アヴェ・マリア!
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話を紹介します。
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話
(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)
Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.
音声ファイル:Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne
淑女、紳士の皆様、
私はこのご招待に与り大変うれしく思います。この頃ではあまり多くの講話会をすることはありません。何故なら、私の声を聞かなくとも、皆さんが必要とする現在の危機と私たちが今体験している問題に関して全ての情報は、約二年前にした出版物を通して手にすることが出来ると思うからです。
私は「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 」を出版しました。この本はかなり版を重ね、私たちの態度、私たちの立場、ローマと私たちとの関係を理解するのに困難を感じている人々のため、教会の危機をよく知らない人々のために書かれました。この本の中に、これは比較的に読みやすい本だと思いますが、この本の中に皆さんが抱く疑問、或いは皆さんのお友達や知人がいわゆる「エコンの問題」に関して抱く疑問に対する答えがあります。
ところが最近では危機は発展しています。ハッキリとこう言わなければならないのですが、より重大により悲劇的になっており、私たちの戦いの深い理由、定義するのがかなりデリケートで把握するのがデリケートな理由を強調するのが大切であると思われました。哲学的な用語や神学用語に慣れていない人々にとって、私たちが何故第二バチカン公会議の幾つかの文書に反対しているのか良く理解することは容易なことではありません。第二バチカン公会議の文書とは、例えば信教の自由に関する宣言とか『現代世界憲章』のことです。決定的に問題となるのは、これらの議論の余地のある二つの公会議文書ではありません。とどのつまり、それはかなりデリケートな問題で、自由主義(リベラリズム)の問題です。
教会の現状況の問題をよりよく理解しようとしている全ての人々にとって、新しい本を作るのが良いだろうと思ったのです。これが「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)という本で最近私たちがしたことです。
私はこの題名が十分意味深いと思います。「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)。
「彼ら」とは誰のことでしょうか? 皆さん、彼らとは教会の聖職者達です。教会の聖職者達は、誰を退位させ廃冠させたのでしょうか? 彼らは私たちの主イエズス・キリストを王座から退位させ、その王冠を取り去ったのです。はい。私たちの主イエズス・キリストをです。これは極めて重大なことです。
だからこそ、正にそれが理由で、私たちはこの本にこの題をつけたのです。何故ならこれが真理であり、これが私たちの闘いの最も深い理由だからです。
私たちの抵抗の深い理由、それはラテン語の問題ではありません。それは司祭が着るスータンの問題ではありません。典礼の二次的な典礼様式の問題ではありません。信仰の問題です。
私たちの主イエズス・キリストが天主であるということの信仰、それが問題になっているのです。このことは私たちにとって最も重要な点です。
私は7月14日、ラッツィンガー枢機卿との最後に会話をしたときにこのことを言う機会がありました。私は、私たちの信教の自由(第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』の文書)に対する反論にたいして、枢機卿がした答えに私たちの答えを与えるためにこの会話に臨んだのでした。枢機卿は、以前、私たちに反論を書くように要求しました。そこで私たちは140ページからなる小論を書きました。そして枢機卿は私たちの反論に、綿密なやり方で返答しました。そこで私たちはその返答に対する答えを作り、7月14日にラッツィンガー枢機卿に持っていったのです。そして、私たちは枢機卿が信教の自由を定義するその定義のしかたに同意することが出来ないと言うためでした。同意できません。
何故なら、その理由を説明して私は枢機卿に言いました。
「ご覧下さい、たとえ枢機卿様が私たちに多くのことを与えようとされていても、ある意味で多くの特権を、聖伝のミサを捧げる特権、1962年のヨハネ二十三世教皇の典礼書、1962年版の典礼書を守る特権を与えようとしても、私たちの神学校がそのまま続くことが出来るようにしてくれたとしても、私たちはそれでも協力するのが難しいことでしょう。大変難しいでしょう。何故なら、私たちは同じ方針し従っていないからです。あなたは、第二バチカン公会議以後、私たちの主イエズス・キリストの社会統治が減少するように働いています。あなたは、市民社会を、国家を非キリスト教化することを望んでいます。(それこそ彼らが現実にしていることです。)」
ご静聴の皆さん、よくご存じの通り、私がすることが出来たこの講話会のことをマスメディアで読むことが出来たのならば、よくご存じでしょう。新聞で読みましたでしょう。イタリアの驚くべき例を読んだことでしょう。聖座が自らイタリア政府に、イタリアがもうカトリック国家ではないように、宗教に関して中立であれと求めたのです。
昨年の3月、イタリアの政教条約に関する議論があったとき、聖座はイタリア政府と、社会主義政府と同意の署名をしました。これによって、今後は政府もイタリアも排他的にカトリックではなくなる、ということになりました。カトリック教について、カトリックの宗教は国家によって公式に認められた宗教ではなくなり、イタリア国家は宗教に関して中立にならなければならない、従って、その事実から、その領土内に全ての宗教を受け入れなければならなくなりました。そしてこの行為は、聖座によって要求されたのです。このことを頭の中に良く入れておかなければなりません。イタリア政府ではなく、聖座によって要求されたことだったということです。
同じことはスペインにもありました。南アメリカの全てのカトリック国家についても同じです。アイルランドでもそうです。スイスのカトリックのカントン(州)でもそうです。カントンは各自の憲法を持つスイスの国々です。これらはみな、聖座がその政府へ要請して国家が厳密にカトリックであることは、公式にカトリック国家であることは、もはや受け入れられないとしたのです。
私はそのことについてヨハネ・パウロ二世教皇様と話す機会がありました。この謁見はもう8年、9年前になります。何故なら1978年に教皇に選ばれ、1978年の11月に謁見したからです。その時私は教皇様にこう言って説明しました。
「聖下、教会が社会においてもう私たちの主イエズス・キリストの社会統治を追求しなくなってしまい本当に驚いています。」
私は教皇様に(スイスの首都)ベルンの教皇大使と私との会話の例を出しました。この会話は私の書いた本の中で読むことが出来ます。)
ベルンの教皇大使に私は会う機会があり、教皇大使は自分がスイスの司教たちに圧力をかけてカトリックの州(カントン)が投票するように、憲法からカトリック州であることを放棄するように国民投票させたと私に理解させてくれました。憲法本文にはこうあります。「例えばヴァレー州、フリブール州は、この州における唯一の公式の宗教としてカトリック宗教を認める。」
これを廃止させなければならなかったのです。これは社会の非キリスト教化です。私は教皇様に言いました。
「ご覧下さい。プロテスタントの州(カントン)は何も変えていません。プロテスタントの州は今でも同じ憲法の文言を使っています。」
スイスのプロテスタント州は“この州は公式の宗教としてプロテスタントの宗教を認める」としています。彼らは変えません。オランダ、英国、ノルウェー、スエーデン、デンマークなどではプロテスタントが国家の唯一の公式宗教として認められています。
例えば、皆さんも事実を知っていますように、オランダの女王ジュリアナの長女はブルボン家のプリンスであるザビエルの息子の一人と結婚しました。しかし、本来ならジュリアナに王位継承権があるのにもかかわらず女王となることが出来なくなりました。ジュリアナがカトリック信者と結婚したからです。オランダにプロテスタントではない女王がいるのは考えられないということです。これは今でもそうです。
デンマークでも同じことです。フランス人の青年がデンマークの王位継承権を持つプリンセスと結婚しました。しかしフランス人青年は、カトリックを背教してしまいました。デンマークのプロテスタントの女王と結婚するためにカトリックの宗教を捨ててしまったのです。何故なら、デンマークの女王がカトリックと結婚することは考えられなかったからです。
良く見て下さい。何という違いでしょうか! プロテスタントの国々では、習慣になっているものは何らも変えようとはしません。問題外です。そのことを私は教皇様に申し上げました。
そしてイスラム国家です。カトリック信者をイスラム国家の元首においてみて下さい。カトリック信者と共産主義国家の元首においてみて下さい。共産主義国家は党のための人間を望んでいます。共産党党員でない誰かが、共産主義ソビエトの元首になることなど考えられません。イスラム教徒のところに、カトリック信者の元首をおいてみて下さい。何が起こるか分かるでしょう。考えられないことです。つまり、真の宗教だけが、唯一の本当の宗教である私たちの主イエズス・キリストの宗教が、国家を持つ権利がない、つまり私たちの主イエズス・キリストが数世紀も統治したようにイエズス・キリストが統治するためのカトリックの国家を持ってはならないのでしょうか。
私はこのことを何度も言いましたが南アメリカのコロンビアという国が司教たちの圧力の下で宗教的中立になったとき、その瞬間私はコロンビアにいました。司教たちの圧力の下で、とはコロンビアの司教会議の事務総長が私に言ったことです。私は彼のことをよく知っています。彼は私にこう言いました。
「その通りです。二年の間私たちはコロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをして憲法の文章から "カトリック宗教が国家によって公式に認められた唯一の宗教" とうところを削除するようにしたのです。」
これを変えるために、コロンビアの司教会議の事務総長が、コロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをした? 私たちの主イエズス・キリストがコロンビアの王ではないようにするために?
この削除が行われていろいろな演説があったとき、三つの演説がありました。私はコロンビアにいました。私はそれらの演説を新聞で読むことが出来ました。コロンビアの大統領の演説、教皇大使の演説、司教会議の代表の演説でした。
カトリックらしい演説は大統領の演説でした。司教たちの演説は単に「私たちは第二バチカン公会議を適応させる、すなわち第二バチカン公会議の信教の自由の意味を適応する」というものでした。
ところが教皇大使の演説はフリー・メーソンの演説でした。進歩、人間、文化。本物のフリー・メーソンの演説でした。
大統領はその反対にこう言いました。
「私たちはカトリックの宗教が私たちの国家において公式に認められた宗教として見なさないようにと要求されたので、大変に残念に思います、確かに私たちの国民は、この変化を極めて残念がるでしょうし、多くの国民は驚くことでしょう。しかしカトリック教会の要求に従って、私たちはカトリック教がコロンビア国によって認められた唯一の宗教ではなくなるということを受け入れました。しかし私が大統領としてあるかぎり、私はカトリック宗教がコロンビアに継続し、常に最高に敬意を受ける宗教としてとどまるように私は全力を尽くすことを約束します」と。
大統領はカトリックの演説をしました。自分の社会、自分の国の非キリスト教化という行為への聖座からの圧力を残念に思いつつこの演説をなしました。それにしても、聖座が社会を非キリスト教化するように要求するとはやり過ぎのようです。しかしこれは今日バチカンが理解している信教の自由の原理に適うことなのです。
そしてこれが7月14日にラッツィンガー枢機卿が私に自己弁護をして言ったことなのです。ラッツィンガー枢機卿が私に言った最初のことがこれです。
「しかし大司教様、社会はカトリックではあってはなりません。社会は宗教を持ってはなりません。何故なら社会は天主様の被造物ではないからです。何故なら市民社会というものは、家族が天主様によって作られたようには、天主様によって作られたわけではないからです。だから社会は宗教を持ってはなりません。ダメです。社会は宗教に関して無能なのです」と。枢機卿は私にこう言いました。「宗教に関して無能である」と。
しかし、1500年の間何があったのでしょうか?コンスタンティノ大帝からフランス革命までの間、そしてその後もそうだといえますが、何が起こったのでしょうか? 教皇様たちは、諸侯たちに、王たちに、国家元首たちに、国民が信仰を守るように、無信心の侵略や無神論の侵略、セクトの侵略、全ての誤謬の侵略に反対して、国民の信仰を保護するように全力を尽くすようにと要求して止みませんでした。教皇様たちは王たちに懇願したのです。
そして王の聖別があります! 王を聖別するという宗教儀式です。スペインの君主ホワン・カルロスは王として聖別されました。ホワン・カルロスは、言ってみれば教会の手から王冠を受け取りました。王のために捧げられた全ての祈り、全ての祈願文は正しく、王がカトリック教会に忠実であるように、王が信仰を守るように、王が信仰においてその信者と国民たちを守るように、と祈っていたのです。
そこで私はこのことを枢機卿に言いました。
「それなら、これらのこと全ては何を意味するのでしょうか?」と。
枢機卿の答えはこうです。
「ああ、そうですね。でもこれは特別の事情でのことです」と。
1500年の間、特別の事情であって、今では私たちは福音を参照する、と言うのです。あたかも聖福音が私たちの主イエズス・キリストの王権に反対しているかのようです。ウソのような話です。彼らは社会の非キリスト教化を望んでいます。しかし社会の非キリスト教化とは、フリー・メーソン的であり、フリー・メーソンの原理です。
フリー・メーソンは常にそのことを目的をしてきました。社会の非キリスト教化。この社会の非キリスト教化に付け加えて、良心の非キリスト教化があります。まさにこれが信教の自由です。誤った信教の自由、リベラルな信教の自由です。良心を非キリスト教化するとは、良心が自由であるということです。各人がそれぞれの良心を持つということです。従って、各人が(自分の好みに合わせて)自分の宗教を持つことができるということです。
「あなたは仏教徒になりたいのですか、仏教を望むのですが、大変よろしいことです。あなたはイスラム教を望みますか、素晴らしいことです。あなたはキリスト教を望むのですね、なおさら良いことです、などなど。」各人が自分の好きな宗教を持ち、誰も何も言えない。
では真の天主である私たちの主イエズス・キリストの掟はどうなってしまうのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは、私たちが主に従順であるようさせる権利が、私たちに命じる権利が無いのでしょうか? 私たちの主は言いました。「信じる者は救われる。信じない者は滅ぼされる」と。イエズス・キリストは、すべての人間の良心に、全ての良心にこう言ったのです。イエズス・キリストは「信じないキリスト者は」とも「信じない私の弟子達は」とも言いませんでした。イエズス様は「信じない者は」といったのです。つまり全ての人間、誰であれ私たちの主イエズス・キリストを信じない者は、滅ぼされると言ったのです。私たちは自由ではないのです。自由ではありません。
良心が自由になると、各々の良心が好みの宗教をもつ自由があるなら、国家は、それぞれ個別の宗教を持つ私たちの各人に「社会的自律空間」と呼ばれるものを与えなければならなくなります。「あなたはイスラム教徒ですか?あなたには社会的自律空間を持つ権利があります」と。
この「社会的自律空間」とは、彼らの使う正確な言い回しです。彼らが私たちにした回答の中で使った言葉です。この「自律空間」とは、何を意味しているのでしょうか? これは社会において、イスラム教徒は、彼らの学校、ラジオ、新聞、礼拝、自分の考えを広める権利などを持つ、ということです。この「社会的自律空間」での唯一の制限は、公の秩序です。しかし、公の秩序とは、好きなように定義することが出来ますから(結局は無制限であり)、全くの自由です。
従って、社会の社会秩序において、一夫多妻も存在する権利を持つことになります。何故ならこれはイスラム教の一部ですから。プロテスタントにとって、堕胎も避妊も離婚も社会的自律空間の権利を持ちます。何故ならこれらは彼らの宗教の一部ですから。これが私たちが今生きている世界です。
(づづく)
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(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)
Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.
音声ファイル:Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne
淑女、紳士の皆様、
私はこのご招待に与り大変うれしく思います。この頃ではあまり多くの講話会をすることはありません。何故なら、私の声を聞かなくとも、皆さんが必要とする現在の危機と私たちが今体験している問題に関して全ての情報は、約二年前にした出版物を通して手にすることが出来ると思うからです。
私は「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 」を出版しました。この本はかなり版を重ね、私たちの態度、私たちの立場、ローマと私たちとの関係を理解するのに困難を感じている人々のため、教会の危機をよく知らない人々のために書かれました。この本の中に、これは比較的に読みやすい本だと思いますが、この本の中に皆さんが抱く疑問、或いは皆さんのお友達や知人がいわゆる「エコンの問題」に関して抱く疑問に対する答えがあります。
ところが最近では危機は発展しています。ハッキリとこう言わなければならないのですが、より重大により悲劇的になっており、私たちの戦いの深い理由、定義するのがかなりデリケートで把握するのがデリケートな理由を強調するのが大切であると思われました。哲学的な用語や神学用語に慣れていない人々にとって、私たちが何故第二バチカン公会議の幾つかの文書に反対しているのか良く理解することは容易なことではありません。第二バチカン公会議の文書とは、例えば信教の自由に関する宣言とか『現代世界憲章』のことです。決定的に問題となるのは、これらの議論の余地のある二つの公会議文書ではありません。とどのつまり、それはかなりデリケートな問題で、自由主義(リベラリズム)の問題です。
教会の現状況の問題をよりよく理解しようとしている全ての人々にとって、新しい本を作るのが良いだろうと思ったのです。これが「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)という本で最近私たちがしたことです。
私はこの題名が十分意味深いと思います。「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)。
「彼ら」とは誰のことでしょうか? 皆さん、彼らとは教会の聖職者達です。教会の聖職者達は、誰を退位させ廃冠させたのでしょうか? 彼らは私たちの主イエズス・キリストを王座から退位させ、その王冠を取り去ったのです。はい。私たちの主イエズス・キリストをです。これは極めて重大なことです。
だからこそ、正にそれが理由で、私たちはこの本にこの題をつけたのです。何故ならこれが真理であり、これが私たちの闘いの最も深い理由だからです。
私たちの抵抗の深い理由、それはラテン語の問題ではありません。それは司祭が着るスータンの問題ではありません。典礼の二次的な典礼様式の問題ではありません。信仰の問題です。
私たちの主イエズス・キリストが天主であるということの信仰、それが問題になっているのです。このことは私たちにとって最も重要な点です。
私は7月14日、ラッツィンガー枢機卿との最後に会話をしたときにこのことを言う機会がありました。私は、私たちの信教の自由(第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』の文書)に対する反論にたいして、枢機卿がした答えに私たちの答えを与えるためにこの会話に臨んだのでした。枢機卿は、以前、私たちに反論を書くように要求しました。そこで私たちは140ページからなる小論を書きました。そして枢機卿は私たちの反論に、綿密なやり方で返答しました。そこで私たちはその返答に対する答えを作り、7月14日にラッツィンガー枢機卿に持っていったのです。そして、私たちは枢機卿が信教の自由を定義するその定義のしかたに同意することが出来ないと言うためでした。同意できません。
何故なら、その理由を説明して私は枢機卿に言いました。
「ご覧下さい、たとえ枢機卿様が私たちに多くのことを与えようとされていても、ある意味で多くの特権を、聖伝のミサを捧げる特権、1962年のヨハネ二十三世教皇の典礼書、1962年版の典礼書を守る特権を与えようとしても、私たちの神学校がそのまま続くことが出来るようにしてくれたとしても、私たちはそれでも協力するのが難しいことでしょう。大変難しいでしょう。何故なら、私たちは同じ方針し従っていないからです。あなたは、第二バチカン公会議以後、私たちの主イエズス・キリストの社会統治が減少するように働いています。あなたは、市民社会を、国家を非キリスト教化することを望んでいます。(それこそ彼らが現実にしていることです。)」
ご静聴の皆さん、よくご存じの通り、私がすることが出来たこの講話会のことをマスメディアで読むことが出来たのならば、よくご存じでしょう。新聞で読みましたでしょう。イタリアの驚くべき例を読んだことでしょう。聖座が自らイタリア政府に、イタリアがもうカトリック国家ではないように、宗教に関して中立であれと求めたのです。
昨年の3月、イタリアの政教条約に関する議論があったとき、聖座はイタリア政府と、社会主義政府と同意の署名をしました。これによって、今後は政府もイタリアも排他的にカトリックではなくなる、ということになりました。カトリック教について、カトリックの宗教は国家によって公式に認められた宗教ではなくなり、イタリア国家は宗教に関して中立にならなければならない、従って、その事実から、その領土内に全ての宗教を受け入れなければならなくなりました。そしてこの行為は、聖座によって要求されたのです。このことを頭の中に良く入れておかなければなりません。イタリア政府ではなく、聖座によって要求されたことだったということです。
同じことはスペインにもありました。南アメリカの全てのカトリック国家についても同じです。アイルランドでもそうです。スイスのカトリックのカントン(州)でもそうです。カントンは各自の憲法を持つスイスの国々です。これらはみな、聖座がその政府へ要請して国家が厳密にカトリックであることは、公式にカトリック国家であることは、もはや受け入れられないとしたのです。
私はそのことについてヨハネ・パウロ二世教皇様と話す機会がありました。この謁見はもう8年、9年前になります。何故なら1978年に教皇に選ばれ、1978年の11月に謁見したからです。その時私は教皇様にこう言って説明しました。
「聖下、教会が社会においてもう私たちの主イエズス・キリストの社会統治を追求しなくなってしまい本当に驚いています。」
私は教皇様に(スイスの首都)ベルンの教皇大使と私との会話の例を出しました。この会話は私の書いた本の中で読むことが出来ます。)
ベルンの教皇大使に私は会う機会があり、教皇大使は自分がスイスの司教たちに圧力をかけてカトリックの州(カントン)が投票するように、憲法からカトリック州であることを放棄するように国民投票させたと私に理解させてくれました。憲法本文にはこうあります。「例えばヴァレー州、フリブール州は、この州における唯一の公式の宗教としてカトリック宗教を認める。」
これを廃止させなければならなかったのです。これは社会の非キリスト教化です。私は教皇様に言いました。
「ご覧下さい。プロテスタントの州(カントン)は何も変えていません。プロテスタントの州は今でも同じ憲法の文言を使っています。」
スイスのプロテスタント州は“この州は公式の宗教としてプロテスタントの宗教を認める」としています。彼らは変えません。オランダ、英国、ノルウェー、スエーデン、デンマークなどではプロテスタントが国家の唯一の公式宗教として認められています。
例えば、皆さんも事実を知っていますように、オランダの女王ジュリアナの長女はブルボン家のプリンスであるザビエルの息子の一人と結婚しました。しかし、本来ならジュリアナに王位継承権があるのにもかかわらず女王となることが出来なくなりました。ジュリアナがカトリック信者と結婚したからです。オランダにプロテスタントではない女王がいるのは考えられないということです。これは今でもそうです。
デンマークでも同じことです。フランス人の青年がデンマークの王位継承権を持つプリンセスと結婚しました。しかしフランス人青年は、カトリックを背教してしまいました。デンマークのプロテスタントの女王と結婚するためにカトリックの宗教を捨ててしまったのです。何故なら、デンマークの女王がカトリックと結婚することは考えられなかったからです。
良く見て下さい。何という違いでしょうか! プロテスタントの国々では、習慣になっているものは何らも変えようとはしません。問題外です。そのことを私は教皇様に申し上げました。
そしてイスラム国家です。カトリック信者をイスラム国家の元首においてみて下さい。カトリック信者と共産主義国家の元首においてみて下さい。共産主義国家は党のための人間を望んでいます。共産党党員でない誰かが、共産主義ソビエトの元首になることなど考えられません。イスラム教徒のところに、カトリック信者の元首をおいてみて下さい。何が起こるか分かるでしょう。考えられないことです。つまり、真の宗教だけが、唯一の本当の宗教である私たちの主イエズス・キリストの宗教が、国家を持つ権利がない、つまり私たちの主イエズス・キリストが数世紀も統治したようにイエズス・キリストが統治するためのカトリックの国家を持ってはならないのでしょうか。
私はこのことを何度も言いましたが南アメリカのコロンビアという国が司教たちの圧力の下で宗教的中立になったとき、その瞬間私はコロンビアにいました。司教たちの圧力の下で、とはコロンビアの司教会議の事務総長が私に言ったことです。私は彼のことをよく知っています。彼は私にこう言いました。
「その通りです。二年の間私たちはコロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをして憲法の文章から "カトリック宗教が国家によって公式に認められた唯一の宗教" とうところを削除するようにしたのです。」
これを変えるために、コロンビアの司教会議の事務総長が、コロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをした? 私たちの主イエズス・キリストがコロンビアの王ではないようにするために?
この削除が行われていろいろな演説があったとき、三つの演説がありました。私はコロンビアにいました。私はそれらの演説を新聞で読むことが出来ました。コロンビアの大統領の演説、教皇大使の演説、司教会議の代表の演説でした。
カトリックらしい演説は大統領の演説でした。司教たちの演説は単に「私たちは第二バチカン公会議を適応させる、すなわち第二バチカン公会議の信教の自由の意味を適応する」というものでした。
ところが教皇大使の演説はフリー・メーソンの演説でした。進歩、人間、文化。本物のフリー・メーソンの演説でした。
大統領はその反対にこう言いました。
「私たちはカトリックの宗教が私たちの国家において公式に認められた宗教として見なさないようにと要求されたので、大変に残念に思います、確かに私たちの国民は、この変化を極めて残念がるでしょうし、多くの国民は驚くことでしょう。しかしカトリック教会の要求に従って、私たちはカトリック教がコロンビア国によって認められた唯一の宗教ではなくなるということを受け入れました。しかし私が大統領としてあるかぎり、私はカトリック宗教がコロンビアに継続し、常に最高に敬意を受ける宗教としてとどまるように私は全力を尽くすことを約束します」と。
大統領はカトリックの演説をしました。自分の社会、自分の国の非キリスト教化という行為への聖座からの圧力を残念に思いつつこの演説をなしました。それにしても、聖座が社会を非キリスト教化するように要求するとはやり過ぎのようです。しかしこれは今日バチカンが理解している信教の自由の原理に適うことなのです。
そしてこれが7月14日にラッツィンガー枢機卿が私に自己弁護をして言ったことなのです。ラッツィンガー枢機卿が私に言った最初のことがこれです。
「しかし大司教様、社会はカトリックではあってはなりません。社会は宗教を持ってはなりません。何故なら社会は天主様の被造物ではないからです。何故なら市民社会というものは、家族が天主様によって作られたようには、天主様によって作られたわけではないからです。だから社会は宗教を持ってはなりません。ダメです。社会は宗教に関して無能なのです」と。枢機卿は私にこう言いました。「宗教に関して無能である」と。
しかし、1500年の間何があったのでしょうか?コンスタンティノ大帝からフランス革命までの間、そしてその後もそうだといえますが、何が起こったのでしょうか? 教皇様たちは、諸侯たちに、王たちに、国家元首たちに、国民が信仰を守るように、無信心の侵略や無神論の侵略、セクトの侵略、全ての誤謬の侵略に反対して、国民の信仰を保護するように全力を尽くすようにと要求して止みませんでした。教皇様たちは王たちに懇願したのです。
そして王の聖別があります! 王を聖別するという宗教儀式です。スペインの君主ホワン・カルロスは王として聖別されました。ホワン・カルロスは、言ってみれば教会の手から王冠を受け取りました。王のために捧げられた全ての祈り、全ての祈願文は正しく、王がカトリック教会に忠実であるように、王が信仰を守るように、王が信仰においてその信者と国民たちを守るように、と祈っていたのです。
そこで私はこのことを枢機卿に言いました。
「それなら、これらのこと全ては何を意味するのでしょうか?」と。
枢機卿の答えはこうです。
「ああ、そうですね。でもこれは特別の事情でのことです」と。
1500年の間、特別の事情であって、今では私たちは福音を参照する、と言うのです。あたかも聖福音が私たちの主イエズス・キリストの王権に反対しているかのようです。ウソのような話です。彼らは社会の非キリスト教化を望んでいます。しかし社会の非キリスト教化とは、フリー・メーソン的であり、フリー・メーソンの原理です。
フリー・メーソンは常にそのことを目的をしてきました。社会の非キリスト教化。この社会の非キリスト教化に付け加えて、良心の非キリスト教化があります。まさにこれが信教の自由です。誤った信教の自由、リベラルな信教の自由です。良心を非キリスト教化するとは、良心が自由であるということです。各人がそれぞれの良心を持つということです。従って、各人が(自分の好みに合わせて)自分の宗教を持つことができるということです。
「あなたは仏教徒になりたいのですか、仏教を望むのですが、大変よろしいことです。あなたはイスラム教を望みますか、素晴らしいことです。あなたはキリスト教を望むのですね、なおさら良いことです、などなど。」各人が自分の好きな宗教を持ち、誰も何も言えない。
では真の天主である私たちの主イエズス・キリストの掟はどうなってしまうのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは、私たちが主に従順であるようさせる権利が、私たちに命じる権利が無いのでしょうか? 私たちの主は言いました。「信じる者は救われる。信じない者は滅ぼされる」と。イエズス・キリストは、すべての人間の良心に、全ての良心にこう言ったのです。イエズス・キリストは「信じないキリスト者は」とも「信じない私の弟子達は」とも言いませんでした。イエズス様は「信じない者は」といったのです。つまり全ての人間、誰であれ私たちの主イエズス・キリストを信じない者は、滅ぼされると言ったのです。私たちは自由ではないのです。自由ではありません。
良心が自由になると、各々の良心が好みの宗教をもつ自由があるなら、国家は、それぞれ個別の宗教を持つ私たちの各人に「社会的自律空間」と呼ばれるものを与えなければならなくなります。「あなたはイスラム教徒ですか?あなたには社会的自律空間を持つ権利があります」と。
この「社会的自律空間」とは、彼らの使う正確な言い回しです。彼らが私たちにした回答の中で使った言葉です。この「自律空間」とは、何を意味しているのでしょうか? これは社会において、イスラム教徒は、彼らの学校、ラジオ、新聞、礼拝、自分の考えを広める権利などを持つ、ということです。この「社会的自律空間」での唯一の制限は、公の秩序です。しかし、公の秩序とは、好きなように定義することが出来ますから(結局は無制限であり)、全くの自由です。
従って、社会の社会秩序において、一夫多妻も存在する権利を持つことになります。何故ならこれはイスラム教の一部ですから。プロテスタントにとって、堕胎も避妊も離婚も社会的自律空間の権利を持ちます。何故ならこれらは彼らの宗教の一部ですから。これが私たちが今生きている世界です。
(づづく)
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