが、
書かれている。
“子の手力雄命は、伊勢より
安河の宮に告(つ)げんと、
松明に馳せる途中(とちゅう)
にて父子往き逢い、手力雄命
に質問をなす。
手力雄命は具(つぶさ)に
有(ある)状(かたち)を
説明せば、思兼神は八百万神
を集(つど)えて相(あい)
議(はか)り「高天原にて
天照大神の御出現を議り
祈らんや」 と曰す。
兵主命(つわものぬしのみこと)
が真(ま)栄樹(さかき)の上(かん)
枝(え)に、瓊(に)玉(たま)を、
中(なか)枝(え)に真(ま)写(ふつ)
の鏡を懸(か)け、
下(しも)枝(え)に和(に)幣(ぎて)を
懸(か)けて祈(いの)らんとなせり。
天(あめの)鈿女(うづめ)命等は
日(ひ)蘿(かげ)を手(た)繦(すき)
とし、茅(ち)巻(まき)矛(ほこ)
を持(も)ち逑を庭火として
焚(た)き、笹湯花をなしながら
神楽(かぐら)の祝詞(のりと)
を奏し、神明の憑(かか)りを
請うなり。
思兼神は深く思慮をめぐらし、
細女命等に常世の踊(おど)りと、
長(なが)開(さき)雄鶏(おどり)
を集め鳴かせて踊(おど)り舞(ま)い、
俳優(わざおぎ)の謡(うた)うなり。
香(か)久(ぐ)の木(き)
枯(か)れても匂(にほ)ゆ
凋(しを)れてもよや
あがつまあわ
あがつまあわや
凋れてもよや
あがつまあわや
諸神は磐戸の前にて祈り、
暁(か)花(し)表(ま)鶏(とり)を
鳴かす。
これぞ常世(とこよ)の長(なが)
開(さき)踊(おど)りと名付くなり。
天照大神は笑み給いて、
磐戸を細(ほそ)く開(あ)けて
窺い給えば、手力雄命は素早
(すばや)く磐(いわ)戸(と)を
持ちて投(な)げ捨(す)て、
大神の御手(みて)を取りて
天(あめの)岩(いわ)窟(や)の
中より出し奉るなり。
兵主命は岩窟の前に注連縄
(しめなわ)を張(は)りて
「勿(な)帰(かえ)りましぞ」
と奏す。“
いわゆる古事記にも描写されて
いる 神々が天照大神を岩屋
から出ていただくために、
お神楽の原型となった、
踊りを 天の細女命(あめの
うずめのみこと)が舞い、
天照大神が岩戸を少しあけて
その様子をご覧になろうと
したときに、手力雄命(たじからおのみこと)
が岩戸を力づくでこじ開けて
大神を外に出す 有名な
行(くだり)である。
こうして天照大神は岩屋から
出られ、世の中は再び明るく
なったが、素戔嗚(すさのお)
の尊はその罪咎(つみとが)
のために、宮中から
放逐されて 世捨て人の格好で
出雲までたどりつく。
そして、そこで 出雲の国
と称する、宮廷をもしのぐ
ほどの物質的に
豊かな繁栄をもたらす土台を築く。
さらに、秀真伝えでは
スサノオノミコトは
自分の業(ごう)の深さを
清算するために、ヤマト
タケルの尊に生まれ変わった
と、後の綾(あや)に書かれ、
仏教誕生以前の前にすでに
このような輪廻の考え方
カルマ(業)の認識などが
超古代日本にも存在して
いたことが 興味深いところだ。
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