アヴェ・マリア!
ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話、1987年9月27日(その7)
兄弟姉妹の皆様、
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様(
Archbishop Marcel-Francois Lefebvre, C.S.Sp. †)のアンシーにおける講話の続きをご紹介します。
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)
Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.
音声ファイル:
Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne
or
Presentation de son livre " Ils l'ont decouronne" a Annecy
(つづき)
皆さんは私にこう言うことでしょう。「それにしてもすごいことですね。」「でも、どうしてそんなに有名になったのですか? エコンというちっぽけな村で、ミシュランの地図にも載っていないようなところ、エコンなど存在していないのに、それなのにあなたは世界中で知られるようになりましたね。一体何をしたのですか?」と。
「それはローマです。彼らが私を叩いたのです。彼らが私の頭に大きな一撃を加えたのです。そうでしょう?」
マスメディアは皆こぞってすぐに反応しました。皆さんはそれが何か想像できますか?マスメディアは、皆、私のあとを追っかけてきたのです。「聖職停止」、大司教様、これは何ですか?何が起こっているのですか?テレビ、ラジオ、新聞が動きました。
私の「聖職停止」の時に起きたこの一種の大騒動は、リールでの例の有名になったミサを引き起こしました。これは私が想像さえもしていなかった出来事でした。リールの私の地元の友人たちが私を招待してミサを捧げるように頼まれたのです。私がそこに以前行った時は、しばしば五,六〇人ほどの人々がミサに与りました。ですから「良いですよ。ミサを捧げにいきますよ」と答えました。ちょうど今日、私がミサを捧げに来たのと同じ、五〇名、百名くらいです。
ところが日がたつにつれて、招待した友人たちは私に手紙をよこしたのです。もっと多くの人々がミサに与るようだ、と。多くの人々が私たちに手紙を書いてきたのです。リールのミサはいつあるのか?あれなのか、これなのか?と。そこで、ではもっと大きな場所を準備しなさい、と言いました。そこで五百名分の場所を確保しました。しかしそれでも収まり切れそうもありませんでした。
いろいろなところから連絡やメッセージを受けて、リールでのミサはいつなのか尋ねてきたのです。一体どうなっているのか?一体何が起こっているのか? じつはマスメディアがこの話をいろいろなところで宣伝していたのでした。
聖伝を守ろうという人々は「私たちはルフェーブル大司教を支持しなければならない」と言っていました。ルフェーブル大司教を一人にさせていてはいけない、ルフェーブル大司教は叩かれた、私たちの応援を表さなければならない、と皆が口々に言ったのです。彼らはニースからも駆けつけました。列車ごと借り切ってリールに来たのですね。
少なくとも一万名、千二百名の人々がリールのミサに来たと思います。そこでラジオやテレビは、至る所から、あちこちから、大騒動でした。アメリカからも、全ヨーロッパからも、いろいろなところから来ました。ウソのような話でした。コロンビアに住んでいる妹がいますが、妹は私にこう言ってきました。「お兄さん、一体何をしでかしたのですか?今、コロンビア中の新聞はお兄さんのことで持ちきりですよ!」
もしも私がローマから叩かれなかったならば、私たちはそのまま続けていたことでしょう。だれも私についての話もしなかったでしょう。私はエコンにいたままで、私のこの小さなところにいただけでしょう。
しかし現実は、全世界でした。世界中で青年達がこれを読んだのです。「あれっ、司教が一人で聖伝を守っている。あっ、すごいね!」
多くの人々が私に手紙をよこしてくれました。多くの人々が尋ねてきました。そうして爆発的にふくれあがったのです。今では私たちはもうすぐ神学校を六校持とうとしています。私たちには今五校で神学生たちを受け入れ、だいたい270名から300名の神学生たちがいます。大神学校の神学生たちです。本当に特別なことです。
本当に、これら全てを導いてくれたのは天主様の御摂理です。私ではありません。宣伝活動をしたのは私ではありませんでした。自然とそうなったのです。御摂理です、それから修道者、修道女、カプチン会修道士、ドミニコ会修道士などが私たちの神学校に来て養成を受けるようになりました。モルゴンの小さなカプチン会の修道士たち。アヴリエのドミニコ会修道士たち。ルカルー神父様の司祭たち。彼らが養成を受けるために私たちのところにやってきたのです。私はドン・ジェラールのベネディクト会修道士たちも叙階します。などなど。不幸なことに、ドン・オギュスタンのベネディクト会修道士たちは私たちを離れてしまいました。残念です。私はドン・オギュスタンのベネディクト会士を24名司祭に叙階しました。
しかしこんな聖伝の爆発的な人気は、信じられないことです。皆さんは御自分の目で見て確かめて下さい。今から十年、十五年前では、今朝のようなミサを、このようなミサ聖祭を大会場でするなどと出来なかったと思います。昔でしたら、十名、十五名、二十名がそこそこだったでしょう。
今ではそれでも、今の教会を揺さぶっている劇的な状況を自覚しだしています。そうですね?信仰を守るために、聖伝を守る必要性を自覚しています。それ以外ではありません。これはいわゆるフォークロア的なちっぽけなことを見に来るためにではありません。これは真実に信仰を守るためです。
そして、皆さんの子供達のために、信仰を子供達に伝えて下さい。そこから司祭叙階の重大性が生まれてきます。また管区の重要性、組織の重要性が生まれます。何故なら最も欠如しているのは司祭の数だからです。
私たちには今の司祭数の二倍、三倍の司祭たちが必要です。これが現状です。私は皆さんにありのままを単に伝えています。極めて単純にものごとを見て下さい。私たちは引き裂かれています。ありのまま言わなければなりません。私たちは引き裂かれています。
私たちが教会の困難について語るのは決して喜んでそうするのではありません。私たちはピオ十二世の時代に生きていたかったと思います。私は、ダカールで教皇大使(Delegue Apostolique)であったとき、毎年ピオ十二世教皇様と謁見しました。この教皇様とお会いするのは何という喜びだったでしょうか。教皇様はいつもの多くの心配を持っていたにもかかわらず、ミッションの全てのことについて質問し、尋ね、全てのことに興味を持たれ、私たちのミッションに関心を持って下さいました。素晴らしいことです。何と素晴らしいことでしょうか。ピオ十二世教皇様と接するのは。教皇様は本当に教会の使徒継承性のセンスを、教会のセンスを持っておられました。本当に。ところが第二バチカン公会議以後、大災害になりました。本当の災いでした。
ですから、私たちは働き続けなければなりません。そして、もしもっとよく知りたいと思われるのでしたら、先ほども申し上げましたように、私たちは最近三冊の本を作りましたから、それをご覧下さい。『
迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 』、これは私たちの活動について一般的に知りたいと思う人々のためにあります。私たちの闘いの深い理由と、ローマとの関係で私たちが持つ難しさの深い理由、教義上の難しさについてを知りたいと望まれる方々は、自由主義に関する『彼らは主を退位廃冠させた』(Ils L'ont decouronne)をお読み下さい。
それから Fideliter 誌の最近号は私の司教四十周年特別号で、私たちの生きているこの歴史の道標を幾つか掲載しています。これは歴史としてお読み下さい。簡単に読むことが出来ます。ですからこれをお薦め致します。これらの出版物は、皆さんを助けてくれるでしょう。もしかしたらご家族の中でも。時には、あまりよく知らない人びと、情報が入っていない人、皆さんを批判する人、何故なら「あれまぁ!あなたはルフェーブル大司教と一緒にいるの?」「あぁ!あなたはこうだ、ああだ!」と言われることがよくあるでしょうから、これらの人々にこう言ってあげて下さい。
「これを手にして読んで下さい。良くみて御自分で判断して下さい。私たちが本当に、手に負えない極悪人なのか、行動を見て判断して下さい」と。
(つづく)
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