自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

悪戯な幼少期クリシュナの逸話のABC(ご紹介)

2023年12月17日 | 健康と直結する”一元論”について


付記::::2023年⒓月17日
**********************
ヴァカバッド・ギータは、インドの古代聖典の一つです。
といっても、ヒンズー教の教義の聖典だけではありません。

ギータには、世界最古の哲学、ヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ(当時の王族で
あり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉にちりばめられているからです。

ギータの舞台はまさに、インドの黄金時代が衰退し始めてきたころ。

主人公は、クリシュナ神と、アルジュナと5人の兄弟たち(パンダヴァ兄弟)
です。彼らは、同族でありながら、敵対関係になり、闘いあうのです。

ギータが入っているMahabharata(マハバラータ)という一大叙事詩には、 
クリシュナ神が生まれる前から、3代にわたっての物語が、描かれています。

つまり、バガバッド・ギータは、”Mahabharata” という、18巻からなる 
叙事詩の一部であり、ギータが 小ヴェーダと呼ばれる所以もこのギータに
あります。

クリシュナ神がアルジュナに語る言葉の端々に、にじみ出る その真理性に
よるのでした。

その真理性とは、”ADVAITA思想”といわれ、ヴェーダ哲学の根本に流れる
普遍的哲学です。
日本語では、(不二一元論)と訳されています。

クリシュナは、実在していたといわれ、政治の陰謀と策略の罠にかかった
クリシュナの父、国王、Vasudeva は、生まれたばかりの王子、クリシュナ
の命を守るために、ヤムナ川に隣接する、ブリンダバンに幼子を置き去りました。
 
その時、クリシュナを育てた養母が、Yasoda, 養父が牛飼いのNandaです。

そのあたりの背景をもう少し詳しくお話しすると・・・・

当時、ヤーダヴァ族と言われる豪族の頂点にたつ、王カンサは、多くの悪行
働いていました。

そこで、天上の神々は王カンサを打つべく、対策を協議し、ヴィシュヌ神
対して、 王カンサの妹、デーヴァキーの胎内に宿り、地上に生まれ出るよう、
願い出たのです。

そうして、ヴィシュヌ神の化身が、人の身体をもち、地上に誕生しました。
その名を、”クリシュナ”と命名されました。

ある時 悪党のカンサ王は妹のデーヴァキーと、その夫のヴァスデーヴァを
乗せた馬車に、御者として乗りました。

その都へ上がる途上、どこからか 「お前の妹、デーヴァキーの8番目の子が
お前を殺す」 という声が聞こえたのでした。

その予言に、恐れをなしたカンサ王は ヴァスデーヴァとデーヴァキーを牢に
閉じ込め、そこで生まれてくる息子達を次々と殺していきました。

デーヴァキーとヴァスデーヴァ は 7番目の子バララーマ と 8番目の子、
クリシュナが生まれると直ちに 皇子たちの命を救うために智慧を絞りました。
 
ヤムナー河のほとりに住む、牛飼いのナンダの娘 (同日に生まれた)と
すり替え、皇子2人をゴークラの町にかくまうために、牛飼いに預けました。

こうして、牛飼いの村で育った、クリシュナは、幼い時から その腕白さと
怪力を発揮し、後世に、彼特有のさまざまなエピソードを残してます。

たとえば、ミルクの壷を割る悪戯に、幼いクリシュナは、継母の ヤショーダー
大きな石臼に縛られました。

ところが、クリシュナは、その臼を引きずって、2本の大木の間にすり寄り、
その大木を倒すほどの、怪力を見せます。

また、ヤムナ川 に住む、竜王の カーリヤが悪事をなしたときは、クリシュナ
これを追い払いました。

さらに、インドラ(雷神)の祭祀の準備をする牛飼い達に、クリシュナは
インドラの代わりに、家畜や山岳を祭る事を勧め、それを見て怒ったインドラが
大雨を降らせたことがありました。 

その時、クリシュナはゴーヴァルダナ山を引き抜いて、1本の指に乗せ、
牛飼い達を その大雨から守ったと言い伝えられてます。

マハバラータ物語の中には、こうした、幼少期のクリシュナ神が。神としての
本領を発揮した逸話が、数々残されていて、絵画や彫刻のモチーフになって
います。

成長したクリシュナは、恋人のラーダと一緒にブランコに乗るのが、好きでした。

それが、’フルートを吹くクリシュナ神と、恋人のモチーフ’になり、絵や彫り物に
残されているわけです。



一方、カンサ王は クリシュナが生きている事を知り、すぐさま配下のアスラ達
刺客として送り込みました。
が、悉く返り討ちにされ、カンサは クリシュナとバララーマをマトゥラーの都
へ呼び寄せて 殺害を謀るも 失敗に終わりました。

ギータは、ヴィシュヌ神の生まれ変わりである、クリシュナ神が、パーンドゥ
家の5人の息子たちとともに、ドリータラ―シュトラ家の百人の王子たちと闘う
物語です。

ブランコに乗る フルートを持ったクリシュナとラーダ


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ヴァカバッド・ギータ インド聖典から(1)

2023年12月06日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)
”🙈見ざる聞かざる言わざる   2023年12月6日
*********************************
 

ヴァカバッド・ギータは、インドの古代聖典の一つです。
といっても、ヒンズー教の教義の聖典だけではありません。

ギータには、世界最古の哲学、ヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ
(当時の王族であり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉
にちりばめられているからです。

私は、これらの言葉は、すべての善き宗教の真髄に共通
すると考えています。

これから、御紹介するところは、ギータの2章です。 
 
背景からお話いたしましょう。
ここは、戦場です。
親戚同士の闘いが控え、緊張するアルジュナがいます。
彼は総大将にもかかわらず、これから繰り広げられる、親類縁者の
殺傷を想うだけで、士気がなえていくのでした。
そこで、自分のチャリオット(騎馬車)に同乗することになった
クリシュナ(神)との、会話が繰り広げられます。

敵陣には、自分の親類や師匠などの面々の顔が見えます。 
彼らに、刃を向けることに罪悪感がつのっていきます。
アルジュナ心は萎えて、戦う意欲を失っていきました。

ここで、彼の車(騎馬)に同乗している、クリシュナ神は、アルジュナ
に言葉をかける場面が、今日のそれです

”今、闘うのは 増悪の感情や、私利私欲からではない。
ダルマ(正義)とは、いかなるものか?
それを後世の人たちに、身をもって示し、規範になるために、
戦うのだ。

人には、アートマ という心の主体的主(あるじ)が備わって
いる。
それは、別名、人間の神聖なる本性、内在する神であり、生きと
おしの魂の別称。死んで消えゆくものではない。

殺し殺されという行為ですら、アートマを破壊することはできな
だよ。
だから、アルジュナよ、闘い、殺し合うという目先のことで、心を
折るな。” 

感情に揺れる心、
それが、人をアートマから離し、迷いに落とす、根源だと、アルジュナ
に、クリシュナはその仕組みをこう話しました:
 
 Look, my dear son of Kunthi! 
The senses touch the sense-objects, as per their nature. 

These sensory contacts give rise to the feelings of cold, heat,
 pleasure, misery etc. 
These feelings come and go, appear and disappear. 

They are transitory. 
My dear Bhaaratha! Develop fortitude.  
Bear them, unconcerned! 

Arujuna, you are a man of excellences! 
Remember, he whom the pleasures and miseries of life do
 not disturb and whose intelligence is firmly established in 
the constancy among the changes – only he can be blissful 
always. (2-14,15,)


訳)クンティの息子よ!(アルジュナの事)
感覚器官はそれぞれの役割によって、外部の対象の情報を与える。
寒い、暑い、喜び、悲しみ、などの感覚は、やってきては消えて
いく。常に変化している。

だから、アルジュナよ、不屈の精神を養え。
感情・感覚に左右されるな。
お前にはそれができるのだ。
覚えておくがよい。

喜びや悲しみに流されない者は、そうした変化の中で絶えず知性
ゆるぎない状況に置いている、ただただ、彼は、そう知ること
で、至福を与えられることができるのだ。”(須田訳)

不屈の精神とクリシュナが言う言葉は、五感感覚の対象に
微動だにしない、という意味で、心の平安を得るために必須な
精神状態をさしているのがわかります。

そして、
That which is not (the “seen”), can never be; that which is 
(the “seer”), can never not be. 
Those who have understood the Truth, experience the 
finality of these two observations. “16) 
訳)
認識されなければ、そうならず、反対に、認識する人には、
(認識されたものが)実現しないということはない
この真理を理解したものは、この二つのものの観方を体験する
ことができる。”【須田訳)

これは、禅問答のような言葉です。 
See という言葉・・これは単純に’見る’というより、’認識する’
というニュアンスでしょう。’I see'=わかりました、のように。

つまり、the seen とは、認識されていること、その前にnot
が付いているから、’認識されないこと’となります。

認識する、の意味を、心の眼で見る、と考えると、心の目で
観ていないと、それが実現することは難しいということです。

反対に、the seer 、つまり、認識する人 にとっては、その人が
認識したことは’そうならないということは無い’、つまり、認識
したことが現実化する~という意味になります。

ここで、”🙈見ざる聞かざる言わざる”の言葉を思い出しました。
この意味は、悪いものを観る、聴く、言うことを極力さけて、
その中に在る、善きものを見て、聴いて、言うことが、懸命だと
いうわけです。
つまり、クリシュナが言うように、そうしているうちに、幸せが
実現するのでしょう。
すべての事象には、二面性があるから・・
善きことのみ抽出して、心の眼で見続け認識すること・・がその
実現を可能にしてくれるのでしょう。


次回に続きます。



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エディ夫人と宇宙飛行士の悟りと、般若心経(5)

2023年12月01日 | 健康と直結する”一元論”について

12月1日(金曜日)2013

**********************************************
前回の続きとしてお読みください。

その取り除かれる原因こそ,病を創りだしている要因である, 
滅びる心( mortal mind,) すなわち超越意識より離れた
ふらふらした心である。”(*1)
 
滅びる心、ふらふらした心、は、どんなか心か?
それは、”超越意識”(神とつながる心)から離れた心、
肉体の消滅とともに消える心
二次元的な感情を産む 現象世界に生きている人の心と
いえるでしょう。

このエディ夫人の”心”は、般若心経でいうところの、”顛倒夢想”
を創りだしてます。
そして、病も、その現れなのです。

故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想、 
究境 涅槃 三世 諸仏 
依 般若波羅蜜多 故 得阿耨多羅三藐三菩提

訳文)
恐怖から遠く離れ、価値観のひっくり返った夢のような、一切
の想念をたちきる

この般若(バンニャー)の教えによって、三世にわたって、菩薩
は 

阿耨多羅三藐三菩提=アヌッタラー・サムヤック・サンボー
ディー(梵語原語)=すべての人が平等に到達できる至高の悟り
(意訳)を得ることができる

11月26日のブログ記事の最後に書いた、病の原因は、まさに、
超越意識(神)から離れた浮世の心が生む、想念感情が根源
だとエディ夫人は、言うのです。
それは、一言でいえば、”恐怖心”です。
わたしたちは、還るべきポートを失った船のように、不安の中に
大海をさまよい、その恐怖から自らの、神性(仏性)を忘れ、
心身の波動を低めて、細菌たちを呼び寄せて病になると、エディ
夫人は言っているような気がします。

ところで、宇宙飛行士という特殊な職業で、地球を丸ごと、
客観的に宇宙から観察して、”悟り”的境地を得た人がいました。

それが、アポロの宇宙飛行士だった、エドです。(*2)
エディ夫人が述べる”超越意識”的な心境をインタヴィーで答えて
います。

神とは宇宙霊魂(コスミック・スピリット)であると言っても
よい。
宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)でもよい。
それは一つの大いなる思惟である。

その思惟にしたがって進行しているプロセスがこの世界である。
宇宙の本質は 物質ではなく、霊的知性なのだ。
この本質が神だ。“ 

エドは宇宙で、宇宙の知性を感じ、思惟があり、その考え
思いが、宇宙を運行させている、と感じ取りました。

その本質を、地球では、神と呼び、人々が崇拝してます。

が、実は、私たち自身が、その宇宙の知性で、造られたことを
忘れています。つまり、本質は、神ということをです。

エドは、そのことを、宇宙空間で、次のように体感しています。
(*2)

人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の
統合体だ。
前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた
動物に過ぎず、本質的には肉と骨で構成されている物質という
ことになるだろう。”

このエドは、人間の二つの側面を指摘します。
一つは、エディ夫人のいう、ふらふらした心の持ち主である
’エゴ的存在’、そして、もう一つが、’超越意識を知る存在’
(普遍的霊的存在)です。
私たちは、この統合体と、エドは解してます。

人が、”エゴ的意識”をとりはらっていけばいくほど、
もう一つの’無限の可能性’が、開かれていくというのです。

つまり、病ですら、その’無限の力を持つ自分の自覚’があれば、
消滅させることができるはずです。
引用します:

しかし、エゴに とじ込められていた自意識が開かれ後者
の存在を認識すれば、人間には、無限の可能性があるという
ことがわかる。
人間は限界があると思っているから限界があるのだ。

与えられた環境に従属せざる得ないと思っているから、従属
しているだけだ。”

これも、先にあげた般若心経の一節と、かぶります。

つまり、心経の”顛倒夢想”は、エドがいう、”人間は限界がある
と思う心”(迷い)であり、それによって、人は、結果的に
”環境に従属せざる得ないようになっている”という、真実と
逆転した’顛倒’状態を表しているというのです。
真実というのは、私たちは、本来、’無限の力’をもっていると
いうことです。
が、医師から、こう言われたから・・と無意識にその言葉と
その状態を甘んじて受け、’従属’すれば、そうなるだけのこと
なのでしょう。

ですので、エドは・・・:
  
”スピリチュアルな本質を認識すれば、無限の可能性を
現実化し、あらゆる環境条件を乗り越えていくことができる。“
 
と”スピリチュアルな本質”を認識することが、あらゆる
環境条件(不幸や病というマイナスの条件を)乗り越えていける
といいます。

ただ、これが一筋縄では、いかない、自己革命的なたいへんな
ことであることも、間違いありません。

スピリチュアルな本質 つまり、エゴ的自分を消滅させて、無限
の自分に近づくために、人は、計り知れない回数の生を生まれ
変わりながら、こうして、今の生でも、試行錯誤を続けているわけ
ですから・・・


**********
 
*1)"Christian Science " 創始者,マサチューセ
ッツ形而上学大学学長で,ボストン市所在第一
科学者キリスト協会名誉牧師の メリー・ベーカ
ー・エディ女史が残した,"Science and Health
with Key to the Scriptures",New York, in 2012

(*2)引用箇所: 
宇宙からの帰還  立花 隆 著   
中央公論社  1994年版




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