アヴェ・マリア!
ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話、1987年9月27日(その6)
兄弟姉妹の皆様、
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様(
Archbishop Marcel-Francois Lefebvre, C.S.Sp. †)のアンシーにおける講話の続きをご紹介します。
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)
Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.
音声ファイル:
Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne
or
Presentation de son livre " Ils l'ont decouronne" a Annecy
(つづき)
そこで私は、まだ何人か友達関係があるので、フリブールのことを考えました。何故なら私はフリブールの司教であるシャリエール司教(
Bishop Francois Charriere †)様のことをよく知っていたからです。
私はフリブール大学のことを考えていました。まだこの大学はこの当時、比較的伝統的で、神学生たちもよりよく養成されるだろうと考えたからです。しかしそこに数名がいるだけでは、長く続けることは出来ません。自分たちで何か組織しなければなりませんでした。そこで私はフリブールに足を運び、シャリエール司教様の同意をもって家を準備しました。シャリエール司教様はこう言ってくれました。
「どうか、何かして下さい。大司教様、私はまったくあなたの味方をします。全ては消え失せてしまいつつあると認識しています。私たちがどこに行くのか誰も分かっていません。私たちを教会をどこに連れて行ってしまうのか、誰も知りません。分かりますか?私は怖ろしく思います。」
シャリエール司教様もまた、これらの大変化で病となってしまっていました。そこでシャリエール司教様は私にこう言ったのです。
「何か家を借りなさい、町中に何かを借りなさい。私はあなたに許可を与えます。何かして下さい。」
そこで私はフリブールの町にたくさん部屋のある家を借りました。そして私たちは神学校を始めたのです。神学生たちは、フリブール大学にも通いました。ところが、フリブール大学さえも多くの革新によって影響を受け始めてきました。すでにドミニコ会司祭たちは講義の中で、婚前交渉は大変良いことであると説教をし始めていました! フリブールのカトリック大学で、そこまで来るともうお終いです。このような大学に留まる必要はもはやありません。それは出来ません。
そこでこうやって別の家を探し、アダム司教(
Bishop Francois-Nestor Adam †)様の許可をもって、私はエコンを見つけたのです。アダム司教様は、かなり聖伝的であったのですが、いろいろな出来事を目の前にして恐れをなしてしまい、残念なことに確固として留まりませんでした。
しかしアダム司教様はこう言って私たちに2つの家を与えて下さいました。
「大司教様、もしよろしかったら、ここに2つの家があります。お望みならば、あなたはここではご自由になさって下さい。」
そこで私たちはエコンの神学校を開きました。5年間は順調にいきました。しかし個人的には、劇的な事件が来るだろうと確信していました。
私はこう自分に言って聞かせました。「私は新しいミサを望まない。私は変化や典礼改革を望まない。私は神学校になされている改革を望まない」と。何故なら(その新しい改革によれば)神学生たちを教授会に受け入れ、神学生たちの意見を聞かなければならないことになっていたからです。「神学校の民主化」をしなければならないことになっていたからです。つまり、神学生たちも自分たちの要求や主張を取り入れることが出来るような大議会を設置しなければならないことになっていたからです。
その時です、ガロンヌ枢機卿(
Gabriel-Marie Cardinal Garrone †)が全世界の神学校でこのような指針を送っていたのです。それはだめです。出来ません。こうして神学生を養成するのではありません。私たちは聖伝に従って神学生たちを養成しようとしていました。それは私自身がローマで養成されたように、過去私たちが養成されたようにそのままの仕方で養成します。そこで私は、ある日、私は告発され狙われるだろう、と思いました。もちろんその通りになりました。
フランスの司教たちは、ルフェーブル大司教によってエコンで養成を受けた神学生たちがある日フランスに戻ってくる、と思うとぞっとしたのです。「そうなったらどうなることだろうか? 聖伝に従って教育を受けた司祭が、やってくる、自分たちの教区に来る、イヤだ!どんな値を払ってもそれはお断りだ。絶対ダメ、受け入れられない!」と。
そこでローマに苦情が上げられました。
極めて進歩主義者であったヴィヨ枢機卿(
Jean-Marie Cardinal Villot †)はすぐにこう言ったのです。
「そうだとも。エコンはもう終わらせなければならない。エコンの話はもう終了だ。廃校すべきだ。」
マルセイユの
エッチャガライ枢機卿(Roger Marie Elie Cardinal Etchegaray)はマルセイユのあらゆるところでこの噂を広めました。
「あのね、エコンはもう終わり。6ヶ月でもう話もしなくなるよ。終了。」
もちろん、そこでローマから視察団が送られてきました。全ては前々から準備されていました。プログラムはもう決まっていたのです。まず視察団を送る、つぎにルフェーブル大司教を調べる、それから廃校の教令。「終わり!神学校を閉めなさい。廃校です。生徒たちを家に帰らせなさい!」しかもこれを学期中にその真っ最中にする。一学年が終わるのさえも待つことなく、私たちは5月の上旬でした、一学年は6月に終わるのです、それも許されないとされたのです。
「さあ、さあ、神学校を閉めなさい。教授陣を帰らせなさい。神学生たちを家に帰らせなさい!」
ウソのような話です。しかし人間的にいえば、彼らの行動のやり方を良く見なければなりません。暴力的で、悪意に満ちたやり方でした。もっとも基本的なことをバカにしていました。最も基本的な礼儀もありません。全く何もありませんでした。人をはなからバカにしているのです。もちろん、そんなこと(=神学校の廃校)はそんな具合に実現されるわけにはいきません。まず不正義で不法なやり方でした。何故ならシャリエール司教様の後継者であった、マミー司教(
Bishop Pierre Mamie)様は、聖ピオ十世会を廃会する権利を持っていなかったからです。
ある司教様が一修道会を自分の司教区に受け入れ、創立するとすると、もはや彼はそれを廃止できないのです。廃止するのは、ローマでなければなりません。司教はローマに、ローマが修道会を廃会するように要請することはできます。しかし自分ではそうは出来ないのです。
もしそうであったら、あまりにも簡単すぎる、ということを皆さんはお分かりのことと思います。司教は自分の司教区において修道会の設立を許可します。司教が亡くなると、新しい司教が来てこう言う。「アァ、ダメ!私はこの修道会を望まない。終わり。出て行きなさい。廃止の教令、終わり!私はこの会を望まない。」こんなことは出来ません。理性的ではありません。このようなことはあり得る話です。そこでローマは教会法の中でそのことを明確にしています。ローマの方では、司教が自分の司教区である修道会を受け入れたのなら、それを廃止することは出来ないことになっています。もし廃止させたいなら、ローマに申請しなければなりません。ローマが廃止の教令を出さなければなりません。
ところが、マミー司教は自分で廃止の教令を出したのです。それは全く法的効果を持ちません。何でもありません。これは法に反しています。そこで私はそれを無視しました。そのために私は「聖職停止」になったのです。従って、私はそれも無視しました。何故なら非合法だと知っていたからです。私は手紙を書きました。私はローマに裁判を申し込みました。私はそこでこの教令は非合法である、カトリック教会法典に反している、と書きました。あり得ません。私たちは続けます。何でもなかったかのように私たちは続けたのです。
「それでは、あなたは司祭叙階をしてまでも続けるのか?」
私は言いました。「はい、そうです。やめる理由はないからです。聖ピオ十世会は廃止されていない、何故なら廃止の教令は非合法であるから。もし望むなら、教会裁判を起こすことが出来ます、それは私の望むところです。しかし私たちを廃止することは出来ません。私は司祭叙階をし続けます。」 彼らの反応は「聖職停止」でした!
何故この「聖職停止」も何の価値も持っていないのでしょうか?何故ならこれは非合法な行為に基づくものだからです。非合法的であった行為の結果だからです。だからこの「聖職停止」も無効です。しかし彼らが私の顔に投げつけたのはこれでした。全ての司教区でそうでした。私はここに来ると、ここの司教は3,4日前にこう言いました。
「ルフェーブル大司教は「聖職停止」だ、そして反ローマだ、これに反対している、あれに反対している」と。これが人々が私に言う言葉です。反乱者、反抗者、などなど。
カトリック教会が現実に、今おかれている状況に自分の身をおいてみる必要があります。これは大変重要なことです。
その時、私たちはこう言わなければなりません。
天主様は私たちの事業を祝福して下さっている、と。私たちはそれを考えられないやり方で見ています。何故なら、1970年以来、オラニエ神父様が1971年に叙階され、聖ピオ十世会の最初の叙階司祭でした。1971年、この叙階式以降今現在(=1987年)まで、私は約325名の司祭を叙階してきました。すでに小さな軍隊です。
そして天主様のお恵みで、私たちの神学校は増えました。何故なら私たちには今、6番目の神学校がオーストラリアで開かれようとしているからです。ですから、私たちにはエコン、フラヴィニー、ドイツのツァイツコーフェン、アメリカの神学校、アルゼンチンの神学校があります。そして今ではもうすぐオーストラリアの神学校です。
(つづく)
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