アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
1979年9月23日にルフェーブル大司教様の司祭叙階五〇周年記念ミサの御説教の続きをご紹介します。
Sermon du jubile sacerdotal - Paris, le 23 septembre 1979
英語訳 JUBILEE SERMON of Archbishop Lefebvre
on the occasion of his sacerdotal jubilee, September 23, 1979
(つづき)
ところが第二バチカン公会議に教会の敵が侵入しました。彼らがねらっていた最初の標的はある意味で何らかのしかたで
ミサ聖祭を崩壊させ打ち崩すことでした。
皆さんはマイケル・デイヴィスさんの本を読むことが出来ます。彼はイギリスのカトリック信者であり、第二バチカン公会議の典礼改革が正にクランマーの時代に起きたこと(註:クランマーが英国聖公会の新しい典礼を作った)とどのように同じであるかということを、イギリスのプロテスタント主義の誕生と全く同じであることを示すために素晴らしい本を書きました。
もしも(聖公会での)典礼の変化の歴史を読むと、またルターのした典礼の改革を見ると、正に全く同じ工程であり、同じやり方が取られています。つまり外見はまだよく見える、見かけはカトリックに残されたゆっくりとした変化です。
ミサからいけにえの性格を取り除き、私たちの主イエズス・キリストの御血による罪の贖いという性格を取り除き、私たちの主イエズス・キリスト御自身といういけにえによる贖いという性格を捨て去りました。そして
ミサを単なる集会に変え、司祭が座長となる集会にしてしまいました。しかしミサはそのようなものではありません。
(新しいミサでは)十字架がもはや凱旋していないのですが、これは驚くに当たりません。何故ならいけにえが強調されていないのですから。ですから、人々がもはや自分の生活のスタンダードを上げ、お金をかき集め、この世の富や快楽や快適さ便利さだけを追求する用になってしまっているとしても、いけにえの意味を失ってしまったとしても驚くに値しません。
私たちは何をしなければならないのでしょうか?私の愛する兄弟の皆様、もしも私たちがミサ聖祭のこの偉大な神秘をこのように深めるとしたら、何をすべきでしょうか。よく聞いて下さい。私はこう言うことが出来ると思います。私たちは、
ミサの聖なるいけにえに寄りかかる十字軍、私たちの主イエズス・キリストの御血に頼む十字軍を起こさなければなりません。ミサ聖祭という、この誰も打ち勝つことが出来ない岩、この尽きることを知らない恵みの泉に寄りかかる十字軍です。
このことは私たちは毎日のように体験しています。皆さんが今ここにいるのは、何故なら皆さんはミサ聖祭を愛しているからです。ここにいる神学生たちは、エコンの神学校、アメリカの神学校、ドイツの神学校に在籍しています。彼らは神学校にやってきました。何故でしょうか? 彼らが神学校に入学したのは、ミサ聖祭のためです。聖寵の泉であるミサ聖祭、聖霊の源であるミサ聖祭、キリスト教文明の源泉であるミサ聖祭、永遠のミサ聖祭のためです。そして司祭とはまさにそのようなものです。
私たちは、正しく昔ながらのいけにえという概念によった十字軍を起こすべきです。それは
もう一度キリスト教世界を作るためです。教会がそう望んでいるように、教会がいつも同じ原理を持って打ち立てたように、キリスト教世界をまた創るためです。この原理とは、昔と同じミサ聖祭であり、昔と同じ同じ秘跡であり、同じ公教要理、同じ聖書です。
私たちはキリスト教世界を再創造しなければなりません。愛する兄弟の皆様、それはあなたたちです。あなたたちこそが地の塩であり、世の光です。私たちの主イエズス・キリストはあなたたちにこそこう言われるのです。
「私の血潮の実りを失うなかれ、私のいけにえを捨て去るなかれ」と。
童貞聖マリアも、十字架のすぐ側に佇み、あなたたちに同じことを言っています。刃にて差し貫かれた童貞聖マリアの御心は苦しみと悲しみに満ちています。それと同時に天主なる御子のいけにえと一致する喜びで満ちています。この童貞聖マリアもあなたたちにこう言われます。
「キリスト者たりましょう。カトリックたりましょう」と。
世俗的な考えに引き流されないようにしましょう。私たちをして罪へとそして地獄へと流すこの世で流行っている思潮に流されないように。もしも私たちが天国に行こうと望むなら、私たちは私たちの主イエズス・キリストに従わなければなりません。私たちは自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストの後に従い、十字架において、苦しみにおいて、いけにえにおいて私たちの主に倣わなければなりません。
そこで私は青少年に、このホールに集う青年達に求めます。そして司祭たちには彼らにかくも美しく、かくも偉大な
召命ということを説明してくれるように求めます。彼らが選ぶことの出来る全ての召命を、それが司祭であれ、修道者であれ、修道女であれ、結婚生活であれ、彼らがよく選ぶことが出来るように。
婚姻の秘跡による結婚は、私たちの主イエズス・キリストにおける結婚であり、イエズス・キリストの御血における婚姻です。彼らは私たちの主イエズス・キリストの聖寵の元に結ばれるのです。願わくは彼らが婚姻の偉大さを理解し、
純潔と貞潔と祈りと考察とによってふさわしく婚姻の準備をするように。願わくは彼らがこの世を騒がす全ての情念・欲情によって流されないように。
真の理想を追求する青年達の十字軍です。
また
キリスト教家庭の十字軍を起こすべきです。ここにいるキリスト教家族たちよ、
あなたたちの家庭をイエズス・キリストの聖心に奉献して下さい。聖母の汚れ無き御心に奉献しなさい。家族で祈りなさい。おお、皆さんの家族の中でどれ程多くの家庭がいつも家族で祈っているかを知っています。しかしもっともっと多くの家庭が熱心に一緒に祈るようにしなさい。私たちの主イエズス・キリストがあなたたちの家庭を本当に統治しますように!
お願いです。子供達があなたたちの家庭に来ることを妨げる全てを遠ざけて下さい。天主様があなたたちの家庭になしたもう賜物中で、沢山の子供達より美しい賜物はありません。子宝にみちた家庭を気づいて下さい。子供の多い家庭とは、カトリック教会の栄光です。カナダでも、オランダでも、スイスでも、フランスでもそうでした。世界中どこでも子供の多い家庭は、教会の喜びであり教会の繁栄でした。
子供が多ければ多いほどそれだけ天国に行く人々の数が増えると言うことです。お願いです。天主様の賜物を制限しないで下さい。家庭を崩壊させ健康を害し家族を壊し離婚へと挑発させるおぞましいスローガンに耳を貸さないで下さい。
この困難に満ちた時代に、都会の中で、その中で私たちが生きているこの有毒な環境において、出来るならば大地に戻って下さい。大地は健全であり、大自然は天主様を知ることを教えてくれます。大地は性格のバランスを取り、子供達が労働するように励ましてくれます。
そしてもしも必要ならば、あなたたちが自分の子供達に自分で学校を建ててあげて下さい。もしも学校が子供達を腐敗させるなら、あなたたちは何をするつもりですか?子供達をそのような腐らせる人たちの元に預けるつもりですか? 学校で怖ろしい性の実践を教える人たちに元に? それがブラザーやシスターの経営するカトリック校であっても、そこで正に罪を犯すことを教えられるところに? 実際問題に、子供達に性教育を施すところは、年端のいかない子供達を既に腐らせてしまうことです。あなたたちはそれを援助するのですか?
それは出来ません。あなたたちの子供達がむしろ貧しい方が、罪を犯すよりもましです。皆さんの子供達がこの世が持つ見せかけの科学から遠ざかっている方がましです。それよりも、彼らがよい子供達であるように、キリスト教的な子供達であるように、カトリックの子供達であり、聖なる宗教を愛する子供達、祈り働くことを愛する子供達であるように、天主様がお作りになった大自然を愛する子供達であるように。(つづく)
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