Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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12月20日の晩課のマニフィカトのアンティフォナより

2007年12月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、12月20日の晩課のマニフィカトのアンティフォナをご紹介します。

O clavis David, et sceptrum domus Israel; qui aperis, et nemo claudit; claudis, et nemo aperit : veni, et educ vinctum de domo carceris, sedentem in tenebris, et umbra mortis.

おぉ、ダヴィドの鍵よ、イスラエルの家の王杓よ、御身が開け給うと誰も閉じられず、閉じ給うと誰も開けられぬ。来給え、闇と死の影に座る鎖で繋がれた者を、鎖の牢屋から導き出し給え。




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12月19日の晩課:マニフィカトのアンティフォナ(別訳)

2007年12月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

O Radix Iesse, qui stas in signum populorum, super quem continebunt reges os suum, quem gentes deprecabuntur : veni ad liberandum nos, iam noli tardare.

 兄弟姉妹の皆様、ラテン語の os には、口という意味と、骨という意味があります。以下に、口という意味に解釈した場合の訳を掲載します。

 おぉ、イェッセの根よ、御身は民々のしるしとして立ち給い、御身の前に王たちは自分の口を慎み、異邦の民々は御身に祈らん。我らを解放せんために来たり給え、もはや遅れ給うなかれ。

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待降節第三主日の書簡より

2007年12月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 待降節第三主日の書簡より(Epistle for the Third Sunday in Advent, Philippians iv, 4-7)

Fratres: Gaudete in Domino semper: iterum dico, gaudete. Modestia vestra nota sit omnibus hominibus: Dominus prope est. Nihil soliciti sitis: sed in omni oratione, et obsecratione, cum gratiarum actione, petitiones vestrae innotescant apud Deum. Et pax Dei, quæ exsuperat omnem sensum, custodiat corda vestra et intelligentias vestras, in Christo Iesu Domino nostro.

主において常によろこべ。くりかえし言う、よろこべ。すべての人に柔和を示せ、主は近い。何事にも心配するな。すべてにおいて、いのり、ねがい、感謝して、求めることを天主にいえ。あらゆる人知を越える天主の平和は、あなたたちの心と思いとを、キリスト・イエズスにおいて見守ってくださるであろう。

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ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話、1987年9月27日(その8)

2007年12月20日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話、1987年9月27日(その8)

 兄弟姉妹の皆様、
 1987年9月27日、ルフェーブル大司教様(Archbishop Marcel-Francois Lefebvre, C.S.Sp. †)のアンシーにおける講話の続きをご紹介します。

1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話
(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)

Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.

 音声ファイル:Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne or
Presentation de son livre " Ils l'ont decouronne" a Annecy

(つづき)


 もしも私たちがダダをこねているとか、教会を分裂させようとしているという人がいたら、それはそのようなことから、私たちは遙か遠くに、およそ遠くにいます。私たちは何も変えなかったのです。私たちは続けているだけです。いつもそうしていたように。私は個人的に何も変えませんでした。全く何も。教義においても典礼においても。私たちは神学校で教えられた通り、義務として私たちに教えられた通り、ミサを守ること、教義を守ることを、絶対的に続けているだけです。

 ところが突然、ある聖職者が新しい指針を押しつけたのです。全くリベラルな新しい教会の指針です。私たちはすぐにこう考えました。

「これは教会の大惨事になる。大惨事だ!」と。
 事実、私たちはこの大惨事を今この目で見ています。

 教皇様のアメリカ訪問のときになされた新聞の記事を御覧になるだけで充分です。アメリカではどこまで行っているのかを知るのに。アメリカのカトリック信徒たちは同性愛を擁護しています! こんなことがあり得るのでしょうか? 教皇様が同性愛にノーと言ったとして、アメリカのカトリックは教皇様を攻撃している、ウソのような話です。アメリカの司教たちは司祭の結婚を要求しているし、女性司祭を求めているのです。アメリカの司教たちは! 私たちは一体どこにいるのでしょうか? 教会に何が起こったのでしょうか?

 教会に何も起こらなかったなどと言わないようにしましょう。

「間違っているのはあなただ、あなたは自分のやり方を変えようとしない、自分の見方に固執している。あなたは間違っている。あなたは適応しなければならない!」とよく言われます。

 一体何に適応するのでしょうか?私は言ったことはこうです。

「もしも私が現在、神学校を現代に適応させるなら、もう神学校のドアに鍵をつけることができます。そうなったらもう終わりです。他の神学校と同じように、もう成功しなくなってしまいます。もしも彼らが新しいやり方のために、召命がなく、多くの神学校を閉鎖せざるを得なかったのなら、同じことが私の神学校にも起こるでしょう。もしも同じ原理を適応させるならそういう結果になります。反対に、信仰において、聖伝において神学校を守るなら、召命はやってきます。真面目な召命が多くやってきます。そして仕事はなされるのです。」

 淑女、紳士の皆さん、以上です。皆さんを励まし、私たちが反抗しているのでもなければ教皇様に反対しているのでもないということを理解するために、以上のことを言うことが出来ると思います。私はいつもその通りでしたし、私はそれを神学生たちや司祭たちに繰り返して言います。「教皇制度に忠実であれ!」と。

「あれっ、でもあなたは教皇様に忠実ではありませんね!」

 教皇様が私たちの信仰を守らないなら、私たちの信仰を助けようとしないなら、そのことにおいて私は教皇様に従うことが出来ません。残念です。しかしこれは、家庭の父親が子供達に、デパートで物を盗んでこい、と言うのと全く同じです。例えば食べ物が必要だ、デパートでかっぱらってこい、と。子供達は行かなくてはならないのでしょうか? いいえ。盗んではなりません。盗むことは禁止されています。同じことです。

 エキュメニズムをしなければならない、といいます。全ての宗教と兄弟関係を結ばなければならない、と言います。全ての宗教は同じであるかのようにしなさい、といいます。出来ません。私たちは信仰を失ってしまいます。それはなりません。

 私たちの信仰に毒を盛ろうとしているのでしょうか?私たちはそれに同意は出来ません。私たちは信仰を守ることを望みます。たとえ教皇様がエキュメニズムの道を奨励していたとしても、です。

(つづく)

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