アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
1979年9月23日にルフェーブル大司教様がパリで祝った司祭叙階五〇周年記念のミサ聖祭の御説教をご紹介します。
1979年9月23日 ルフェーブル大司教様の司祭叙階50周年記念の御説教(パリ)
英語訳
親愛なる兄弟の皆様、
この美しい五〇周年の儀式の際に皆さんに申し上げたい言葉を言い始める前に、この素晴らしい催しを成功させた全ての方々に感謝するのを許して下さい。
個人的にはエコンの神学校の祭壇の周りで、私の司祭叙階記念をひっそりと個人的に祝おうと考えていました。しかしサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会の親愛なる神父様たちと私の周りにいる愛する司祭たちが、何度も何度もこの司祭叙階五〇周年の機会に私の感謝と祈りに一致したい全ての人びとがそうすることができるようにと私を招いたので、私はそれを拒むことが出来ませんでした。そこで私たちは今日、こんなにも多くの人々が集まって、この司祭叙階記念にいろいろなところから、アメリカ、ヨーロッパのまだ自由な国々から、私たちはここに集ったわけです。
それではこの集いを、この集会を、この儀式を、私はどう定義したらよいでしょうか? それはこうです。カトリック司祭職とカトリックミサ聖祭を信ずる皆さんの信仰の献上です。
皆さんが集まったのはこのためであると私は本当にそう考えています。皆さんはカトリック教会に対する、そしてその最も美しい宝物に対する、天主が人間になさり給うた最も崇高な賜物、つまり司祭職といけにえのための司祭職、私たちの祭壇で今も続く私たちの主のいけにえのための司祭職に対する愛着を表すためにここに集まりました。
これが皆さんがここに集まった理由です。今日、世界中の至る所からやはり来たこれらの全ての親愛なる司祭たちに囲まれて、私たちがここにいる理由です。これらの司祭たちはもしも今日が主日ではなかったら、もっと多く集まることが出来たでしょう。何故なら、これらは自分の持ち場でミサ聖祭を捧げる義務を果たさなければならないからです。しかし心では私たちと共にいる、と私たちに言ってくれました。
もし許して下さるのなら、私はこの半世紀の存在の間私がその証人となった幾つかのできごとを思い返したいと思います。それはカトリック教会のミサ聖祭が私たちの生において、司祭の生において、司教の生において、教会の生命において、どれ程重要であるかということを示すためです。
ローマのフランス人神学校サンタキアラの神学生であった私たちは、典礼儀式を愛するように教えられました。私は神学生時代、式長である特権を得ました。私たちが「大式長」と呼びならわしたこの役目は、昔オタン教区の司教であったルブラン司教や、今でもリヨン教区の補佐司教であるアンセル司教などが神学生時代に果たした責務です。
Bishop Lucien-Sidroine Lebrun
Bishop Alfred-Jean-Felix Ancel
私はそこで、典礼に関する知識で有名であった敬愛するエギ神父様の指導の元で、この大式長でした。
Pere Henri HAEGY
そして私たちは祭壇を準備することを愛し、典礼儀式の準備を愛していました。荘厳な大儀式が私たちの祭壇の周りで執り行われるその日の前日などは私たちは大喜びでした。私たちは神学生として、祭壇を愛することを学んだのです。
"Domine dilexi decorem domus tuae et gloriam habitationis tuae."
この詩篇の一節は、(ミサの時)祭壇で私たちが手を洗うときに唱える言葉です。
その通りです。「主よ、われは御身の家である神殿の輝く装飾を愛せり、われは御身の住まいの栄光を愛せり。」
これが、敬愛するル・フロック神父様の素晴らしい指導の元で、ローマのフランス人神学校で私たちに教えてくれたことです。ル・フロック神父様は愛された司祭で、歴代の教皇様の回勅を解説することで、その当時のできごとをハッキリ見ることを教えてくれました。
1929年9月21日、リールのロワヤル通りにある聖心聖堂でリエナール司教様によって司祭として叙階され、私はその少し後、つまり2年後に、既にガボンにいた兄と一緒に働くために宣教に行きました。そしてそこガボンで、私はミサが何であるかを知り始めたのです。
Achille Cardinal Lienart
確かに、勉学によって私たちの信仰のこの偉大な神秘が何であるかを私は知っていました。しかしその全ての価値、その効果、その深さは理解していませんでした。そのことは、このアフリカで、特に宣教師としてまず神学校で次に現地の人々と共にアフリカの人々のまっただ中でジャングルで過ごした十三年のガボンで、日を経るごとに、年を経るごとに体験により知っていったのです。
その地で私はこの目で見ました。はい、その通りです。ミサ聖祭の聖寵がなし得ることを見ました。私たちのカテキスト(公教要理を教える教師たちのこと)の幾人かがそうであったこの聖なる霊魂たちの中にその効果を見ました。洗礼の恵みによって変化を受けたもと異教徒達の霊魂は、ミサ聖祭に与ることによって、御聖体によって、変わっていったのです。これらの霊魂たちは十字架のいけにえの神秘を理解し、十字架の苦しみにおいて私たちの主イエズス・キリストと一致していたのです。彼らは自分の犠牲と苦しみを私たちの主イエズス・キリストと共に捧げていました。彼らはキリスト者として生きていました。
私は名前を挙げることが出来ます。ンジョレのポール・オッシマ(Paul Ossima, de Ndjole)、ランバレネのユジェヌ・ンドン(Eugene Ndong de Lambarene)、ドンギラのマルセル・ムバレ (Marcel Mebale de Donguila)、そしてセネガル人の名前を挙げて続ければ、フォレスチエ氏(Monsieur Forster)、彼はセネガルの会計長であり、このデリケートで重要な職務をするように、同僚から、そしてイスラム教徒たちからも選ばれたのです。何故なら彼の誠実さと潔癖さのためです。
これがミサ聖祭の恵みが生み出した人々です。毎日ミサ聖祭に与り、熱烈に御聖体拝領をし、彼らは模範となり、周りにいる人々にとって光となった人々です。この他にも聖寵によって変化を受けた多くのキリスト者の男女がいます。
私はキリスト教となったもともと異教の村が、霊的に超自然的に変わっていったのみならず、肉体的にも社会的にも経済的にも政治的にも変わっていったのを見ることが出来ました。何故ならこれらの人々は、以前は異教徒でしたが、自分の義務を果たさなければならないことを自覚し、試練にもかかわらず、いろいろな犠牲があったにもかかわらず、自分の約束を特に婚姻の約束を守る必要性を自覚していったのです。その時、村は少しずつ聖寵の影響の下、ミサ聖祭のいけにえの恵みの影響を受けて変わっていきました。これらの村はみながみな自分の聖堂を建てることを望みました。これらの村はみな司祭の訪問を待ち望んでいました。宣教師の訪問を!彼らはミサ聖祭に与ることが出来るように、罪の告白をして御聖体拝領することが出来るように、司祭が来るのを待ち望んでいたのです。
多くの霊魂は天主様に捧げられもしました。修道士、修道女、司祭として自分を天主様に捧げ、天主様に聖別したのです。これがミサ聖祭の実りです。
何故でしょうか?
私たちはこの変化の深い動機を少し調べてみる必要があります。その答えは「犠牲」です。
いけにえ・犠牲という概念は、深くキリスト教的な概念であり、深くカトリック的な概念です。天主御自身である私たちの主イエズス・キリストが私たちと同じ肉体を取り私たちに「もしも救われたいのなら、自分の十字架を担って私に従え」と言われたのなら、そして私たちの主が十字架の上での死という模範を私たちに与えたのなら、御自分の御血を流されたのなら、私たちの生活はいけにえ・犠牲なしに過ごすことはできません。天主の哀れな被造物であり罪人に過ぎない私たちが、私たちの主の後に従わないなどと、私たちの主の苦しみと十字架の後に従わないなどと、敢えて言うことが出来るでしょうか。これがキリスト教文明の全神秘です。これがキリスト教文明の、カトリック文明の根本にあるものです。
つまり、人生における、日常生活における犠牲を理解すること、キリスト教的な苦しみを知性的に理解すること、苦しみを悪としてではなく、たえることのできない苦痛としてではなく考えること、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと共に自分の苦しみと病苦を分かち合うこと、十字架を見つめながら、カルワリオにおける私たちの主イエズス・キリストの御受難の続きであるミサ聖祭に与りながらそう理解することです。
苦しみをそのように正しく理解すると、その時苦悩は喜びになります。苦痛は宝になります。何故なら私たちの主の苦しみと一致したこれらの苦しみ、殉教者や全ての諸聖人、全てのカトリック信徒、この世で苦しむ全てのカトリック信者と一致した苦しみ、私たちの主の十字架の苦しみと一致した苦しみは、説明することの出来ない宝、えも言われない宝となるからです。苦しみは霊魂の回心のために、私たちの霊魂の救いのために特別の効果を持つことになります。
キリスト教の聖なる多くの霊魂たちは、苦しみたいという同じ望みを持っていました。彼らは私たちの主の十字架ともっともっと一致するために苦しむことを望んでいたのです。これがキリスト教文明です。
聖性のために苦しむ者は、幸いなるかな、
貧しいものは、幸いなるかな、
柔和なものは、幸いなるかな、
憐れみ深いものは、幸いなるかな、
平和をもたらすものは、幸いなるかな、
これが、十字架が私たちに教えてくれるものです。これが私たちの主イエズス・キリストが私たちに十字架の上から教えてくれることです。
つい最近まで異教に染まっていたこれらの国々に浸透したキリスト教文明は、彼らを変えていき、カトリックの首長として自分を与えることを望むまでに成長しました。私自身、これらの国々のカトリックの首長に援助し、知ることが出来ました。カトリック国民はカトリックの首長を望みます。それは自分たちがその政府と国の全ての法律を私たちの主イエズス・キリストの掟と天主の十戒に従わせるためです。
もしもフランスがあの当時、カトリックと言われていたフランスが本当に自分の持っていたカトリック勢力としての役割を果たしていたら、これらの国々の信仰において、別のしかたで支援していたことでしょう。もしもフランスがカトリック信仰においてこれらの国々を支援していたなら、これらの国々は今のように共産主義に脅かされていることはなかったでしょう。もしもそうであったら、アフリカは今のようなアフリカではなかったでしょう。
(今のアフリカの苦しみは)アフリカの人々自身のせいというわけではありません。むしろアフリカの諸民族に深く根を下ろしていたキリスト教信仰を活用することを知らなかった植民国家の責任です。それを知っていたら、信仰を維持し共産主義を追放するために助けるべきであったこれらの国々にたいして兄弟的な影響力を持ち続けるために力があったでしょう。
もしも今、私たちの眼差しを歴史に向けると、私が今しがた言ったことはコンスタンティノ皇帝の後の始めの数世紀に私たちの国々で起こったことでした。私たちはカトリックに改宗しました。私たちの先祖はカトリックとなりました。国々の首長たちは回心しました。数世紀の長きにわたって彼ら王たちは、私たちの主イエズス・キリストに自分の国を捧げたのです。彼らは自分の国をイエズス・キリストの十字架に従わせたのです。聖母マリア様が自分たちの国の元后(女王)であることを望んだのです。
英国王であった聖エドワルドの素晴らしい手紙を読むことが出来ます。またフランス王であった聖ルイ、ゲルマンの王であった聖ヘンリコ、ハンガリーの聖エリザベト、また全てこれらの聖なる王の書いた文章を読むことが出来ます。彼らは私たちカトリックの国の頭であり、キリスト教世界を作り上げたのでした。
フランス王であった聖ルイは、ミサ聖祭に対する何と大きな信仰を持っていたことでしょうか! 彼は毎日二回ミサに与っていました。王が旅をしている間でも、ミサの聖変化の時に教会の鐘が鳴るのを聞くと、馬から下りたり馬車から降りて跪いたのです。そしてその瞬間になされる聖変化と一致していたのです。これがカトリック文明でした。ああ、私たちは何と遠くにいることでしょうか。今では遙か遠くになってしまいました!
アフリカと私たちの歴史、特に私たちのフランスの歴史におけるキリスト教文明のこれらの描写の後で私たちが思い起こすべきもう一つの出来事は、教会に起きた最近の出来事、大きな出来事です。つまり第二バチカン公会議という出来事です。
私たちは教会の敵はカトリックのミサ聖祭の価値をよく知っている、もしかしたら私たちよりもよく知っているということを認めなければなりません。このことについて一つの詩が作れました。その詩の中で、サタンが言う言葉があります。それによるとサタンは、一つのミサ、本当のカトリックのミサが捧げられるたびに震え上がると言うのです。何故ならミサは十字架を思い出させ、サタンは十字架によって敗北を喫したとよく知っているからです。そこで教会の敵、いろいろなセクトで冒涜的なミサをする人々k共産主義者自身でさえも、一つのミサの価値が何であるか、カトリックのミサがどれ程の力を持っているかをよく知っていると明らかになります。
最近、ポーランドで共産党、礼拝監視員は、古いミサを捧げるポーランド人司祭を監視しているが、新しいミサをする司祭には自由を与えている、彼らは古いミサ、永遠のミサをたてる司祭を迫害していると私に教えてくれた人がいます。外国人に対しては政府はどのミサでも自由にさせています。それは自由があるという印象を与えるためです。しかしポーランド人司祭に関しては、聖伝を守ろうとするならば迫害をします。
私は最近、パックス(PAX)に関する公文書を読みました。この文書は、ウィンスジンスキー枢機卿(Cardinal Wyszynski)の名前で1963年6月に教皇大使を通して伝えられたものです。この文書によると「一般に私たちには自由があると思われている、私たちに自由があると人びとに信じさせようとしている。しかし事実は、共産主義政府に追従するパックスに連なる司祭たちが、この「自由」という噂を拡げているだけだ。何故なら彼らは自分の出版局を持ち、フランスの進歩的マスメディアも彼らの見方だからだ。しかしそれは真実ではない。私たちには自由がない。」
Stefan Cardinal Wyszynski
ウィンスジンスキー枢機卿は詳細な点を与えてくれています。それによると共産主義者たちによって組織された青少年のキャンプでは、主日に子供達は鉄条線の中に入れられてミサに与ることが出来ないようにされるそうです。またその報告によると、カトリック司祭によって組織された夏休みのコロニーでは、子供達がミサに与るかどうかヘリコプターで監視するそうです。
一体何故? 何故そこまでして子供達がミサに与らないように監視する必要があるのでしょうか? 何故なら彼らはミサが本質的に反共産主義的であると知っているからです。ミサはそうでないわけにはいきません。何故なら、次の理由があるからです。共産主義とは何でしょうか? 共産主義とは、すべてが共産党のためであり、全ては革命のためです。ところがミサは全てが天主のためです。その他のためではありません。全て天主のためです。
これがカトリックのミサが何かということです。カトリック・ミサは党のプログラムに対立しているのです。そのプログラムとはサタン的なプログラムです。これがミサとは何か、いけにえとは何かということの深い理由です。
皆さんもよく知っている通り、私たちには全て試練があります。私たちは全て人生において、私たちの存在において困難を感じています。私たちは何故苦しむのかその理由を知る必要があります。何故この試練があるのか、何故この苦しみがあるのか、何故このカトリック信者が、何故この病の床に俯せる人たちが苦しんでいるのか? 何故病院は病者で溢れているのか? 何故?
キリスト者はこう答えます。この苦しみは、聖なる祭壇において自分の苦しみを私たちの主イエズス・キリストの苦しみと一致させるためである、と。自分の苦しみを聖なる祭壇で一致させそうすることによって私たちの主イエズス・キリストの贖いの業に参与するため、私と霊魂たちのために天国の救いの功徳を積むため、と。(つづく)
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英語訳
親愛なる兄弟の皆様、
この美しい五〇周年の儀式の際に皆さんに申し上げたい言葉を言い始める前に、この素晴らしい催しを成功させた全ての方々に感謝するのを許して下さい。
個人的にはエコンの神学校の祭壇の周りで、私の司祭叙階記念をひっそりと個人的に祝おうと考えていました。しかしサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会の親愛なる神父様たちと私の周りにいる愛する司祭たちが、何度も何度もこの司祭叙階五〇周年の機会に私の感謝と祈りに一致したい全ての人びとがそうすることができるようにと私を招いたので、私はそれを拒むことが出来ませんでした。そこで私たちは今日、こんなにも多くの人々が集まって、この司祭叙階記念にいろいろなところから、アメリカ、ヨーロッパのまだ自由な国々から、私たちはここに集ったわけです。
それではこの集いを、この集会を、この儀式を、私はどう定義したらよいでしょうか? それはこうです。カトリック司祭職とカトリックミサ聖祭を信ずる皆さんの信仰の献上です。
皆さんが集まったのはこのためであると私は本当にそう考えています。皆さんはカトリック教会に対する、そしてその最も美しい宝物に対する、天主が人間になさり給うた最も崇高な賜物、つまり司祭職といけにえのための司祭職、私たちの祭壇で今も続く私たちの主のいけにえのための司祭職に対する愛着を表すためにここに集まりました。
これが皆さんがここに集まった理由です。今日、世界中の至る所からやはり来たこれらの全ての親愛なる司祭たちに囲まれて、私たちがここにいる理由です。これらの司祭たちはもしも今日が主日ではなかったら、もっと多く集まることが出来たでしょう。何故なら、これらは自分の持ち場でミサ聖祭を捧げる義務を果たさなければならないからです。しかし心では私たちと共にいる、と私たちに言ってくれました。
もし許して下さるのなら、私はこの半世紀の存在の間私がその証人となった幾つかのできごとを思い返したいと思います。それはカトリック教会のミサ聖祭が私たちの生において、司祭の生において、司教の生において、教会の生命において、どれ程重要であるかということを示すためです。
ローマのフランス人神学校サンタキアラの神学生であった私たちは、典礼儀式を愛するように教えられました。私は神学生時代、式長である特権を得ました。私たちが「大式長」と呼びならわしたこの役目は、昔オタン教区の司教であったルブラン司教や、今でもリヨン教区の補佐司教であるアンセル司教などが神学生時代に果たした責務です。
Bishop Lucien-Sidroine Lebrun
Bishop Alfred-Jean-Felix Ancel
私はそこで、典礼に関する知識で有名であった敬愛するエギ神父様の指導の元で、この大式長でした。
Pere Henri HAEGY
そして私たちは祭壇を準備することを愛し、典礼儀式の準備を愛していました。荘厳な大儀式が私たちの祭壇の周りで執り行われるその日の前日などは私たちは大喜びでした。私たちは神学生として、祭壇を愛することを学んだのです。
"Domine dilexi decorem domus tuae et gloriam habitationis tuae."
この詩篇の一節は、(ミサの時)祭壇で私たちが手を洗うときに唱える言葉です。
その通りです。「主よ、われは御身の家である神殿の輝く装飾を愛せり、われは御身の住まいの栄光を愛せり。」
これが、敬愛するル・フロック神父様の素晴らしい指導の元で、ローマのフランス人神学校で私たちに教えてくれたことです。ル・フロック神父様は愛された司祭で、歴代の教皇様の回勅を解説することで、その当時のできごとをハッキリ見ることを教えてくれました。
1929年9月21日、リールのロワヤル通りにある聖心聖堂でリエナール司教様によって司祭として叙階され、私はその少し後、つまり2年後に、既にガボンにいた兄と一緒に働くために宣教に行きました。そしてそこガボンで、私はミサが何であるかを知り始めたのです。
Achille Cardinal Lienart
確かに、勉学によって私たちの信仰のこの偉大な神秘が何であるかを私は知っていました。しかしその全ての価値、その効果、その深さは理解していませんでした。そのことは、このアフリカで、特に宣教師としてまず神学校で次に現地の人々と共にアフリカの人々のまっただ中でジャングルで過ごした十三年のガボンで、日を経るごとに、年を経るごとに体験により知っていったのです。
その地で私はこの目で見ました。はい、その通りです。ミサ聖祭の聖寵がなし得ることを見ました。私たちのカテキスト(公教要理を教える教師たちのこと)の幾人かがそうであったこの聖なる霊魂たちの中にその効果を見ました。洗礼の恵みによって変化を受けたもと異教徒達の霊魂は、ミサ聖祭に与ることによって、御聖体によって、変わっていったのです。これらの霊魂たちは十字架のいけにえの神秘を理解し、十字架の苦しみにおいて私たちの主イエズス・キリストと一致していたのです。彼らは自分の犠牲と苦しみを私たちの主イエズス・キリストと共に捧げていました。彼らはキリスト者として生きていました。
私は名前を挙げることが出来ます。ンジョレのポール・オッシマ(Paul Ossima, de Ndjole)、ランバレネのユジェヌ・ンドン(Eugene Ndong de Lambarene)、ドンギラのマルセル・ムバレ (Marcel Mebale de Donguila)、そしてセネガル人の名前を挙げて続ければ、フォレスチエ氏(Monsieur Forster)、彼はセネガルの会計長であり、このデリケートで重要な職務をするように、同僚から、そしてイスラム教徒たちからも選ばれたのです。何故なら彼の誠実さと潔癖さのためです。
これがミサ聖祭の恵みが生み出した人々です。毎日ミサ聖祭に与り、熱烈に御聖体拝領をし、彼らは模範となり、周りにいる人々にとって光となった人々です。この他にも聖寵によって変化を受けた多くのキリスト者の男女がいます。
私はキリスト教となったもともと異教の村が、霊的に超自然的に変わっていったのみならず、肉体的にも社会的にも経済的にも政治的にも変わっていったのを見ることが出来ました。何故ならこれらの人々は、以前は異教徒でしたが、自分の義務を果たさなければならないことを自覚し、試練にもかかわらず、いろいろな犠牲があったにもかかわらず、自分の約束を特に婚姻の約束を守る必要性を自覚していったのです。その時、村は少しずつ聖寵の影響の下、ミサ聖祭のいけにえの恵みの影響を受けて変わっていきました。これらの村はみながみな自分の聖堂を建てることを望みました。これらの村はみな司祭の訪問を待ち望んでいました。宣教師の訪問を!彼らはミサ聖祭に与ることが出来るように、罪の告白をして御聖体拝領することが出来るように、司祭が来るのを待ち望んでいたのです。
多くの霊魂は天主様に捧げられもしました。修道士、修道女、司祭として自分を天主様に捧げ、天主様に聖別したのです。これがミサ聖祭の実りです。
何故でしょうか?
私たちはこの変化の深い動機を少し調べてみる必要があります。その答えは「犠牲」です。
いけにえ・犠牲という概念は、深くキリスト教的な概念であり、深くカトリック的な概念です。天主御自身である私たちの主イエズス・キリストが私たちと同じ肉体を取り私たちに「もしも救われたいのなら、自分の十字架を担って私に従え」と言われたのなら、そして私たちの主が十字架の上での死という模範を私たちに与えたのなら、御自分の御血を流されたのなら、私たちの生活はいけにえ・犠牲なしに過ごすことはできません。天主の哀れな被造物であり罪人に過ぎない私たちが、私たちの主の後に従わないなどと、私たちの主の苦しみと十字架の後に従わないなどと、敢えて言うことが出来るでしょうか。これがキリスト教文明の全神秘です。これがキリスト教文明の、カトリック文明の根本にあるものです。
つまり、人生における、日常生活における犠牲を理解すること、キリスト教的な苦しみを知性的に理解すること、苦しみを悪としてではなく、たえることのできない苦痛としてではなく考えること、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと共に自分の苦しみと病苦を分かち合うこと、十字架を見つめながら、カルワリオにおける私たちの主イエズス・キリストの御受難の続きであるミサ聖祭に与りながらそう理解することです。
苦しみをそのように正しく理解すると、その時苦悩は喜びになります。苦痛は宝になります。何故なら私たちの主の苦しみと一致したこれらの苦しみ、殉教者や全ての諸聖人、全てのカトリック信徒、この世で苦しむ全てのカトリック信者と一致した苦しみ、私たちの主の十字架の苦しみと一致した苦しみは、説明することの出来ない宝、えも言われない宝となるからです。苦しみは霊魂の回心のために、私たちの霊魂の救いのために特別の効果を持つことになります。
キリスト教の聖なる多くの霊魂たちは、苦しみたいという同じ望みを持っていました。彼らは私たちの主の十字架ともっともっと一致するために苦しむことを望んでいたのです。これがキリスト教文明です。
聖性のために苦しむ者は、幸いなるかな、
貧しいものは、幸いなるかな、
柔和なものは、幸いなるかな、
憐れみ深いものは、幸いなるかな、
平和をもたらすものは、幸いなるかな、
これが、十字架が私たちに教えてくれるものです。これが私たちの主イエズス・キリストが私たちに十字架の上から教えてくれることです。
つい最近まで異教に染まっていたこれらの国々に浸透したキリスト教文明は、彼らを変えていき、カトリックの首長として自分を与えることを望むまでに成長しました。私自身、これらの国々のカトリックの首長に援助し、知ることが出来ました。カトリック国民はカトリックの首長を望みます。それは自分たちがその政府と国の全ての法律を私たちの主イエズス・キリストの掟と天主の十戒に従わせるためです。
もしもフランスがあの当時、カトリックと言われていたフランスが本当に自分の持っていたカトリック勢力としての役割を果たしていたら、これらの国々の信仰において、別のしかたで支援していたことでしょう。もしもフランスがカトリック信仰においてこれらの国々を支援していたなら、これらの国々は今のように共産主義に脅かされていることはなかったでしょう。もしもそうであったら、アフリカは今のようなアフリカではなかったでしょう。
(今のアフリカの苦しみは)アフリカの人々自身のせいというわけではありません。むしろアフリカの諸民族に深く根を下ろしていたキリスト教信仰を活用することを知らなかった植民国家の責任です。それを知っていたら、信仰を維持し共産主義を追放するために助けるべきであったこれらの国々にたいして兄弟的な影響力を持ち続けるために力があったでしょう。
もしも今、私たちの眼差しを歴史に向けると、私が今しがた言ったことはコンスタンティノ皇帝の後の始めの数世紀に私たちの国々で起こったことでした。私たちはカトリックに改宗しました。私たちの先祖はカトリックとなりました。国々の首長たちは回心しました。数世紀の長きにわたって彼ら王たちは、私たちの主イエズス・キリストに自分の国を捧げたのです。彼らは自分の国をイエズス・キリストの十字架に従わせたのです。聖母マリア様が自分たちの国の元后(女王)であることを望んだのです。
英国王であった聖エドワルドの素晴らしい手紙を読むことが出来ます。またフランス王であった聖ルイ、ゲルマンの王であった聖ヘンリコ、ハンガリーの聖エリザベト、また全てこれらの聖なる王の書いた文章を読むことが出来ます。彼らは私たちカトリックの国の頭であり、キリスト教世界を作り上げたのでした。
フランス王であった聖ルイは、ミサ聖祭に対する何と大きな信仰を持っていたことでしょうか! 彼は毎日二回ミサに与っていました。王が旅をしている間でも、ミサの聖変化の時に教会の鐘が鳴るのを聞くと、馬から下りたり馬車から降りて跪いたのです。そしてその瞬間になされる聖変化と一致していたのです。これがカトリック文明でした。ああ、私たちは何と遠くにいることでしょうか。今では遙か遠くになってしまいました!
アフリカと私たちの歴史、特に私たちのフランスの歴史におけるキリスト教文明のこれらの描写の後で私たちが思い起こすべきもう一つの出来事は、教会に起きた最近の出来事、大きな出来事です。つまり第二バチカン公会議という出来事です。
私たちは教会の敵はカトリックのミサ聖祭の価値をよく知っている、もしかしたら私たちよりもよく知っているということを認めなければなりません。このことについて一つの詩が作れました。その詩の中で、サタンが言う言葉があります。それによるとサタンは、一つのミサ、本当のカトリックのミサが捧げられるたびに震え上がると言うのです。何故ならミサは十字架を思い出させ、サタンは十字架によって敗北を喫したとよく知っているからです。そこで教会の敵、いろいろなセクトで冒涜的なミサをする人々k共産主義者自身でさえも、一つのミサの価値が何であるか、カトリックのミサがどれ程の力を持っているかをよく知っていると明らかになります。
最近、ポーランドで共産党、礼拝監視員は、古いミサを捧げるポーランド人司祭を監視しているが、新しいミサをする司祭には自由を与えている、彼らは古いミサ、永遠のミサをたてる司祭を迫害していると私に教えてくれた人がいます。外国人に対しては政府はどのミサでも自由にさせています。それは自由があるという印象を与えるためです。しかしポーランド人司祭に関しては、聖伝を守ろうとするならば迫害をします。
私は最近、パックス(PAX)に関する公文書を読みました。この文書は、ウィンスジンスキー枢機卿(Cardinal Wyszynski)の名前で1963年6月に教皇大使を通して伝えられたものです。この文書によると「一般に私たちには自由があると思われている、私たちに自由があると人びとに信じさせようとしている。しかし事実は、共産主義政府に追従するパックスに連なる司祭たちが、この「自由」という噂を拡げているだけだ。何故なら彼らは自分の出版局を持ち、フランスの進歩的マスメディアも彼らの見方だからだ。しかしそれは真実ではない。私たちには自由がない。」
Stefan Cardinal Wyszynski
ウィンスジンスキー枢機卿は詳細な点を与えてくれています。それによると共産主義者たちによって組織された青少年のキャンプでは、主日に子供達は鉄条線の中に入れられてミサに与ることが出来ないようにされるそうです。またその報告によると、カトリック司祭によって組織された夏休みのコロニーでは、子供達がミサに与るかどうかヘリコプターで監視するそうです。
一体何故? 何故そこまでして子供達がミサに与らないように監視する必要があるのでしょうか? 何故なら彼らはミサが本質的に反共産主義的であると知っているからです。ミサはそうでないわけにはいきません。何故なら、次の理由があるからです。共産主義とは何でしょうか? 共産主義とは、すべてが共産党のためであり、全ては革命のためです。ところがミサは全てが天主のためです。その他のためではありません。全て天主のためです。
これがカトリックのミサが何かということです。カトリック・ミサは党のプログラムに対立しているのです。そのプログラムとはサタン的なプログラムです。これがミサとは何か、いけにえとは何かということの深い理由です。
皆さんもよく知っている通り、私たちには全て試練があります。私たちは全て人生において、私たちの存在において困難を感じています。私たちは何故苦しむのかその理由を知る必要があります。何故この試練があるのか、何故この苦しみがあるのか、何故このカトリック信者が、何故この病の床に俯せる人たちが苦しんでいるのか? 何故病院は病者で溢れているのか? 何故?
キリスト者はこう答えます。この苦しみは、聖なる祭壇において自分の苦しみを私たちの主イエズス・キリストの苦しみと一致させるためである、と。自分の苦しみを聖なる祭壇で一致させそうすることによって私たちの主イエズス・キリストの贖いの業に参与するため、私と霊魂たちのために天国の救いの功徳を積むため、と。(つづく)
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